2020/09/01

芸術とアート 岡本太郎から村上隆

 岡本太郎と村上隆




 岡本太郎は1911年生まれる。一人で18才から29才にかけて1930年代のパリで暮らし、新しい芸術運動の抽象画からシュールレアリズムの画家として生活を始める。絵画の色をぬったり、形にこだわったりする、その美をつくる芸術とは何か、人間とは何かといったその根源を求めて、ソルボンヌ大学で哲学を学び、やがて民族学に出会う。


 民俗学では、世界中のあらゆる地域から集められてくる人々のつくったもの、そこに見られる想像を超えた人間の生き方の多様性、人間の全体、いのちの根源からふき出した世界に魅了された。古代からの人間の生み出したものの中に、絵とか芸術などという分化された価値観を根底からひっくり返す、現代先進社会の虚飾の虚しさを超えた宇宙的存在感に出会った。


 人類学では人間存在の善と悪、美と醜、生と死のなまな実態を知り、人間を理解する民俗学に強烈に惹きつけられ、人間とそれを生み出す芸術とはなにかをパリ大学で学んだ。その頃14才年上のバタイユと出会い、その思想に共鳴し、彼の主催する秘密結社アセファルに加わる。岡本太郎は後年この若き日を、「情熱の塊のような彼との交わりはパリ時代の最も充実した思い出」と語っている。


 ジョルジュ バタイユは人間の本性を古代文化の中に見出した。アステカの神話では「神々の犠牲で動き出した太陽が大地を照らし、太陽が存在し、機能するために心臓と血を持つ人々を食べる、その太陽が輝き続けるために人間もまた生贄を捧げ続けなければならない」と信じていた。そのためのピラミッドをつくり、その祭壇ではその神話により、戦争で捕らえた捕虜の生贄が火の中に投げ込まれた。


 アステカ文明では富を蓄え、その富は非生産的活動、生贄などの儀式、部族間の戦争、モニュメントの建造などが行われ、その富を使い尽くすことが権力者、国王に求められた。そこでは、人間が生きてゆくために大切なものを滅ぼし、蕩尽し、その瞬間、聖なるものが意識の前に現れると考え、宗教としての儀式が荘厳に行われていた。


  バタイユは人間存在の根源から、経済学を組み立て、呪われた部分として発表した。その中で、浪費あるいは奢侈について、地球の生命は太陽のエネルギーに依存し、植物が生まれ、それを食べる草食動物が生まれ、さらにそれを食べる肉食動物が生まれた。それらの生き物には、自然界の三種の奢侈である食べること、死そして有性生殖が組み込まれている。 そして、動物から人間への過程で、人間は労働を通して動物から区別する、そして労働と死と性の活動に禁止という名の制約を課した。「人間は労働しながら、自分が死ぬだろうということを理解しながら、恥じらいのない性活動から恥じらいを知った性活動へと移行しながら動物性を脱した。」


 禁止とそれを破る活動、呪われた部分は、労働においては、 経済合理性に合わない遊び、蕩尽、祭儀そして死においては供犠、性においてはエロス。この禁止と侵害の交錯する世界から生まれる神聖、恍惚は人間の本性であり、芸術や経済活動もまたその上に成り立つとした。


 岡本太郎は、1940年日本に帰国し、初年兵として戦場におくられる。戦後、1949年と50年非合理的な情熱と合理的な構想が合体した前衛的絵画作品「重工業」「森の掟」を発表する。

 西欧文明の源、ギリシャ、ローマと対峙したケルト文明はいまではほとんど消え去り、その思いではアイルランドに見られる。無限に旋回し、流れ、くぐり抜けていく紐組紋が輪廻や永劫回帰の呪術的信仰から生まれたケルト芸術として残っている。これと同じように 日本文化と呼ばれる秩序だった、繊弱で、平たく、こじんまりした弥生的王朝的な芸術に対して、奔放な流動性を持った、生命感を持った形態の縄文芸術の中に、自らの根源に相通ずるものを発見した。

 1950年から60年代、西欧的近代主義と日本的伝統主義両方とも蹴とばして、新しい芸術をつくる活動、絵画から彫刻、グラフィクデザインや家具、建築そして出版や講演で時代を動かす活動を開始した。銀座の空にヘリコプターで絵を描き、飛行船絵を書いて飛ばす映像の演出も試みた。



「生産と蓄積が善の世界で、ある時それが逆転して猛烈な消費が生きがいとして行われる。祭りだ。この時人間は日常の卑小な枠を超えて、絶対、つまり宇宙と結びつく。私は万国博をそのような意味での祭にすべきだと思っている。」その芸術を実現したのが1970年大阪の万国博覧会で、お祭り広場に縄文的黄金マスクの「太陽の塔」を残した。



 


 芸術は商品ではない、芸術とは全人間的に生きることであるとして、ヨーロッパで近代の芸術は生み出された。一方、1960年代アメリカで、個人の好みと企業の利益をエネルギーにした、高級文化と俗物、安っぽさ、キッチュの通俗文化の境界をなくしたポップアートと呼ばれる芸術が現れた。芸術の中心がパリからニューヨークに移り、アンディー ウオルホールは毛沢東やマリリンモンロー、キャンベルのスープ缶を画面に並べて、芸術作品にした。毛沢東とマリリン モンローはは同じ芸術テーマであり、政治も歴史もない象徴として切り取られ画面に貼り付けられた。


 「お金を作るのは技術だし、働くのも技術だし、うまくいっている商売は一番最高の芸術だ。」として、芸術も文化も商品になり、経済的活動にしてしまう。全ての価値が消費する人のお金の評価に還元される資本主義の国アメリカでは、アートギャラリーはスーパーマーケットと同じであり、美術館もテーマパークと同じになった。そしてその高踏的芸術を消失させ、絵画のマーケットは世界中に広がっていく。


 1962年生まれの村上隆は、日本画から出発し、DOB君をデビューさせ、アメリカのグローバルな美術界でローカルなフィギュアを創り認められる。

 資本主義経済を徹底させることでアートとして成功する構造が、アメリカを中心にした西欧社会の構造ができた。そして1990年代から2000年にかけて現代芸術はブームに乗った作品は、驚くべき値段で売れていった。「人間の欲望は抽象的な部分だけでなく、大きい熱病のようなものが本当に渦巻いています。リアルな欲望の元に生まれた金(マネー)というものは実戦でしか観察できない。その意味においてわれわれアーティストは金(マネー)の実態探しに付き合わされてしまっている冒険家なわけです。」


 ベルリンの壁がなくなり、絵画や美術館など芸術の世界にロシアや東欧、中国やオイルマネーを持った国々が利益と社会的地位の上昇を狙ってアドヴァイサーを雇って最良のものを手に入れる競争に参加した。さらに北京オリンピックの北京国家体育場の、鳥の巣のデザインしたアイ ウエイウエイなど中国では多くのエリートが芸術家を目指し、ビジネスを理解し、西欧式アートに進出した。

 

 日本人画家で孤軍奮闘していた村上隆は、2010年にカタールのスポンサーでベルサイユ宮殿で個展を開催した。その後も仏教の世界、五百羅漢を大画面で現代によみがえらせ、ドラえもんを題材にした作品を創り出し、芸術をスーパーフラット化して様々なインパクトのある世界を生み出している。


 日本もバブル期に世界の美術品を買い集め、日本画家の絵も国内で高額で買い求められた。その崩壊後、美術も世界経済、新自由主義的資本主義とは距離を置き、海外への目線は閉じて、国内の内向きの風潮にあわせて弱気(ナイーブ)になり前衛的(アヴァンギャルド)精神は消えてしまった。


2020/08/14

巨大建築の魅惑 ザハ ハディド


   鳥の羽毛の美しさはその生物の持っている生まれつきののもので、、孔雀は多彩色の羽根でそれを美しいと見る雌を誘惑し、種を永続させようとしている。鳥や昆虫にとって色彩は生存に必要なデザインであり、形や大きさも適応により決まってくる。30メートル越す巨大な恐竜にはそれに対応する植物や環境があり、様々な色彩をまとい、その大きさにあった構造の体を持っている。美しく、強ければ敵や競争相手の雄に勝ち子孫を多く残す。しかし、大き過ぎても華やか過ぎても、環境に適応できないと生物は滅ぶ。


 人はその美意識から美しい言葉をつづり、美しい音楽をつくり、美しい色彩の絵を描いた。人は言葉以前に未分化な神秘の感動を持っていた。人は古代から呪術を信じ、神を崇拝し、ユートピアを求めた。その精神を現実世界で形にした巨大な宗教的建造物をつくった。  建築は最初は環境から身を守るもの、そして神に祈り、祖先を葬う宗教的記念の意味合いの記念物として始まり、その後、キリスト教では教会や大聖堂が建てられ、イスラム教のモスク、仏教では大伽藍や仏像が建てられた。


 富が蓄積し権力が集中すると、貴族や権力者は、それを誇示するために多くの財を投じて無駄使い的消費を行うことで、自己の優越性を示した。そして足利義満は金閣寺建て、ルードヴィッヒ二世はバイエルン城を、ルイ14世はベルサイユ宮殿を建て、そこで生活した。建築の美は富に支えられ、権力の象徴となった。


 近代になり社会は、物を生産し保存することと、人間の命の再生産、維持の二つの主要な活動領域を持つ合理的で功利的社会を作り上げた。消費行動も、これに見あったもので、禁欲的で過剰であってはならない社会規範のもとにあった。


 20世紀になると、鉄やガラスコンクリートを素材とした建築が可能となった。この近代(モダーン)主義の建築は、今までの公共建築の古典的様式を否定したフランス人ル コルビジェの装飾を排した「家は住むための機械である」で始まる。バウハウス運動の中心のグロピウスは「あらゆる造形芸術が目指すべき目標は建築にある」としてワイマール時代の芸術運動の中心になり、やがてドイツを追われたミース ファンデルローエはアメリカに亡命し、単純で合理的で機能的なビルを建てた。この高層ビルはアメリカの都市から世界に広まっていった。その後継者ミノル ヤマサキの設計で、ニュヨークのワールドレイドセンタービルが1972年に建てられた。


 同じ年の7月、ミノル ヤマサキ設計のブルーイットアイーゴ住宅団地がダイナマイトで破壊された。セントルイスのこの住宅の治安悪化による破壊は、古い様式ではなく単純で機能的なモダニズム(近代)建築の終わりを象徴する出来事だった。

 その後はポストモダニズムと呼ばれる建築、芸術としての建築と商業建築の境はなくなり、ラスベガスの建築もまた立派な建築になり、そして装飾性も復活した。さらに、新しい技術(テクノロジー)によって純粋に新しい形態を実現する脱構築主義と呼ばれる建築が世界中にあらわれる。


 第二次世界大戦ののちソ連の社会主義陣営にアメリカの消費社会が主導する西側陣営が勝利をおさめたつつあった。 1960年代、アメリカでは生産や工業化を重視する時代からしだいに、脱工業化の消費社会に変わりつつあった。ソ連の社会主義計画経済による工業化に対して、アメリカの豊かさは消費生活の豊かさで、コカコーラを飲み、スーパーマーケットには商品があふれ、人々は消費する生活を楽しんだ。

 

 この消費社会が日本で始まるころ、1964年に東京オリンピックが開催され、1970年(昭和45年)に大阪万博が開かれた。このころの日本の新しい建物、住宅団地はモダニズム(近代)的日本建築で、都会のオフィスビルも終戦から復興に向かう60年代は、このモダン主義の流れを受け継いでいた。

 その代表が1964年の東京オリンピックの会場となった国立代々木競技場で、丹下健三氏設計の日本的モダニズムの先端建築であった。6年後の大阪万国博覧会では岡本太郎の芸術は爆発し、丹下健三設計の「お祭り広場」の近代的な大屋根を、縄文的モダーンでベラボーな70メートルの巨大な太陽の塔がその屋根をぶち抜いた。今は大屋根は消え、太陽の塔が残っている。日本の建築は、今でもモダニズムの建造物が、主に建てられている。いわゆる脱構築主義と言われる建物は少なく、フランク ゲーリーのかわいい鯉の像はあってもスペイン ビルバオのグッゲンハイム美術館のようなの巨大建物は見ることができない。



  この1970年代に始まった豊かさを求める大衆消費社会では、豪華な美術館や博物館そして新しい都市の建設、ブランドの商品あるいは絵画などに芸術的価値が求められ、過剰な消費を世界にもたらす。アメリカ、日本そしてヨーロッパやアジアの5ドラゴンと呼ばれる西側民主主義国では、人びとは旅行をし、車に乗り、化粧品、ブランド ファッションが飛ぶように売れ、新しい建築も流行の建築家のデザインで世界中に広まっていった。

 欲望には際限がなく、消費は、どこまでも拡大していった。その後、オイルマネーと呼ばれるお金を手に入れた産油国のお金もちは、砂漠の中に巨大な都市や、巨大な建築を流行の建築家に設計を依頼し建造した。ベルリンの壁がなくなり、中国がこの消費社会に参入し、豊かになった。中国やその他の国では、経済力と政治的権威が合わさって、その象徴として、斬新な建築が、膨大な資金を使って次々と建てられた。

 その中で最も突出した才能が時代に共鳴した建築家がザハ ハディドで、斬新で壮大な彼女の作品は、大衆消費社会の波に乗って、技術の進歩とあいまって、21世紀の代表建築になった。


 ザハ ハディドは1950年に、イラクのバグダットに生まれる。 1972年イギリスの建築専門大学に学び、1980年代からヨーロッパを中心に建築や都市設計を行い、初めはヨーロッパ、イギリスのトラファルガー広場の再開発、ベルリンの都市設計やヴィトラシ社消防署、そしてアメリカやアジアに活躍の場を広げ、1980年代香港の都市設計「ザ ピーク」で壮大な都市構想を設計した。

 20世紀末から21世紀にかけて、台中の美術館、カタールのドーハにイスラム美術館など、世界中の美術館から設計依頼が殺到し、潤沢なオイルマネーに支えられ、中東のサウジアラビアの地下鉄駅 EUAアブダビのシェイク ザイード橋、ドバイのオペラハウスなどが建てられた。その後、アゼルバイジャンのバクーにはヘイダル アリエフ文化センターがその魅惑的なデザインと機能の組み合わせで絶賛された。中国では上海や北京のビルだけでなく2019年9月に一億人の利用する、ハディド設計の新たな北京大興国際空港ができ、最新の情報機械を完備した空港として開港した。 

 一方、日本でもこのザハ ハディトの設計で2020年東京オリンピックの新国立競技場のデザインが、最初のコンペで選ばれ、実現の予定であった。しかし、財政的理由か、周りの環境を突破するデザインのためか、最終的には日本に作られることはなかった。実現したのは木の庇のより日本的建物だった。


2020/07/26

不機嫌な時代の書 吉田兼好の徒然草



 此頃都ニハヤル物    
 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
 生頸 還俗 自由(まま)出家
 俄大名 迷者
 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
 本領ハナルヽ訴訟人 
 文書入タル細葛(ほそつづら)
 追従(ついしょう)、讒人(ざんにん)、禅律僧 
 下克上スル成出者(なりづもの)


                  京都二条河原落書    建武元年(1334年)8月


 後醍醐天皇は1288年に生まれ、1318年天皇となる。その当時南宋で儒教から、
人間、社会、宇宙を「理と気」からなるとした、壮大な学問体系の朱子学が生まれた。それが大陸より日本にも移入され盛んになった。
 新しい物好きの後醍醐天皇は、この朱子学を学び、政治に用い、家柄に関係なく有能な人材を側近に取り立てた。そして真言密教の一派、立川流の信奉者でもあった。この密教の呪術を自ら行い、密教の僧の演出で、宮廷でも無礼講が開かれ、地位を問わない人々の集まる場を作った。それが、やがて反幕府の人のつながりを作り、その後の茶寄り合いや連歌の席の流行を作る。
 茶寄り合いでは、会所に人が集まると、まずくずきり、酒、そうめん、そしてお茶が出され、それを味わい、小休憩をして庭を散策した後、茶会が開かれる。その茶会の席には、仏画が飾られ、周りには、唐絵、障子のふすまにも唐絵が、唐風の花びんには生け花と、唐風の香炉に香がたかれ、お茶の種類を当てる闘茶が行われる。そして夜になるとお酒を呑んで舞管弦の演奏を耳にして、歌いの宴が延々と続く。

 後醍醐天皇は、朱子学の名分論をよりどころに1324年の正中の変、1331年の元弘の変と呼ばれる倒幕運動を起こすも、鎌倉幕府に敗れ、隠岐の島に流される。1333年後醍醐天皇は、再び起ち、あやしき民、武装商人の名和長年によって伯耆国の船上山に戻る。そして、楠木正成など各地の武将が倒幕に加わり、足利尊氏もまたこれに呼応し決起する。そして同年6月鎌倉幕府は崩壊し、建武の新政が開始される。

 

  この天皇親政では、後醍醐天皇のいない時代の公厳天皇の即位を認めず、その時の任じた官位も無効とした。そして天皇がすべての政治を行い、訴訟を決める体制を開始した。中国の王朝にならって権力の一極集中を進めたものの実行する機関が機能せず、身内の追従や近臣の内奏で朝令暮改がはなはだしかった。

 この天皇親政の試みは二条河原の落書など、痛烈な諷刺の対象となった。官軍への恩賞乱発に伴う成り上がり貴族や、にわか大名が現われ、鎌倉時代を支えた坂東武士の誇り、道理の意識が低下し、京の都の風俗の退廃も起こり、御家人世界の秩序の崩壊から、下克上の始まりとなる。

 建武の親政下の腐敗や堕落は、足利政権に引き継がれていった。 足利尊氏は後醍醐天皇から鎮守府将軍に任命されるも、建武の新政権の混乱の後、醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を樹立した。
 その政治の立て直しに鎌倉幕府と同じような「建武式目」を定め、君と臣はそれぞれの名分にもとるふるまいをしてはいけない、君臣の分際を守るべきとした。また風俗の乱れや、奢侈に対して、「倹約をおこなはるべき事」の規定で「近日婆娑羅(バサラ)と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし。頗る物狂と謂ふべきか。」としてこの風潮を押しとどめようとした。

 しかし、足利幕府が茶寄り合いや連歌会を禁止したにも関わらず、婆娑羅(バサラ)の世界は各地に広がっていった。一方足利政権の中枢もまた、三代将軍義満になると、王朝趣味と異国趣味に染まり、武士としての権力を王朝的儀礼で権威づけ、花の御所室町殿をつくり、金閣寺を完成した。そして、異国の大陸から多くの装飾の品を手に入れ、自らは明の皇帝に臣属し日本国王と名乗った。将軍のえこひいき、汚職政治、朝令暮改、賄賂の横行など鎌倉時代の武家政治の道理による支配は消え去り、室町幕府もしだいに弱体化し、その権威は回復しなかった。

 天皇が南朝と北朝に並立して、室町幕府の権威の正統性は定かではなくなり、伝統的権威は失われ、社会的規範が崩れてくると、各地にエゴイズムが噴出した。中央に対して地方の守護大名は伝統的権威を無視し嘲笑的対応をとっていった。彼らは道義や道理ではなく、世間とか、その場の勢力関係で行動を決めた。庶民もまた、農業を捨て系図を買い、侍身分を手に入れ、あるいは身分の分からない足軽となって守護などの抗争の兵士になり、まさに下克上の始まりになった。やがて応仁の乱に突入し戦国時代にいたる群雄割拠、むき出しの実力闘争の時代になって行く。


 吉田兼好は後醍醐天皇より5年早い1283年に生まれる。そして北条政権が倒れ、後醍醐天皇の建武新政権の樹立とそのあわただしい没落の後に徒然草は描かれた。仏も神道も朝儀礼節もない、不機嫌な時代、社会的無規範時代の人々の生活や世相、自らの想いをつづった。

 五十八段で「勢ある人の貪欲多きに似るべからず」第百六十五段では「顕密(顕教や密教)の僧、すべて我が俗にあらずして人に交われる、見ぐるし。」と後醍醐天皇やその密教に対しての苦い思いを書きつづり、 後醍醐天皇の側近、日野資朝の学問に秀でた秀才の冷徹な振る舞いも批判的に描いている。

 百五十二段で西大寺の静然上人を西園寺内大臣が「あな尊の気色や」と尊敬の念を込めて見ていたのを「年のよりたるに候ふ」といって後日、老いたむく犬を送り届けた物語。百五十四段で雨の東寺の雨宿りの時体の不自由な人の集まりを見て、「もっとも愛するに足れり」と見ていたが、やがて家に帰り、鉢植えの曲がりくねった木を引き抜いた話を逸話を、さもありぬべきことなりと。
 また、第十段で、多くの工(たくみ)の、心をつくしてみがきたて、唐の大和の、めずらしく、えならぬ調度をどもを並べおき、前裁の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。と輸入した品々や豪華なものを並べたりする奢侈や、人工的な庭つくりは好まなかった。第十八段では、「人は、己れをつつましやかにして、奢りを退けて、材を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。」として絢爛華美な物狂の生活感覚を嫌った。
  また第七段で、「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」
 「ひたすら世を貪る心のみ深く、もののあはれも知らずなりゆくなん、あさまし。」と述べている。


自然を愛し、風流を尊び、もののあわれを知り、
高貴な人に憧れ、儚い世の中、無常を受け入れ、
仏に仕え、この世に執着しない、生きかたをした。
平静の心を保ち、書に親しみ、世相を描き、
その思いを綴って、残された文が徒然草だった。

2020/06/01

日本的美意識と庭


 一面の芝の庭が裏山を背景にして烈しい夏の日に輝いている。
芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏庭へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。

 
 昭和の庭園は、「豊饒の海」の場面に描かれたように、背景の裏山、庭石、楓そして青々とした芝に象徴される広々とした開放的な庭になった。 明治時代に、小川治兵衛が芝生を日本の庭園に取り入れ、大名屋敷のよく剪定された名木の庭から、山縣有朋などの政治家や実業家の岩崎小彌太たちが望んだ近代的な庭園に変わっていった。
 その特徴は、庭に琵琶湖から導いた水を引いて、多くの石や岩を使って滝や池を作り、その前の解放された空間は、芝が多く用いられた。植栽は赤松やモミジ、そして京都の山々が借景となっている。この無鄰菴庭園に似た庭が昭和の時代に入っても標準になる。苔むす環境でない、明るく、広い庭園には手入れされた芝と、庭石、そして刈り込まれたツツジやサツキ、楓が植え込まれている。


 「見渡せば春日の野辺に霞立ち 咲きにほへるは桜花かも」

 万葉の時代、野山にはヤマザクラが自生していた。 奈良時代には、仏教とともに隋や唐の文化が流入し、そして珍しい植物も日本に輸入された。今までの日本には自生していなかった梅やヤナギが大陸から渡来し、流行した。

 7世紀の推古天皇の時代にはすでに庭園が貴族の生活にはふつうに見られるようになった。広大な自然を取り込んで、限られた空間にそれを再構成することが行われ、庭は、仏教の極楽浄土を表現したものだった。石を組んで人工的な水の流れを作り、緑の樹木を配置して、鳥のさえずる空間を造形した。 その庭に植えられた植物には桃、梅や柳があった。 当時、土氏 百村の「梅の花咲きたる苑の青柳を かずらにしつつ遊び暮らさな」と梅を詠んだものは多く、この新しい園芸品種が流行していたことがわかる。

 平安時代になると貴族によって、古代からの浄土教寺院の世俗化ともいえる阿弥陀堂の前庭に池や島をつくる、寝殿造りの庭園が広まった。部屋から見渡す庭には春や秋の草花を植え、その中にある人工の河の上に船を浮かべ、歌を詠んで楽しみ、夜には、月明かりの淡い光の下で集まり、自然を楽しむ、自然主義の庭だった。
 平安時代の後期に書かれた「作庭記」は、石をたてん事まづ大旨をこころうべき也、から始まり、生得の山水を学ぶとして、ともかく人の作るものより、自然の姿、風景が優っているので、庭石もなるだけ自然らしく石を組み立てるべきである。池岸、池底、流路には石を敷きつめ、築山し、滝をつくり、樹木を組み合わせる。全体の構成は、風情をめぐらし、おもしろきことが大切と記している。

 鎌倉時代から室町時代にかけて、再び大陸の影響で禅の文化が日本にもたらされた。庭には常緑樹のシイ、イヌツゲ、シャクナゲ、カシ、ヒイラギ、マキなど平安の庭には見られない種類の木々が使われるようになった。

 室町時代に雪舟は中国の明に渡り、南宋画を学び、それを日本の山水画にした。この水墨画はいろいろな自然の中の、本質的なものを象徴的に単純に表現する。 当時京都は応仁の乱で混乱し、山口に移った雪舟は医光寺の住職となり、庭造りにもその才を発揮し、今に残る庭園をつくった。陽光の下に、水と植物と岩を使って、芸術としての庭を作る。原生の林で出来た裏山を借景として、岩を組んで枯れ滝をつくり、浮き石を配置した池庭をつくり、池のまわりに低潅木のツツジやカエデを植え込んで、山水画を描くように、庭を造った。
 応仁の乱の後、時の将軍、足利義政は現代にも続く、住まいや華道の源流、東山文化を作った。築庭に情熱を注ぎ、禅宗の影響のもと、日本古来からの美意識と共鳴し、日本の風土に合ったものとして完成したのが銀閣寺とその庭園で、東山丘陵を背景にした、煌びやかな色彩を使わない幽玄の美を完成した。


 この時代に、新たに自然を狭い空間に圧縮して、象徴化する枯山水が造られた。白い砂の上に様々な大きさの15個の岩を配置した龍安寺の石庭、さらに大徳寺の大仙院につながる、禅から生み出された、現在の抽象画のような庭が完成した。最初の枯山水は作庭記にも記載されている、それが山水画や禅の思想の影響のもとに、禅の庭の名で呼ばれる枯山水として発展した。

 その後江戸時代にかけて様々な形の枯山水の庭が造られる。銀閣寺の向月台もまた江戸時代に、東山からのぼる月を待ち、杉の木の向こうから次第に浮かぶ月の光の下で、輝く銀の砂の庭として完成された。 将軍毛利家の家老桂運平忠晴によって造られた月の桂の庭もまた、岩の上に岩を重ね、その砂に月が光る、そこに団子と小豆がゆを供え、月待ちの行事の舞台となる。
 西行の月すむ空へのあこがれ、足利義政の東山文化のかたぶく空の影をしぞ思う心、それを庭で造形し、夜空の下の月の輝く世界と共鳴する、静寂の空間を生みだした。
 そこには華麗で秩序だったベルサイユ宮殿やアルハンブラの庭、あるいは日本のきらびやかな金閣寺の庭には無い、それとは対極の侘びの美を見いだし、現世の限りない権力への執着や富への欲望を断ち、色彩を抑え、無常観をたたえた庭となった。

 戦国時代になると、茶道を極めた千利休が露地に庭をつくった。それは、樫の葉の散りつもる、奥山寺の道にたとえ、露地に落ち葉が積もっているのが重要で、そのまま掃かぬが巧者なりとし、また庭木には花のある木を嫌い、カシ、シイ、ユズリハなどの照葉樹林系の常緑樹とその二次林の落葉樹であるカエデ、マユミ、ヤマウルシなどが良いと、「茶の湯六宗匠伝記」で述べている。
 自然のままの、木々と石を配置した露地草庵と呼ばれる茶庭と極小の茶室の世界、無彩色の楽茶碗や万代屋釜を使い、茶杓も自作した美意識に徹した世界を生みだした。千利休によって、わびとさびの日本文化が完成し、日本中に広まっていった。

 日本的庭は、日本の美意識に合ったもの、一切の無駄を排し、色彩を抑え、自然のままの石やシンプルな植生を組み合わせた築山、枯山水、露地の庭になった。その様式が、庶民の庭にも採り入れられ、昭和の時代まで続いた。

  「おほくの工の心をつくしてみがきたて、唐の、大和の、めずらしく、えならぬ(素晴らしい)調度どもならべおき、前栽の草木まで心のままならず(あるがままで無く)作りなせるは、見る目もくるしく、いとわびし」 
   
                          徒然草      吉田 兼好

2020/05/04

ザリガニの鳴くところ  Delia Owens




ホタル

愛の信号を灯すのと同じぐらい
彼をおびき寄せるのはたやすかった。
けれど雌のホタルのように
そこには死への誘いが隠されていた。

 1969年10月30日の朝、アメリカ南部、ノースカロライナの海岸沿いの沼地に、チェイス アンドルーズの死体が横たわっていた。物語は、この死体を、火の見やぐらに遊びに来た二人の少年が見つけたことから始まる。

 湿地は、沼地とは違う。湿地には光が溢れ、水が草を育み、水蒸気が空に立ち昇っていく。穏やかに流れる川は曲がりくねって進み、その水面に陽光の輝きを乗せて海へと至る。いっせいに鳴きだした無数のハクガンの声に驚いて、脚の長い鳥たちが まるで飛ぶことは苦手だとでもいうようにゆったりとした優雅な動きで舞い上がる。

 アメリカの南部、ノースカロライナの街、バークリー コーヴ、その中心街の西のはずれにカラード タウンそしてその奥の湿地には、貧しい白人の住まいがある。その中に右足に重傷を負い体の不自由な退役軍人の父親シェイクと母親マイクそして5人の子供たちが生活していた。 オークの林に囲まれた、湖面には多くの生き物が波に揺られ、林の向こうの海から、潮風とカモメの声が運ばれてきた。末っ子のカイアはその自然の中の生き物たちと暮らした。砂にうごめくカニ、泥の中を歩きまわるザリガニ、水鳥、魚、エビ、カキ、太ったシカ、丸々としたガン。

 カイアが6歳の時、母親はワニ革の靴を履いて家を出た。やがて、三人の兄や姉も家を離れた。そして、年の一番近い兄ジョディーも家を出て、父親とカイアだけの生活が始まった。ノースカロライナの野生のみずみずしい世界を友にして、自然の持つ美しく、時には狂暴なその秘密を見て育った。

 カイア10歳の時父親も、帰らなくなり、一人で貝を採って生活し、学校は1日いっただけで、逃げ出し、字も計算も知らなかった。14歳になって、ジョディーの友達のテイトから、初めて文字を習い、数字も学び生物学や詩を学んで、自然の中の秘密を表現できる喜びを発見した。やがて生物学の本や、「野生のうたが聞こえる」や「レベッカ」を愛読し、大人になっていった。
 
 カイアはほかのホタルにも目をやった。雌たちはお尻の光らせ方を変えるだけで、いとも簡単に望みのものを 最初は交尾で、次は食事を手に入れていた。ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこには悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるにしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって変わるものだと捉えられている。

 自然界では、たとえば角が大きいとか声が低いとか肩幅が広いといった優れた二次性徴や、高い知能を有する雄が最上の縄張りを確保することができる。彼らは自分よりも弱い雄を追い払えるからだ。雌は、このような秀でたアルファ雄を交尾の相手に選ぶことで、より良い染色体DNAを子孫に残そうとする。これは、生物の適応や存続を可能にする非常に有効な手段である。
 しかしながら、発育が不良で腕力や容姿が劣っていたり、あるいは知能が足りなかったりしてよい縄張りを得られない雄も、あの手この手で雌をだまそうとする。虚飾や偽りのメッセージを使ったりどさくさ紛れのずる賢い手を使って、精子競争に勝とうとする。

  ザリガニの鳴くところってどういう意味があるのと、カイヤがテイトに聞く。母さんが、いつもこう口にして湿地を探検するように勧めていたことをカイアは思い出すのだ。茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所ってことさ、とテイトが言う。
 カイアのただひとり、心の許せるテイトも大学に進学し、生物学者になるため、またこの地を離れた。

 物語はやがて成人となったカイアが、1970年ノースカロライナ州バークリーコーヴ在住のチェイス ローレンス アンドルーズに対する殺人容疑で裁判にかけられる場面へと展開する。

 波乱の生涯を送った”カイア”、1945年生まれの湿地の少女、キャサリン ダニエル クラークは生物学の著者として2009年、64年の生涯を、ザリガニの鳴くところで閉じた。


 愛もまたうつろうもの
 いつかはそれも、生まれる前の場所へと戻っていく。



 著者のディーリア オーエンスは著名な動物学者で、アメリカ南部ジョージア州で生まれた。ジョージアやノースカロライナ州などのアメリカ南部地帯の気候は、日本の東京などの都市と同じ北緯35度で、暖かく湿気も多く、オークやヤマモモ、ヤシの木も育ち湿地にはガマが繁茂しスイレンも花を咲かせている温帯湿潤気候で、フィッツジェラルドがセルダに出会うのもこの土地で、セルダは晩年この地で過ごした。

 ディーリア オーエンスはジョージア大学を卒業した後、マーク オーエンスの動物行動の研究のためのフィールド ワークに加わって、南アフリカのボツワナのカラハリに向かった。カラハリ砂漠近くのデセプション バレーの草原地帯、動物たちの楽園にランドローバーに乗って、到達した。その自然の中の大木の陰に、静かに、野営のためのキャンプ場を設営する。そのまわりには声をあげながらレイヨウは集まり、集団で生活していた。彼ら野生動物は今まで人と遭遇することなく暮らし、人を恐れず、自然のままの生活を送っている。シマウマ、レイヨウなどの草食動物とそれを狙う肉食のライオン、ジャッカル、ハイエナたち。そこでネコ科の今までほとんど生態が知られていないブラウンハイエナと遭遇する。
1984年、カラハリでのキャンプ生活、サバンナに住むハイエナなどの生態の記録「カラハリ アフリカ最後の野生に暮す」をマーク オーエンスと共著で出版した。

 その後、続編「The Eye of the Elephant」で再び、アフリカ南部の野生の王国に戻り、ライオンと再会し、ザンビアの象と住民の生活を冒険小説にした。そして「ザリガニの鳴くところ」は著者ディーリア オーエンズが69歳で執筆した初めての小説で、2019年アメリカで最も読まれた本になった。

2020/04/17

パンデミックの記憶


 概して我々は、死亡率は低いが早晩自分たちが関わることになるはずの現実的な病気より、自分たちがほとんど罹りそうにもない高い死亡率を持つ病気の方にずっと恐怖を抱くものである。

            史上最悪のインフルエンザ   アルフレッド w  クロスビー

 人類は、動物から人間に感染するようになった病気の影響を、長い歴史の過程で幾度も受けてきた。約1万年前に、犬を飼い、犬とともに暮らし始め、豚を飼い、牛や羊を飼い、それによって動物の病原菌であったヴィールスは変化し、人間だけが罹患する病原菌になった。新型インフルエンザは豚の体内で変異し、人に感染し流行した。

 生物は進化の過程で自分の子孫をばら撒き、生き残るため、様々な形態を生み出した。病原菌にとっては自分の子孫をばら撒き、生きながらえるには、どれくらい多くの人間に次から次へと感染できるかにかかっている。罹患者がどのくらい長い間感染源としていられるのかと、病原菌がどのくらい効率よく感染するかによって決まる。あまりに強毒性のものは、病気が広がる前に、宿主がすぐに死亡し、かえって感染は広がりにくい。

 インフルエンザ、風邪や百日咳は個体に咳やくしゃみをさせ新たな犠牲者に移っていく。コレラ、ノロウィルスはひどい下痢をさせそれによって感染が拡大する。咳は人間から見れば病気の症状である、しかし病原菌から見れば進化の過程を通じて獲得した生存のための策略である。病原菌は動物を病気にすることによって個体を増やし、生き延びるための環境を作りだす。病原菌が有効に伝搬するために、下痢を起こさせたり咳をしたりといった様々な方法をとりウィルスを拡散させ人から人へとその住みかを広げていく。

 それに対して人間は体温を上げて菌を殺す、あるいは免疫システムを使って菌を殺す。
風疹やマシンは一度かかると一生かからなくなる終生免疫を獲得する。ところが病原菌よっては抗体に認識されないように抗原部分を次々と変化させる作戦を取る。インフルエンザは変異を起こし新型のインフルエンザが次々と登場することのよって毎年生き延び活動する。
 
 パンデミックを起こしたインフルエンザは、突然流行し始め短期間の間に集団全体が病原菌にさらされてしまう。そして一部の人は死亡し、多くの人は回復し抗体を作る。感染者の数の減少とともに、ウィルスは人の体内でしか生き残れないので流行は終息する。ウィルスもまた進化の過程でより多くの子孫を残すことができるウィルスが生き残る。


 1918年から19年にかけてスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザがパンデミックをおこした。アメリカでは1000人あたり280人が罹患し、全人口の25%、アメリカ全土で2500万人がかかり死者は60万人以上に登ると推定された。
 
 1918年春に悪性の風邪が流行し始め、第一次世界大戦の最中、アメリカから大部隊の兵員が船で次々と、ヨーロッパ戦線に渡った。そしてヨーロッパの戦士から市民にこのインフルエンザは蔓延し、世界中に広がっていった。8月の後半になって、アフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスは変異し、強毒性のインフルエンザとなり、9月はじめに、アメリカ東部の地域からこの流行が再び始まった。
 アメリカ東海岸の170万都市のフィラデルフィアの当時の記録がある。
 最初の頃、インフルエンザの流行はわかっていたが、余計な恐れは必要ないとする論説が米国医師会雑誌に載せられていた。しかし、9月29日からこのインフルエンザで死亡する人は急速に増え、一週間で706人になった。10月3日の夜、市はすべての学校、教会、劇場その他の大衆娯楽施設に閉鎖命令を出した。その後も死者は急速に増えて、第二週には2600人、第三週には4500人以上が亡くなった。、人々は病院に殺到し、それらの人々で溢れた病院は機能麻痺に陥った。公的施設も機能しなくなり、公共サービスは大混乱に陥った。公共サービスのうちとりわけ深刻だったのは遺体の埋葬作業だった。埋葬できない死体がたまって人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせることになった。10月10日で759人の市民の死亡数に達した後に次第に流行は下火に向かった。10月の末にはしだいに学校や教会、劇場やサロンが再開されていった。
 11月11日第一次世界大戦は終結した。その後一週間の死亡者数は164人、次の週は103人、次は93人と減少し、流行は終息した。アメリカでの死者は68万人にも及んだ。
 一般の感染症と異なり、このインフルエンザは子供や老人の死亡率より、20才台30才台の元気な人々の死亡率が非常に高かった。「ミラボー橋」で有名なフランスの詩人アポリネールとオーストリアの画家クリムトはインフルエンザにかかり死亡し、アメリカの小説家フィッツジェラルドはインフルエンザの流行のためヨーロッパ戦線には参加しなかった。そしてニューヨークヤンキースのベーブルースはインフルエンザにかかるも生還した。

 大正時代、白樺派の代表作家武者小路実篤の小説「愛と死」の中で、主人公の婚約者がフランス留学から帰る船の途中、スペイン風邪で亡くなる場面がある。当時人々は船に乗り国外に行き来し、インフルエンザは瞬く間に世界中に広まっていった。太平洋上の島々でも船による人の移動で、このインフルエンザは蔓延した。
 サモアの島々でも広がったこのパンデミックは、統治国の対応で明らかな死者の差が生まれた。西サモアではインフルエンザが蔓延し多くの死者を出したにも関わらず、アメリカンサモアでは死者は出なかった。当時その島の統治をしていたボイヤー知事は強力なインフルエンザ対策を徹底した。外からやってくるすべての船舶の検疫を強化し、インフルエンザにかかった患者が治って10日経過しなければ入港を拒否し、他に海岸でボートでの着岸を禁止した。郵便物は2時間の燻蒸消毒を行い、荷を扱う人にはマスク着用を義務ずけ、アメリカ海軍からインフルエンザワクチンも入手した。このワクチンは結局無効であったが、この検疫は1920年の中ごろまで維持された。



 日本では、このスペイン風邪による死亡者数は1918年6万9820人、1919年4万1986人、1920年10万8428人にのぼった。1度目の流行では、10月に急速に死者が増え、そのピークは1918年の11月そして、2度目のピークは1920年の1月だった。1回目の流行時全国民の37.3%がかかりその死亡率は1.22%、2回目は患者数は10分の1と少なかったものの死亡率は5.29%と高く、ウィルスの変異による悪性化が原因と推定される。流行の4週間で患者数はピークに達し、4週間で流行は終息している。

 内務省衛生局は「全世界を風靡したる流行性感冒は大正七年秋期以来本邦に波及し爾来大正十年の春期に亘り継続的に三回の流行を来し総計二千三百八十余万人の患者と約三十八万八千人余の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を呈したり。」と報告している。
 

 このスペイン風邪は、第1波がおさまった後、強毒性となった第2波、第3波と世界中に広がり、世界のすべての大陸、太平洋上の島々や極地にも拡散した。ワクチンも有効な薬もなく世界で2000万人以上の死者を出して、集団の多くの人が感染し、抗体をつくり集団免疫を獲得して終息した。

2020/03/22

イギリス中世の森



汽車に乗って、
アイルランドのようないなかへ行こう。
人々が祭りの日がさを くるくるまわし、
日が照りながら雨の降る、
アイルランドのようないなかへ行こう。
まどにうつった自分の顔を道づれにして、
湖水をわたりトンネルをくぐり、
めずらしい顔のおとめや牛の歩いている、
アイルアンドのような田舎へ行こう。
                                丸山 薫



 アイルランドの島の大部分はかつて巨大なトチノキ、ナラ、カエデの広大な原生林に覆われていた。山岳は急峻でなく、標高1000メートル程で、現在は、泥炭地や低潅木のヒースに覆われる。古来原生林の中は一つの生態系をつくり、枯れた木もまた甲虫類の生活の場となりウサギなどの小動物の住処となり、枝は枯れて地面に落ち、枯葉と共に木々に栄養を与えていた。

 アイルランドと同じように、イギリス本島は、大西洋からの西風を受け、湿った空気が嵐となり、丘に吹きつける。急な山がないため平らな土地は、低潅木のヒースの茂みを作り、ひらけた場所に立つ野生のオークなどの木があり、家畜がすむ牧草地になった。排水の悪い多くの場所は湿地帯となった。
 17世紀には、造船の為にオークやもみの木は大量に伐採された。1000トンの大型軍艦一隻を造るのに、樹齢100年のオークの木が2000本必要とされた。オーク材は腐りにくく、自然にカーブしているものもあって、船体用の板材として最適であった。さらに、鉄やガラス、あるいは陶磁器、塩の製造にも木材が大量に使われた。こうして、アイルランドもイングランドも古代からの森林は消えていった。

 18世紀のイギリスは、国土の多くに水路が造られ、そこを船で木材や穀物さらには塩などを運ぶ、物流の主役は水運だった。1840年から50年にかけて、鉄道が全国に広がる共に、人口も増え、広範な湿原は、排水され、肥沃な土壌の農地に変えられていった。産業革命以降にイギリス全土から90%の湿地は姿を消し、低地のヒースの原野は80%消えた。

 イギリスは第二次大戦の時、食料確保のために、原野を酪農と耕地にするため、開墾をすすめ、必要な木材を手に入れるためにさらにオークなどの木々を切り倒した。その代わりに麦畑などの穀物が造られ、そして森林と生垣がわずかに残された。その結果、牧草地は38%くらいあるのに比べ、森林は8%と少なくなっている。20世紀の終わり、国が補助し政策的に進められた農業の合理化、近代的工業型農業の方向はいきずまった。世界のグローバル化で小麦や乳製品は、世界の穀物との競争にさらされ、国の補助金がいくら支えても、将来性の見えない状態になった。

 同じ頃,イギリスでは農地の環境的価値を高める、庭園復元のプロジェクトが始まり、それを受けて、耕作地を野生にもどす、クネックパークの野生化計画が2000年に動き始めた。その土地に自生していた種子を採取して蒔き、自然をなすままにし、そこに動物を放った。ハイイロガンは大量の沼地の植物を食べることによって、葦がはびこり、ヤナギが生えて、沼地が消え去るのを防いだ。さらに草食動物によって自然の植生が低木からやがて高木の密林になるのを防いだ。草食動物の野牛、野生の馬、野ブタをその土地に放ち、開けた場所に立つ野性の木、低木、そのまわりを野生の牛、馬が草をはむ牧草地からなる、中世の森林牧草地を復活させた。ここでは植物と小動物と、昆虫とありとあらゆる生物が生息できるようになり、本来の自然が戻ってきた。
 
 樹木の植生は、寒帯では単調、温帯では複雑な生態系をなし、熱帯は生物の多様性がが見られ、動物植物のありとあらゆる種類の宝庫となっている。氷河期に北半球では、氷が南に進み、多くの植物を枯らした。森林は氷河期の影響を受け、北方の森林はその後、生存に勝ち残ったもののみ構成され、単調で、種類は少なく、多様性は失われている。一方、熱帯の森林はどんどんと多様化していった。この多様性こそ地球上の生命の本来の姿だった。

 この生物の多様化は、有性生殖による。オスの遺伝子とメスの遺伝子が子孫に半分ずつ受け継がれ、その子孫はさらに4分の1の遺伝子が受け継がれ、多様な遺伝子が混じり、生物の多様性が生まれ、生き残ることができる。植物も生き残るために、有性生殖をする、植物は受粉するための花粉を運ぶ動物、昆虫が必要でこれらは共に進化する。植物は甘く、栄養のある花蜜で動物を惹きつけ、昆虫や鳥は植物の色と香りにひかれて集まってくる。動物がいなければ植物は生きられないし、また植物がなければ動物も死に絶える。

 この有性生殖を支える共生の物語は、イチジクとハチの間に見られる。イチジクの若い実の中は、花がうちに向かってついている。その花が受粉すると、成長して種をつくる。これにはイチジクバチの存在が必要になる。雌のハチはイチジクの中に入り実の中の花に卵を産む、そしてそこで雌バチは死んで、卵は幼虫となり、イチジクの実の中でその身を食べて蛹となり成虫になる。そして雄バチはそこから飛び出し雌のいるイチジクに向かう、その時花を受粉させる。

 このように1種類のイチジクには、1種類のイチジクバチが存在する、それを介してイチジクは750種類にもわかれ亜熱帯から熱帯地方に広がり、植物として世界中に広く分布し、4000万年も前から生き残り、繁栄した植物になった。さらにこのイチジクの身をコウモリや鳥やそのほかの生物の食糧となっている。この長い時間をかけて出来上がった地球上の複雑な生態系はハチがいなくなったら瞬く間に地球上から消えてしまう。
 
 同じように、このオークの木はその繁殖をカラス科のカケスに頼っている。オークの実は樹齢20年位なってからどんぐりとなって地上に落ちる。そのほとんどは動物に食べられるか、腐ってしまう。やっと根がついても日光が当たらない木の下では育たない。この実が育つためには、捕食者に食べられないために土の中に埋める必要がある。その役割をカケスが果たす、一ヶ月に7500個以上のドングリを集め、元の木から遠く離れた周りに木のない低木の土の中に、50センチほど話して埋める。これを食料として保管しておく。4月から8月のは他に食べ物がたっぷりあるためこのドングリは5月に芽を出し、6月に葉が開く。カケスはひなにこの幼い葉を食べさせる。こうしてカケスによって植えられた苗木は、多くの子孫を残すことになる。

 オークの木の根は、樹冠よりはるかに大きく広がっていて、広大な木の根の周りにその生命を支える複雑な共生関係にある菌根の世界がある。この糸状の菌根が、オークに水と必要な栄養素を届ける。そのお返しに植物は炭水化物を与える。これは動物が海から陸に上がった時カルシウムを体内にとどめて使っているのと同じように、水中に豊富にあったリン酸を植物が多くの種類の菌根菌類を使って、取り込み、さらに、分子レベルのシグナルを送って他の木々に化学物質を出させる。

 この植物の菌根システムは、動物の体内の免疫系やその他の化学物質の伝達、あるいは腸内細菌の果たす役割に似ている。地球上の生命は、動物も植物も多くの生命体の織りなす非常に複雑で入り組んだシステムでできていて、いまだその全容は解明されていない。自然界には、何百万もの種と相互関係を築いている種が、何百万も存在し、細菌やウイルスも重要な役割を果たしている。この相互依存関係は30億年の年月をかけて作り上げてきたもので、今でも、熱帯雨林や温帯の原生林のちょっとした変化から複雑な変化をきたしうる、その複雑系はそれがどのように変化するか、現在のコンピューターでも描き出せない。この複雑系の中心である森の木がなくなれば生命はすべて消滅する。

 この森の木と野生生物の再野生化がイギリスのクネップ試みられ、中世の森が復活した。






 参考  英国貴族、領地を野生に戻す       イサベラ トウリー著 三木直子訳