世界中に波紋を投げかけています。
民族主義、ナショナリズムはいつの時代も扱いをあやまると,災いをもたらす
厄介な感情にもなります。民族主義はいつも無頼の砦と化す危険を抱えています。
日本でも1930年代無謀な戦争に突入したのは、この民族主義的情動も大きく関与していました。戦後、この国体思想は何だったのかを分析して、論壇に若くしてデビューし、瞬く間に時代の寵児となった人が丸山真男です。
”超国家主義の論理と心理”のなかで,昭和日本のファシズムはほかの国の近代国民国家のナショナリズムと明らかに異質である。個人の自由な判断、主体が無い、近代市民社会の欠けた村落共同体のままであった日本が、天皇制のもとで、教育勅語などの国家神道を中心とする教育を通じ、内容的価値の実態を伴って統治したものであったと明快な理論で分析しました。
また”軍国支配者の精神形態”で軍の支配分析を行い,その後 ”日本の思想”で日本の
特性の由来を分析しさらに多くの賛同者を得ました。
丸山真男が最も活躍したのは1950年代後半から1960年代で、多くの人たちにとって彼は民主主義の指導者であり、戦後民主主義の教祖でもありました。
時代は、ちょうど吉永小百合がキューポラのある街で有名になり、その映画が当時
の日本の流行思想でもあった時代でした。
1960年の新安保条約反対のオピニオンリーダーでした。この年の5月に安保条約改訂は岸内閣によって強行採決。6月15日全学連主流派の安保反対デモで,樺美智子さんが死亡。
その頃から,戦後民主主義のオピニオンリーダーはその思想そのものやアカデミズム体質を批判されるようになりました。
1960年中頃からは,日本が高度大衆消費社会となりつつあり、また、丸山真男
が病理とした前近代的で西欧より劣っているとした日本の文化が逆に肯定的に評価
され始めました。
あまりに西欧的で、西欧近代の視点からの丸山日本社会論は力を失い、1960年代
後半には全共闘の批判の的となり、1969年拠点の東大法文2号館が占拠破壊され、
失意の内に,定年を待たずして退官されました。
戦前の1930年代から40年代、蓑田胸喜らが超国家主義の先導者たちの時代とするならば、戦後から1960年まではその思想の全否定の時代でした。時代精神もまた流行があり、後の時代からみれば真理がかならずしもいつも主流を成す訳ではありません。
”最後に”
誰かが私を笑っている
向こうでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
最後に笑うものが
最もよく笑うものだと
でも私は
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
樺 美智子