2026/10/10

鎖国日本の窓、近代国家オランダ




  今年の秋、大阪の中之島美術館でフェルメールの真珠の耳飾りの少女が公開された。17世紀のオランダ絵画は、レンブラントやフェルメールなど日本でも人気が高く多くの人が訪れ長い列をつくっていた。


 1500年を境に世界は前近代から近代に入る。オランダがこの文化技術革命、自由な思想、科学、出版文化の中心地になる。1600年徳川時代の最初の頃の人口は日本約1850万人、スペイン約824万人、ポルトガル約200万人、イングランド約415万人、オランダ共和国約150万人であった。

当時の日本はヨーロッパのどの国よりも人口も多く軍事力も強かった。オランダ共和国は日本の人口の10分の1以下であった。オランダは1602年には東インド会社をつくり海軍、商業そして金融力を急速に伸ばしてきた。世界的な商業と海運国家になりアムステルダムには各地から商人、ユダヤ人亡命者、知識人などが集まってきた。そこでさまざまな思想の本が出版されヨーロッパ全体に広がっていった。


 1596年フランス生まれのデカルトがオランダに移住し、われ思う故に我ありとした理性が真理を見つけるという近代知識の出発点となった。そして自然を数学で記述する方法を確立して心身二元論を確立した。1632年生まれのスピノザが亡命ユダヤ人としてやはりオランダにやってきた。そして宗教でなく理性で世界を理解する、宗教と国家権力を切り離す考えを打ち出し、近代思想が始まった。



 そのオランダに1606年レンブラントは生まれ、1669年に亡くなるまで600点以上の絵画を残す。1632年にフェルメールは生まれる。1648年フェルメール16歳の時に80年に及ぶスペインからの独立戦を戦い独立を勝ち取る。そして共和政のオランダには豊かな商人階級が生まれ絵画の依頼人となった。市民社会になって、庶民も絵画を飾るようになり、その需要に応えるためにオランダには多くの画家が生まれ、パン屋と同じ数だけ画家がいた。そして画家はそれぞれ得意の分野を持ち、花を描く画家、食べ物だけを描いたり、牛を描いたり、静かな家庭の生活を描いたそれぞれの技術を洗練させ、絵画が大量に生産された。この繁栄の60年間に、歴史に残るオランダ絵画が描かれた。フェルメールはわずか37枚の絵を残し43歳で亡くなった。フェルメールの「兵士と笑う女」「青衣の女」「窓辺で水差しを持つ女」「絵画芸術」「リュートを調弦する女」など室内絵画の壁には世界地図が描かれたものが多くある。当時のオランダの人々が国外に関心を持ち、海洋国家として世界貿易に関与していたことがわかる。





 

 当時ヨーロッパには多くの王国が各地を支配していた。そのうちスペイン、ポルトガルは王権が強く、海外に進出し宣教師を送っていた。織田信長はカソリック教イエズス会のフロイスと会い、安土にセミナリオの建設さえ許した。 しかし秀吉の時代、1598年にサンフェリペ号事件が起きた。土佐浦戸にフィリピンからメキシコに向かう途中のスペイン船が遭難漂着した。その時のスペイン人の乗員が尋問で「世界の各地にスペインが領土を確保したのは、宣教師を送り、信者が増えたところで反乱を起こさせ、その混乱に乗じて軍隊を送り込み領土化する」と述べている。

 江戸時代、本国でスペインとの独立戦争を戦っていたプロテスタントの国オランダは、カソリック教のスペインポルトガルの排除に動いた。オランダは宗教でなく交易に徹し出島による幕府管理下の貿易形式を順守する。こうして日本とヨーロッパの貿易はオランダ東インド会社が独占するようになった。1641年オランダ人は出島に移され、他のヨーロッパ人は日本国内から追放された。


 徳川幕府は、儒教によって統治システムを作り、キリスト教は排除し、仏教は擁護した。デカルトやスピノーザの影響は全く受けることはなく、市民社会オランダの商人や庶民に人気のレンブラントやフェルメールの絵も日本にはもたらされることはなかった。

 国家統治の原理は儒教による修身斉家治国平天下であり、絵画は狩野派の豪華な絵が活躍し屏風は金の地に鷹や虎や龍あるいは植物などを配した豪華絢爛な絵が権力者の住居を飾っていた。日本の庶民が浮世絵を楽しむのは100年後になる。

 

 徳川幕府の社会の要請にマッチしたのは西欧、オランダの自然科学で吉宗の時代に洋書輸入の制限が緩和されると天文学、地理学、植物学、化学、物理学、軍事学など、かなり広範な知識を「蘭学」という形で日本に移入された。特に重要なのがオランダ医学であった。1774年には杉田玄白・前野良沢らによる『解体新書』が刊行される。こうしてオランダの実学を必要な部分だけ次第に取り入れて、国内の秩序を維持していた。


 同じ頃、ロシアのピョートル大帝は自らオランダへ行き、造船所で船大工として働き、オランダの造船技術を直接学んだ。そしてロシア海軍を作り、バルト海や黒海に進出した。200年経った幕末になるとになるとロシア・イギリス・アメリカなどの脅威を背景に、オランダから海軍、陸軍、砲術などの軍事技術を体系的に学ぶようになり、1855年以降には長崎海軍伝習所でオランダ人教官から航海術、砲術、造船などを学び始めた。

 徳川家康がピョートル大帝のように海洋進出したり、デカルトやスピノザに影響されたり、オランダ絵画に興味を示したら日本や世界は全く変わった歴史になったかもしれません。

2026/10/01

ドイツ憧れの80年 ein von Deutschland Bessener


 「死んでしまいたいとさえ思いましたのに、いつしか春も過ぎ、夏も過ぎ、秋さえ巡ってきてしまいました。とりわけ悲しいのは秋の空。常よりもなおまさる涙に枕も袖も濡れてしまって、ほのぼのと差し入る月影も曇り、春よりもいっそう朧になってしまいますと、形見に分けていただいた袖の面影も、想い出のよすがにさえなりそうもありません。」

                            石井 元政

 日本の秋の夜の虫の音、夜な夜な秋風とともの聴こえるこのもの悲しさ、無常感やメランコリーの心情は平安時代の藤原定家の「浦のあらやの秋の夕暮れ」から、江戸時代の石井 元政 そして明治時代から現代まで続いている。 

 悲しみや孤独のドイツロマン主義の時代が19世紀に起こった。画家たちは太陽よりも月夜、霧、海、森、廃墟などを好んで描いた。ロマン主義は理性よりも感性によって真理に近づこうとする芸術運動で、その中心にドレスデンがあり、1839年ヨハン クリスティアン クラウゼン ダールが「満月のドレスデン」を発表した。フリードリッヒは「月を眺める二人」カールスは「リューゲン島の月夜」エーメは「サレルノ湾の月夜」ギレは「月光習作」を描いた。日本人が秋の月を見てもののあわれを感じ、ドイツのロンマン主義は月夜の森に孤独を見る。

 明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて、右大臣岩倉具視を特命全権大使とするいわゆる岩倉使節団が欧米12カ国、120の都市を訪問して回った。団員には木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など後の政府の要職を占める若手官僚 約50名が随行すると言う政府を挙げての大視察旅行であった。この世界の現状認識から明治の新国家の形成に大きな影響を与えた。この視察旅行は、政治、経済、行政、工業、商業、教育、文化等近代国家なあらゆる側面を見て回るものであった。


 その中に、パリ市の記で「18世紀初頭にはルイ14世はヨーロッパで最も敬愛される帝王と称され、この時代ドイツの王侯はたちは、ルイ14世厚誼を得たいと考えて、競ってパリにやってきた。彼らはみなフランスの言葉やエチケット、風俗を模範として自国の宮廷にも移し替え、フランスのような専制政治の政体を基準としようと考えた。国民の間の議論を、王権の虚飾的外観によって威圧してしまうことこそ、優れた政策であると考えた。」

 この頃のドイツ貴族の少年たちのパリの遊学に対して、当時の批判が残されている。「当時のドイツの貴族たちが貴重な時間と金を無駄遣いしてフランスに遊学した結果はほかでもない。ただ軽薄に浪費をこととし、欲望ばかりがむやみに強く、傲慢無礼な振る舞いをしてあらゆるものを軽蔑し、廉恥心や道徳心を失ってしまった。放埒な快楽に走り、滑稽な虚飾こそ大切なことと考え、いたずらに外見を飾って人を騙すようなことばかり考えるようになった。」


  使節団は、その後ベルギーオランダの後プロイセンを訪れ、「この国の考え方は、英仏などより我が国の考え方と大変似ているところがある。この国の政治経済事情を研究することは、英仏の事情を学ぶより利益が多いことがあるだろう。」と記録されている。戦後アメリカのプラグマティズムや一時的に流行したフランス的享楽主義より明治初期にはプロイセン、ドイツに親近感を抱き、その制度を多く取り入れ明治の日本の形を作っていった。そしてこの制度や文化は戦前から第二次大戦中まで続いた。



 この使節団に加わった伊藤博文は欧州で各国の憲法を調べ、とりわけプロイセンの国家体制に強い関心を持ち、それを日本の憲法構想の重要な参考にした。陸軍についても、最終的にドイツ プロイセンの影響が非常に強くなる。特に徴兵制、軍の近代的組式、参謀制度、軍事教育などでドイツを参考にした。

 ドイツ留学生の活動の場は最初は医学校にで始まった。日本の医療システムはドイツのシステムを取り入れ、医局講座制ができ、それによって大学を医学教育と研究の中心にし、教授を中心に専門分野を作り、医学研究を重視するシステムが戦後しばらく続いた。 

 その後、医学という枠を超えて明治政府が推進するその他の分野にもドイツ留学組は活躍するようになった。内務省には品川弥二郎、外務省には青木周蔵、陸軍省には桂太郎などドイツ留学組が活躍し、司法省や文部省や大蔵省にもドイツ留学組が増えた。明治8年から30年までの官費留学生159名中104名、65%がドイツに向かった。

 明治5年(1872年)の最初の教育制度には、アメリカ的な学校制度の影響がかなり見られた。小学校を全国に作り、国民の基礎学力を上げる。しかし明治時代国家を支える人材、官僚、法律家、軍人、医師、技術者が必要となりその養成のためには、ドイツ型の帝国大学、旧制高校が作られた。

 この旧制高校では、ドイツのギムナジウムなどの影響を色濃く反映し、文学や哲学を寮生活の中で語る場となった。カント、ショーペンハウエルやニーチェなどの哲学書を読みトーマスマンやヘッセのドイツ教養主義文学を読み、それらをもとに人生を熱く語った。

 第二次大戦にドイツ日本は敗れ、日本はアメリカに統治された。そして憲法、法律、医療、教育あらゆる分野で、アメリカ型のシステムが取り入れられ日本の戦後が始まった。流行や文化もアメリカの影響が強く、第一外国語も戦前のドイツ語から英語に変わった。

 戦前のドイツかぶれの時代は80年で終わり、戦後80年経った今、アメリカ民主主義の輝きは急速に消えつつある。

 

2026/09/22

One patient come from border

 Recently, I reread Diamond Dust, the Akutagawa Prize–winning work by Keisi Nagi. The paperback edition contains three short stories written in the 1980s—“Adapting to Winter,” “The Long Shadow,” and “Fishing for Smelt”—all based on medical care for Cambodian refugees near the Thai-Cambodian border.

“One patient come from border.”

In the voice of a man speaking English with a Cambodian accent, those words sent the three of us toward the operating theater at Khao-I-Dang refugee camp, on the Thai-Cambodian border.

Through the dull green trees, our jeep raised clouds of reddish laterite dust. Patients were being brought in—some with legs blown apart by land mines. Every day, gunshot wounds and injuries caused by land mines were treated in the camp's operating theater.

Khao-I-Dang was one of the largest refugee camps along the Thai-Cambodian border. At its peak, more than 100,000 refugees lived there. The Khao-I-Dang holding center was administered by the Thai military, and at Task Force 80 along the road, everyone entering or leaving had to present an identification pass.

A Japanese medical team had a medical center in Sa Kaeo, on the Thai side, a short distance from the border. It had been built with Japanese assistance and included accommodation for medical personnel as well as inpatient facilities. We would leave there by minibus, pass through Aranyaprathet along the border, and after about an hour and a half arrive at Khao-I-Dang.

Once through the gate, the camp's Commander’s Office stood ahead. On either side of the road were the wards operated by medical teams from various countries. The Japanese team shared a building with the International Red Cross. Its walls were made of woven bamboo, with a corrugated metal roof above them. Large Red Cross symbols were painted on the roof so that the building could be identified from the air and spared from bombing.

There, we performed operations and treated hospitalized patients.

The first Japanese medical team was dispatched to assist Cambodian refugees in December 1979. Japanese teams continued to provide medical care in the border region for three years, until 1982. In total, 407 doctors, nurses, technicians, and other medical personnel took part. It was Japan's first large-scale humanitarian medical mission dealing with massive numbers of refugees in a setting completely different from medical practice at home.

In Japan, the principle seemed obvious: provide every patient with whatever treatment is necessary, and do everything possible to save each individual life.

But here, the circumstances were different.

Many of the patients suffered from land-mine injuries or gunshot wounds. When a leg had been destroyed below the knee, or an arm had been severely damaged, amputation was often necessary, but the patient's life could usually be saved.

Gunshot wounds to organs closer to the center of the body—such as the lungs, heart, or liver—were a different matter. Many patients died from massive bleeding before they could be saved. Even after reaching the hospital, patients with penetrating wounds of the abdomen or chest sometimes died on the operating table when transfusion and surgery could no longer control the bleeding.

When large numbers of critically injured patients require lifesaving treatment while medical resources are limited, an unavoidable question arises: who should be treated first, and what treatment should be given?

Triage becomes indispensable.

Yet at that time, the concept of triage—of determining the priority of treatment among patients according to their chances of survival—was not something that came naturally to us. In the medical culture of Japan at that time, it was taken for granted that every effort should be made to save every patient, regardless of the circumstances.

Meanwhile, the Vietnam War had become a quagmire, and the United States began bombing targets inside Cambodia. The bombing was not intended to strengthen the Khmer Rouge, but it contributed to growing anger and social disorder in the Cambodian countryside, which ultimately helped create conditions in which the Khmer Rouge could expand.

In 1970, Prince Norodom Sihanouk was overthrown, and the Lon Nol government came to power. Civil war in Cambodia subsequently intensified.

On April 17, 1975, before the fall of Saigon, the Lon Nol government collapsed. The Democratic Kampuchea regime was established under the Khmer Rouge, led by Pol Pot.

In a society shaped for centuries by Theravada Buddhism, a new ideology—communism—was introduced. It influenced members of the educated classes and gained support among some of them. Eventually, the Khmer Rouge seized power and began a political experiment fundamentally different from Western liberal democracy.

Pol Pot ruled through what was known as “Angkar,” while real power was concentrated in the Central Committee of the Communist Party of Kampuchea. A secret police apparatus exercised control over society.

During the years of the Pol Pot regime, approximately 1.7 million people died. Most of the victims, however, were Cambodians themselves. Intellectuals, urban residents, peasants, Buddhist monks, party members, and eventually even members of the Khmer Rouge itself were labeled “enemies.”

Pol Pot's radical ideology sought to create a “perfect” human being through revolution. Cities were abolished. Money, private property, and markets were abolished. Schools and religion were suppressed. The regime was also driven by an intense form of nationalism and hostility toward Vietnam.

Fueled by deep suspicion, the leadership gradually began to regard former supporters of the Lon Nol government, urban residents, intellectuals, religious figures, and eventually its own members as enemies who had to be eliminated.

When an ideal fails to become reality, those who are absolutely convinced of its correctness may begin to search for something that is obstructing it. An enemy is created, and the failure of the ideal is attributed to that enemy.

Then the purges begin.

At the end of December 1978, Vietnam launched a military intervention in Cambodia. On January 7, 1979, Phnom Penh fell, and a new government led by Heng Samrin was established.

As a result, increasing numbers of Cambodians fled the country. In October 1979, Vietnamese forces and the Heng Samrin government resumed military operations to consolidate their control over Cambodia. The fighting and political upheaval caused even more people to flee across the border into Thailand.

The world of Pol Pot seemed to resemble the “dark age” described in a nineteenth-century Buddhist prophetic text known as Put Thomniyay. The prophecy described a time when evil men would rule, cities would become empty, and starving people would chase dogs simply to find a single grain of rice stuck to their tails.

It foretold a time when the status of Buddhist monks would disappear, when wrong would be called right, black would be called white, and people would be made to believe that good was evil—the coming of a demonic king.

There was another Buddhist image associated with this dark age:

“Black crows scatter the seeds of the Rubea fruit across the land. The Rubea fruit is green and beautiful, shining on the surface, but inside it is filled with lice.”

The black crows could be understood as the Khmer Rouge.

The beautiful Rubea fruit represented the utopian promise of communist ideology.

And the lice hidden inside it represented the reality that emerged beneath that promise: killing, starvation, poverty, and suffering.

Why did such a catastrophe occur?

Was it an expression of something fundamental in human nature, as imagined in the Buddhist vision of the human world?

Was it the result of a misguided ideology carried to an extreme?

Or was Cambodia ultimately a victim of the political struggles and interventions of powerful neighboring countries?

The question remains open.

2026/09/19

One patient come from border

 


 最近、芥川賞受賞作の南木 佳士氏の「ダイアモンドダスト」を読み返した。この文庫本の中に1980年代に書かれた短編、タイの国境近くのカンボジア難民医療を題材にした「冬への順応」「長い影」「ワカサギを釣る」がある。


 One patient come from borderカンボジア訛りの英語の声で我々3人はカオイダンキャンプ、タイとカンボジア国境の難民キャンプ、の手術場に向かった。くすんだ、緑の木の間からラテライトの土埃を巻き上げてジープで地雷で、足を吹き飛ばされた、患者が運び込まれた。毎日銃創や地雷による怪我の手術がキャンプ内の手術場で行われていた。


 このカオイダンキャンプは最大10万人以上の難民が生活していて、タイ カンボジア国境最大の難民キャンプだった。このカオイダンの難民ホールディングセンターはタイ軍が管理し、途中の道路のTask Force 80で出入門証の提示が必要であった。 宿泊施設と入院施設を備えたメディカルセンターが日本の援助で国境から少し離れたタイ側のサケオに建てられていた。そこをマイクロバスで出発し、国境沿いのアランヤプラテートを通り1時間半くらいかけてカオイダンキャンプに到着する。カオイダンキャンプはゲートを入ると、 コマンダーオフィスに続いて各国の医療チームの病棟が道を挟んで向き合っている。日本チームの病棟は国際赤十字チームと同じ屋根の下にあって、竹を編んだ壁の上にトタン屋根がつけられ、空爆を避けるための赤十字マークが塗られている。そこで手術と入院患者の治療にあたった。


 1979年12月にカンボジア難民支援の日本の医療チームが最初に派遣され、その後、1982年まで3年間国境地帯の難民医療に当たった。医師、看護師、技師合わせて407名に及ぶ大規模な難民救援医療チームが戦後初めて国外に派遣され、大量の難民を相手に、日本の国内とは全く異なる診療を行なった。患者一人ひとりに必要な治療をできる限り行う。当時それが日本では当然だった。しかし、ここでは事情が違った。

 地雷や銃創による外傷患者が多く治療された。下肢では膝から下、上肢では切断が必要なことが多いものの生命は助かる。それより体の中心に近い肺や心臓や肝臓といった部位の銃創は出血のため多くは救命できなかった。病院まで搬送されても、腹部や肺の貫通銃創の患者も輸血を受け手術中に止血が間に合わなくなり亡くなっていた。限られた医療資源の中で、大量の救命治療の必要な人がいる場合、誰を優先してどんな治療をするかが問題となり、トリアージは必要不可欠になる。しかし当時我々の医療に命の選別、トリアージの考えは念頭になかった。


 ベトナム戦争が泥沼化して、アメリカはカンボジア領内の爆撃を開始した。この爆撃はクメール・ルージュの勢力拡大を意図したものではなかったものの、農村部の怒りや社会的混乱を拡大し、結果としてクメール・ルージュの誕生につながった。1970年シアヌーク追放によってロン ノル政権が誕生する。その後カンボジア内戦が激化した。

 サイゴン陥落より前の1975年4月17日ロン・ノル政権が崩壊し、民主カンボジア政権が誕生。これはポルポトが主導権をとるクメール ルージュの政権であった。  古い時代から続く、仏教の世界に、新しい共産主義という思想がもたらされ、それらが知識階級にも影響を与え、支持され、政権を取り、新しい政治が始まった。それは西欧民主主義とは全く異なる独裁体制で、ポルポトは「アンカー」として指導し、カンプチア共産党中央委員会が実権を握る、そして秘密警察が社会を支配した。


 ポル・ポト政権の時代、約170万人もの人が死亡した。しかし、その犠牲者の大部分はカンボジア人であった。知識人、都市住民、農民、僧侶、党員、さらにはクメール・ルージュ内部の人間まで「敵」とされた。ポルポトの過激な思想では「革命によって完全な人間を作れる」として都市を廃止し、貨幣を廃止し、私有財産を廃止し、市場経済を廃止し、学校や宗教も廃止しようとした。さらに強烈な民族主義、反ベトナム意識を持っていた。そして強い猜疑心からロンノル政権の人、都市住民、やがて知識人や宗教者を敵として排除しようとした。理想が実現しない時、自らの正しさに固執して、妨害しているものがいるためとして敵を作る。そしてその敵を排除しようとして粛清が始まる。

 1978年12月末、ベトナムはカンボジアへ武力介入。1月7日に首都プノンペンが陥落ヘン サムリン政権が誕生した。そしてカンボジアから国外脱出する人が、急速に増えた。1979年年10月ベトナム軍とヘン サムリン政権はカンボジア平定作戦を再開。これによって、さらに難民は増え多くの人々がタイに脱出した。


 ポルポト政権の世界は、19世紀に書かれた仏教の予言書「プト タムニヤイ」闇の時期、いわゆる暗黒時代について記されたとおりになった。「悪党が支配し都市から人影が消え、人々は空腹のあまり、尾に一粒のコメをつけた犬を追い回す。僧侶の身分は廃され、過ちは正しく、黒は白で、善は悪だと人々に思い込ませる悪魔の王が来る。」という予言の書であった。

 小乗仏教の教えの中に、 「黒いカラスがルベアの実を土地いっぱいに撒き散らす。ルペアの実は緑の球場で、外見は美しく光っているが、悪と中にはシラミが詰まっている。」黒いカラスはクメール ルージュで、ルべアの実とは理想郷的共産主義思想で、シラミとは殺人と飢餓と貧困の現実であった。


 なぜ、この惨劇が起こったのか。仏教の世界に描かれた人の本性によるものか、間違った思想の暴走か、あるいは隣国の大国の政治の犠牲なのか今でも議論されている。

2026/09/06

チンパンジーからホモサピエンスに




  チンパンジーと人類は700万年前に共通の祖先から枝別れして生まれる。チンパンジーはコモンチンパンジーとピグミーチンパンジー(ボノボ)の2種類が、その後生き残った。この二種類のチンパンジーの間では99.3%の遺伝子は共通で、わずか0.7%の違いのみである。チンパンジーと人間は98.4%共通の遺伝子を持ち、違いは1.6%である。人類の祖先は700万年前にチンパンジーの系統と別れ、体毛を失い、地上生活の2足歩行になった。この間様々な人類種が生まれた。、


 未開社会の人類の戦争は、チンパンジーの攻撃に似ている。未開社会のレベルでは、集団虐殺は稀な出来事だった。チンパンジーは消耗戦を仕掛けて、勝利を目指したり、緩衝地帯を作ったり、奇襲作戦をしたりして縄張りを守る。人と違うところは家族を形成することなくオスとメスは、別個の階層社会を作る。この階層社会は生まれつきではなく、子分を作り、集団を作り上げて地位を獲得する。体格が大きく強い事は重要だが、最終的には他のチンパンジーと協力する能力が支配権獲得の決め手となる。

 チンパンジーの社会は競争的で、政治的で、集団の間に順位が定まっていて、仲間と協力して同盟を作り、他者と競争する。他者との関係を利用して立場を強くし、食糧や繁殖をめぐって争う、といった人間社会によく見られる行動パターンが見られる。



 一方、ピグミーチンパンジ(ボノボ)は相手との関係をうまく保ち、争いを避ける能力が長けている。人間の友人関係、仲間同士の助け合い、争いを話し合いで解決するといった面をもっている。人間ではこれは文化や環境に規定されるものの、人類の頭脳には、様々な形の社会的協力を促進する能力が生まれつき備わっていて、共同体を組織することが自然なことで、協力して共同体を守る社会を築き上げてきた。


 チンパンジーは森の中で暮らしアフリカ大陸で現在まで生息している。人類は森の生活に別れを告げ二足歩行でサバンナで生活を始めた。様々な種類の人類が生まれ消滅していくうちに30万年前に、アフリカにホモサピエンスが誕生した。現在の人類とほぼ同様の骨格を持ち、その後アフリカを出て、ヨーロッパではその土地に古くから住んでいたネアンデルタール人と交雑し生き残った。現人類の遺伝子にはネアンデルタール人の遺伝子が数%含まれている。さらにユーラシア大陸の東のアジアではデ二ソワ人と交雑し、ホモサピエンス サピエンスとして生き残った。今でもパプア ニューギニア人は3%のデニソワ遺伝子を持ち多くのアジア人にも少量のデニソア遺伝子が含まれている。そのほかの多くの人類種は地球上でしばらく生存しその後消滅しした。


 人間の自然状態についてホッブスはリヴァイアサンの中で書いている。もっとも奥深い感情は、死の恐怖で、この死の恐怖すなわち生命を失わないようにするために、各人が持つ自由が重要である。人間の本性の中で競争と恐れと誇りの3つが争いの原因を作る。第一に、人々は利権を求めて侵入を行わせ、第二には安全を求めて活動し、第三は評判を求めて行動させる。そのようにして自然状態では、万人に対する万人の戦によって特徴ずけられる。


 ジョン ロックは自然状態のまま自由に規律を与えないと戦争状態になってしまうので、ホッブスが言うように自然的自由と財産を守るため社会契約が必要である。そこで国家が必要である。自然状態でも、人間には理性があり、他人の生命・自由・財産を侵害してはいけない、という自然法を理解できると考えた。ただし問題は、権利を侵害された時、それを公平に裁き、処罰する共通の機関がないことで、そのため人々は政府を作る。しかしその国家が自然権を否定して、権利を守らず侵害するなら、人々は、それに反抗する権利も必要となると考えた。


 ルソーはさらに違った考えで、ルソーの自然状態にいる人間は、ホッブズが描いたような他人と争い続ける人間ではなく、比較的孤独に生き、自己愛と哀れみの情を持っていると考えた。ところが、人間が社会を形成し私有財産が発生すると、これは私のものだという意識が生まれる。そこから比較、競争、嫉妬、支配・従属関係などが発生し、人間の不平等が拡大していく、とルソーは考えた。社会によって人間は不平等になった。だから人民自身が自由な政治を作り直す必要があると結論づけた。


 これは生物学的には人間の持つチンパンジー的要素とボノボ的要素が状況によって現れるためと推測される。そして人間は集団を作り、集団の間の対立の解消に外交による協力と互恵関係の平和な秩序が作られる、これが崩れると対立する集団に勝つための武力が用意される。集団の支配者の感情、状況の判断によってこれが実行されると戦争になる。

 このチンパンジーから進化した人類の遺伝子の変化が知能や創造力、攻撃性、哀れみの心といった感情に及ぼす影響はまだ完全にはわかっていない。



 1969年から1971年にかけてジョンレノンはベトナム戦争に反対して愛と平和(Love And Peace)の曲 Imagine, Give peace a Chance, War is over,を発表し、ボノボになった。

2026/08/30

止まらない温暖化止まらない戦争

 





                              




 鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ 

                             渡邊 白泉


 地球温暖化のためか晩夏の中、薔薇とハイビスカスやカンナが一斉に庭に咲き誇っている。日本各地でこの夏は猛暑と、線状降水帯による豪雨がおき、台風が8月中で最も多く発生した。世界中でこの温暖化の影響が目に見え始め、8月26日には中国とネパールの国境地帯の山岳で氷河が大量に崩落し、またたくまに街々を飲み込み、多くの死者を出した。 まさに地球は沸騰し、誰にも止められない


 日本の気候は平安時代や江戸時代そして昭和の時代までは比較的安定していた。それが急速に変化し、特に令和に入ると、夏は熱帯気候になって、熱帯のバンコクやシンガポールそしてタゴールの詩に読まれたベンガルの夏と変わりなくなった。植生も変化し、花の咲き方も変化した。日々の生活も変わり、日中は40度を超えるのも当たり前になり、日本より緯度の高いヨーロッパでも、クーラーなしでは過ごせないようになった。そして雨も降れば日本の夕立や南方のスコールとは全く違った線状降水帯と名づけられる猛烈なる雨量がいっきに降り注ぐようになった。


 平安時代の和歌「秋きぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞおどろかれぬる」 の風情は無くなった。季語は安定した日本の四季がある。それを定型化して生まれた。俳句では昔から季語は重要視されていた。その自然を読む俳句に対して、社会の変動、時代を読む俳句の必要性が生まれ、秋桜子は「俳句は景と情が渾然一致して象徴的に表現される抒情詩だ。」として俳句の改革を進めた。その頃、昭和初期に渡部 白泉は高屋 窓秋 の抒情的な新しい俳句に出会う。


      頭の中で白い夏野となっている            昭和7年


      ちるさくら海あをければ海へちる           昭和8年


 俳句に、季語のない無季の俳句が新興の俳句として1930年代に再興した。1931年(昭和6年)満州事変が起こる。時代は戦争に向かい、社会は激動し、人々の生活は変わり、自然のみを重視する季語の必要性が薄れた。白泉は鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ を昭和10年に発表し、時代情況を描写した句は季語はあってもなくても、二次的なこととして俳句の暗喩する詩性にかけた。


 真っ赤なカンナは人の目には、鮮やかに毒々しく映るが、真っ赤な鶏冠を持つ鶏にはかえって見えない。そして当時、人々は時代の先を見通すことができなかった。


     赤き犬ゆきたる夏の日の怖れ             昭和10年



     三宅坂黄套わが背より降車              昭和10年


 三宅坂は陸軍参謀本部のある場所で、カーキ色の外套(黄套)を着た陸軍将校が背後から下車した。その夏の日の不安と恐れ。国内の、統制は次第に厳しくなり、人々に恐れを感じさせる世の中に.変わっていった。



     戦争が廊下の奥に立っていた             昭和14年



 人の心に起こる気持ちは、時代や国を超えて共通のものがある。この句はまさに現在のウクライナの人々の心、ロシアの人々の気持ちでもある気がする。 誰も予想していなかった戦争が2022年に、突然始まった。ロシアのウクライナ侵攻は、5年目を迎え、世界を根本的に変えてしまった。今、AI搭載したドローンが領空深く侵攻し、爆撃し、また迎撃と偵察を常に行なっている。さらには兵士に代わってロボットが戦場で使われている。さらにNATOとロシアの間では、ハイブリッド戦争が繰り広げられている。まるで第三次大戦前夜の様相を示している。


 1920年代カーキ色の外套を着ることになる石原莞爾、武藤章、山下奉文、永田鉄山たちの陸軍のエリートはドイツに派遣され、軍事を研究し、帰国後、陸軍参謀となった。その欧州で目にしたのは、技術の急速な進歩で、第2次大戦前の社会で、経済と技術は急速に進歩し、車による輸送手段は発達し、航空機は急速に進化し、石油は戦艦の燃料となり、化学製品は様々な分野で改良が進み、これらが近代の戦場に使われるようになる。各国は一年の技術の遅れは国家の衰亡を招くとして、争って戦争兵器を開発し、進歩させ、その急速な実用化を目指した。石原莞爾は欧州の技術革新を目の当たりにし、戦史の研究から「世界最終戦争」の構想を発表した。


 現在の技術革新は、AIを中心とした人工知能の時代に入り、人間そのものを代替しつつある。それによって、負の側面としてのフェイクニュースの拡散や武器の生産が容易になり、際限無い進歩を遂げている。今世界は地政学的、政治的、経済的動機があまりにも強く、技術革新は全力で突き進んでいる。そして、人間の脳力や理性が追いついていけなくなる。そしてこれを誰もコントロールすることができなくなりつつある。


    桃色の足を合はせて鼠死す               1957年