2018/12/06

小林一茶 おらが春の世界


    祇園精舎の鐘の音
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必衰の    ことわりをことわりをあらわす


 平家物語は、日本を代表する抒情詩で、琵琶法師が読み上げた。 日本の文学は平安時代から、仏教思想の影響を受けた多くの文学作品が生まれている。同じ頃、西行が仏教的無常観を短歌につづり、江戸時代に芭蕉の俳句になり、世界的に高く評価された。


 旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

  Sicken on a journey,

    My dreams go wondering round

    Withered field.



  芭蕉は、禅宗特に臨済禅の思想から、高みを目指した句を作った。それは英語やその他の言語に翻訳され、世界に広がった。


  此の道や行く人なしに秋の暮

  Along this road

        Goes no one,

        This autumn eve.




 人々は言葉を話し、文章を書いて、物事を伝え、言語によって世界を組み立て、秩序づけ、時間と空間の中に意味ある世界をつくった。感情は歌や絵画や詩で表現された。詩から、字数を少なくした短歌へ、さらに極限まで言葉を縮めることによって俳句が生まれた。31文字から17文字にした時、その文字と空白が、共鳴し、鐘を鳴らしたように、部分が全体と響きあう悟りの世界になる。文字は圧縮され、論理ではなく、心の奥深いところにある、意識を超越したもの、禅の公案になる。説明的な和歌にくらべて、さらに圧縮した俳句の文字がある時、単なる諧謔から特異点で一変する。

        古池や蛙飛びこむ水のおと


  ルイス カーンが、「空間とは、自己の身体を包み、四方に広がっているものでである。それに限定を与えるものが、建築である。」とした。さらにこの空間を縮め、神聖な禅的な世界にしたのが千利休の茶の湯だった。

 プライスは、俳句は全東洋文化の精華である。俳句は禅の視点から理解すべきものである。言葉では述べることができない不立文字であり、禅を体現したものと捉えた。
 空間を極小まで縮めた茶室と同様に言葉を極小まで縮めたものが俳句であり、禅であるとした。これが、アメリカの作家サリンジャーなどの カウンターカルチャーに影響を与えた。

                                 雲の峰幾つ崩れて月の山


        静かさや岩にしみいる蝉の声                                                    

                                 芭蕉

        静かさや湖水の底の雲の峰

                                                                                           一茶   

 小林一茶は1763年信州に生まれる。15才になり江戸に奉公に出され、20代にして葛飾派3代目素丸の執筆となる。27才の時江戸を離れて、東北の旅に出る。30才になり、足掛け6年四国九州など西国の旅に出て、「寛政三年紀行」を世に送り出す。

      
        青梅に手をかけて寝る蛙かな


        かたつぶりそろそろ登れ富士の山
                       一茶

 動物が蛙やかたつむりあるいは、虫や草木が人となり、感じとり、宇宙をみる。
俳句と禅と大乗仏教の授業をしている、シーモア(サリンジャー)の愛唱した俳句が、かたつぶりそろそろ登れ富士の山だった。


        ゆうぜんとして山を見る蛙かな

        むきむきに蛙のいとこはとこかな

           秋の夜やせうじの穴が笛を吹く


                                 雷のごろつく中を行 々



 松尾芭蕉は禅の思想、臨済禅の影響を受け、一方小林一茶は親鸞の教えを信じていた。
また、芭蕉が武士の出であったのに対して、一茶は農民出身。一茶はあらゆる人々の中に仏性を見、蛙や虫だけでなく、ありとあらゆる生き物に、雛のさえずりのように、さえずり、うたわせた。

 宝暦から天明にかけて、江戸の文化は栄え、俳諧師も多く、武士、農民、商人の階級を超えた文化の世界がつくられた。1806年(文化3年)一茶45才の時、寛政異学の禁が出された。儒教のうちの朱子学を正統として、陽明学や古文辞学は異端とされ、幕府の教育では、禁止され、農民は都市から生まれた土地に帰農させられた。その後この朱子学の影響で、士農工商以外の定職のない人々、文化を担う高等遊民は、肩身の狭い世界になりつつあった。

1814年(文化11年)52才で菊と結婚。3男1女をもうけるも幼くして亡くなる。

        名月をとってくれろとなく子かな
                                

文政元年以後、江戸から信州柏原に定住する。
1818年(文政2年)に「おらが春」をまとめた。これは一茶の死後出版された。

        目出度さも 中くらい也おらが春

        這へ笑へ二つになるぞけさからは


阿弥陀如来の信仰を深め 其身を如来の御前に投げ出して 地獄なりとも極楽なりとも あなた様の御はからひ次第 あそばせくださりませと御頼み申すばかり也



       ともかくもあなた任せのとしの暮

おらが春の一茶は、覚醒者の高みからでなく、平凡な人、親鸞の他力本願の信者として、妻帯し生活する一人の生活者として、信濃の柏原で暮らした。若い時の荒凡夫であった一茶は52才で結婚し、妻子と死に別れ61才で一人の暮らしに戻った。

       春立つや愚の上に又愚にかへる

その後再婚し、1827年(文政10年)65才の時、柏原の大火で家を焼失、その土蔵で死亡。

       やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ
    

    
       

         








2018/11/11

J.D.サリンジャー 魂の遍歴

。ライ麦畑とグラス家の人々
                     J.D.サリンジャー

 アメリカ文学はメルヴィル、マークトウェインやヘミングウェイなどの外向的、活動的な冒険小説が多く支持されてきた。
 サリンジャーは1950年代、チャールズ ディケンズのデイヴィッド カッパフィールドではないホールデン コールフィールド16歳の物語を書いた。ペンシー校から退学処分になり、ニューヨークの街を歩き、俗物社会の欺瞞に対する叫び、その会話で全編がなりたっている「ライ麦畑でつかまえて」を書いた。ビートルズのロール オーバー ザ ベートーベンと同じようにロールオーバー ザ ディケンズの新しい会話の文章で、既成の文学を乗り越えようとした。その内向的文学は1960年代アメリカの若者の心を捉え、彼等の聖典となった。

  アメリカは繁栄を謳歌した時代を幾度か経験した。19世紀にはその繁栄をマーク トウェインは「金ピカ時代」として小説化し、1920年代のニューヨークの繁栄はフィッジェラルドが描き出した。 第二次大戦後はアメリカの時代で、世界の富はアメリカに集中し、繁栄し実用主義、物質主義の時代になった。この物質的繁栄の下のフォニーなスノッブな人々(いんちきくさい俗物)に同調できない気持ち、フラニーと同じような困惑を新しい文体で語ったThe Cacher in the Rye は1950年に書かれた。



 1955年ニューヨーカー誌に「フラニー」を発表。レストランの一室、マティーニとチキン サンド、カタツムリと蛙の脚をテーブルに置いて「巡礼の道」についてレーンに語り始める。絵画のように描写された部屋でふたりの会話劇が始まる。これは1957年発表の「ズーイ」の序章だった。
 
 7人兄弟姉妹の6番目の男の子として生まれたのがズーイで末っ子がフラニー。ふたりはニューヨークのアパートの5階、ワイズ チャイルド一家、グラス家の人たちが育った室内で今は兄弟2人が両親と生活する。
 フラニーは大学生活で、通俗的で、知恵とは関係のない知識の切り売りする教授やまわりの人々に拒否感、嫌悪感を抱いていた。フラニーの心をとらえ、欺瞞の世界からの救済を「巡礼の道」に求め、出口のない、内的世界に閉じこもる。5歳年上の兄ズーイは、この妹の脱出路を見出そうとした。
 ふたりの兄弟たちの幼い頃からの宗教的体験、10才のフラニーがマタイ伝第6章を開いて、大騒ぎをしたことを「鳥たちを見よ。彼らは種子を播くこともなく、収穫を刈り入れることもなく、それを納屋に集めることもない。それでもなお、汝らの天なる父は彼等に食物を与え給う。あなた方はそれらより遥かに優れていると思わないか?」聖書のこの章に愛想を尽かし、ブッダ方面に直行したことを。
 8才の頃、ズーイがキリストと一緒にマティーニを飲飲んだ話。 そして兄のシーモアにワイズチャイルドの番組に一緒に出演した時、太ったおばさんのために靴を磨きなさいと言われた話。その時は何のことかわからなかった。あとで、その太ったおばさんこそすべての人であり全て太ったおばさんでない人なんて誰1人いないんだと悟り、その太ったおばさんと言うのは実はキリストその人なんだとわかったこと。
 ズーイは兄のバディーになり、そしてシーモアの言ったことを必死にフラニーに伝えた。ズーイは導師になっていた。それを電話できいたあと、深い眠りに落ちる前の数分間、フラニーは天井に向かってそっと微笑みかけていた。

 青春時代に現実社会に足を踏み出したとき、人々の浅ましい利己的なあるいは物質主義者の世界を目にしたとき 、それを肯定きない人々は、社会を変える学生運動や世界観を変えるカウンターカルチャーへとまっしぐら。その道しるべとなったのはインド哲学やブッダ、日本の禅や俳句、中国の老子などだった。1950年代にはこれらがアメリカの文化に受け入れられるようになり、1960年代のビートジェネレーションは古い価値を捨て、カンターカルチャーの文化運動を起こした。


 その後1963年「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア 序章」を発表。グラス家の長男で家族の精神的指導者だったシーモアを次男のバディーが語る。
 二人で遊んだこと。行動はぶきっちょな兄の思い出。大人になり、シーモアの結婚式での出来事。シーモアは幼い頃からの東洋哲学の興味と憧れていたこと。とりわけ一茶に傾倒し、その俳句に仏教との同一性を発見した。シーモアは美しい詩を残し、若くして自殺した。そこには俳句の形式に習った短い、装飾を削ぎ落とした美しい詩が残された。
 7才のシーモアを描いた「パブワース16、1924」を最後にグラス家の物語は終わり、サリンジャーは沈黙し、伝説の人となった。


 サリンジャーは「らい麦畑でつかまえて」で既成の権威、文化に反抗する姿を、次のフラニーでその反抗から迷いの姿を、そしてズーイでその混迷からの離脱を描いた。そのあとシーモアとバディーの物語では、そして若くして知的で神童のような一家の長が自殺したことを「バナナフィッシュに最良の日に」に、「シーモア序章」でその心の遍歴をたどる。その後も多くの人はグラス家の物語の続編を期待した。「私はまた非常に多くの、また未整理の原稿を書きためているのだが、それらはいつか受けがいい表現におきかえてかたをつけるべきだと考えている(磨きをかけるという気の利いた言葉もある)。私自身は電光石火のごとく仕事をするのだが、私の分身であり協力者たるバディー グラスはがまんならぬほど遅いのだ。」と書き記し、サリンジャーは、沈黙を通し続編を発表することはなかった。

 世界に広がった学生運動やカンターカルチャーの運動は1970年代収束し、アメリカは何もなかった70年代と呼ばれるようになる。精神世界のニューエイジ運動は神秘主義、インディアン文化、東洋文化の小さな集団に、ばらばらにわかれ混迷した。

2018/10/21

シッダールタ   魂の遍歴   ヘルマンヘッセ

シッダールタ                                  インドの詩

                             ヘルマン ヘッセ

 家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、沙羅の木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、おいたった。父は、むすこの中に偉大な賢者、司祭、バラモン族の中の王者たるものが成長しつつあるのを見た。
 やがて、ゴーヴィンタとともに、沙門たちのもとで、静思し、断食し、瞑想によって、苦行を通して滅我の道を歩んだ。心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我でない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。

 やがて、仏陀の教えを聞いた。苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道についての教えを説くのを聞いた。ブッダは四諦を教え、八正道を教え、仏陀の道を行くものは救われると説いた。友ゴーヴィンタはその道に帰依した。

 シッダールタは友と別れ、改めて遍歴の旅に出た。そして彼は気づいた。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分にたいして不安をいだいていた、自分から逃げていたということから来ている。真我(アートマン)を自分は求めた。梵(ブラフマン)を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらにはごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった。」
 意味と本質はどこか物の背後にあるのではなく、その中に、いっさいのものの中にあった。

 シッダールタの覚醒へ至る道を、自らの精神遍歴に重ね合わせ、「インドの詩」の副題で1922年に刊行された。この物語の第一部は、尊敬する友 ロマン ロランにささげる ではじまる。

 ヘルマンヘッセは1877年、南ドイツのカルフに生まれる。プロテスタント宣教師の父と、インド学者でやはり宣教師の娘の子供として生まれる。祖父と母と父は三人とも長くインドに暮らした。祖父のガラス戸棚の中に、インドの小さな踊る偶像の姿をして立っていた牧神バンによって育てられ、インドの仏像経典、織物に囲まれ、仏教の祈りの文を父親から聞いて育った。
 少年時代、南ドイツ、シュヴァーベン地方のシュヴァルツヴァルト(黒森)の古い街で、「美しく多彩な世界と戯れ、動物や植物ばかりか自分自身の空想や夢のジャングルでもあらゆる所を我が家とし、自分の力や才能を楽しみ、燃えるような願いに焼き尽くされることなく、むしろこれを謳歌した。」

 1870年代は、勃興するドイツの時代で、ビスマルク宰相によって、ヘッセの暮した南ドイツは合併され第二帝政ドイツとなった。その後ウイルヘルム二世の時代に、ドイツはヨーロッパ大陸の覇者から、さらに当時のイギリス帝国に対抗すべく海軍を増強し世界に展開し始めた。それに対抗してイギリスはチャーチルが海相になっ海軍の拡大と近代化を始めた。
 帝国の工業化、強国化の時代、当時のドイツ国内では、キャンプファイヤーを囲みギターを弾き、徹夜で議論したりするワンダーフォーゲルなどの自然の中の文化運動が青年たちの心を捉えていた。1904年「郷愁(ペーター カーメンツイント)」は青年の心の成長と感覚と、自然の雲や空への憧憬を小説にし、発表した。1906年にはヘッセ自身の経験を、なりたいと思っていた理想の人と、現実の自分自身を二人の人物に分割し、彼らの成長を詩的文体でつずった「車輪の下」を出版し、ドイツの詩人、ドイツ精神の騎士と言われるようになった。

 1914年そのドイツは第一次世界大戦に突入した。ヘッセはベートーベンの歓喜の歌の導入「友よ、そんな調子でなく」を使って、戦争に同調し、愛国心をあおり戦争の至福をうたう詩人、戦争賛美の作家たちに、ペンで 扇動する事をやめようと訴えた。しかしドイツの多くの友人、新聞など出版者はヘッセを攻撃し、ヘッセは孤立した。その時フランスの小説家ロマン ローランはやはりフランスで反戦を訴えていた。ヘッセを称賛し、彼の自宅を訪れ、その後、長い友情を結ぶ。
 当時をヘッセは「そこへあの1814年の夏がやって来た。突如として内も外もすべてが一変したようだった。あの当時、私が他の人々と違っていたのは、たんにあんなにも多くの人々がもっていたあの大いなる一つの慰め、すなわち熱狂が、私には無縁のものだったということだけである。」と語っている。
 
 27歳の時、ショウペンハウエルの哲学の探求の時、インド思想に再び出会った。「鳥は卵から出ようもがいていた」そしてユングの精神分析による意識の変革でその殻を破り、インド思想を元にした、シッダルータの構想が1919年にできた。この時期に、以前の自然観察者から内面世界の観察者となり、夢を言葉で描き、魂の動きを目に見えるように言葉にした「内面への道」の小説家に変貌した。 
 同じ年、エミール ジンクレーアの著者名で「デーミアン」を発表した。第1章に「2つの世界」の表題をつけた。明るい世界と対立する闇の世界をジンクレーアとデーミアン二人の少年の心の葛藤(カインとアベル)と成長、救済をもたらす聖杯への歩みを描いた。カインは悪でなく善と悪を超えるものとデーミアンが教え、グノーシス派のアブラクサス神話を遍歴し、デミアンという幻影のような青年をうんだデーミアンの母にたどり着く。ジンクレーアは最後は戦争で瀕死の重傷を負い、人類について鮮明な幻覚をみる。

 デーミアンはキリスト教徒であるヘッセ自身の精神の自叙伝である。それは第一次大戦に敗北したドイツの若い世代に、不気味なほど正確に時代精神を射当てた作品として受け容れられた。

 シッダルータはキリスト教的な世界とは異なる仏教の物語で、悟りに至るひとりの聖人の心を描いた。第一部はすぐに完成した。
 第2部は3年後の1922年になり形をなした。シッダルータはカマーラと出会い、世俗の商人とともに働き、世俗の欲望、愛憎の世界を経験した。街から離れ河のほとりについた。渡し守になり人々の煩悩の中に梵を見た。そして完成(オーム)を知り、生命の流れと一致した悟り、万物の流転に身をゆだね、宇宙と一体となる悟りに達した。


 そして、再び老いたゴーヴィンタと再会し悟りを、涅槃(ニルバーナ)を語った。一切衆生の中に隠れた仏陀がある。世界は瞬時、瞬時に完全であり、死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するために多くの世俗を体験したことを。
 老いた友ゴーヴィンタはシッダルータの顔に輪廻転生の幻影を見た。そして老いたゴーヴィンタの顔に涙が流れた。シッダルータの微笑が彼にとっていつか生涯のあいだに貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。

 インドの僧のリズムを取り入れたこの長編叙事詩は世界中で翻訳され出版された。
 特にアメリカではヘンリーミラーが「世に認められている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出すことをそれがひとりのドイツ人によってなされた。シッダールタは私にとって新約聖書以上のもの」と絶賛。若者のバイブルとなり500万部以上発売された。

 その後、ドイツは再び戦争に向かい破局を迎える。第二次世界大戦後の1947年、ヘルマンヘッセにノーベル文学賞が与えられた。

 

2018/10/01

脱脂粉乳と鯨肉 

GHQサムス准将の医療改革 

 終戦後の1945年(昭和20年)日本は極端な食料不足に陥っていた。日本の大都市で1月に餓死者が数10人、上野公園では1日に6人が飢えて死んでいると報道された。住むに家なく、着るに衣服なく、食うにコメなしとして、皇居前広場には食糧メーデーで大群衆が押しかけた。

 当時日本には中学生504万人、小学生1351万人あわせて、2,000万人いた。しかし、日本の国内には食糧はなく、世界中でヨーロッパ、やアジアの国々も食糧難であった。GHQのサムスは学校給食は子供たちの成長を促し、伝染病への抵抗力をつけ、また子供から栄養の知識が伝わることによって大人にも体力がつくとの考えからアメリカでの牛乳に目をつけ、保存できない生の牛乳を、脱脂して粉乳としてアメリカから安く輸入する方法を考えた。さらにアジア救済連盟を通して、小麦などの食糧をアメリカから輸入して、給食に使うことが決定し、1946年(昭和21年)の11月に学校給食開始が決まった。その中には、米軍の保有していたトマトジュースなどの野菜、そして捕鯨を再開して鯨肉をたんんぱく源として給食に使った。1948年(昭和23年)には、600万人の子供達に給食が行き渡った。そして、コッペパン、脱脂粉乳、鯨肉の学校給食は戦後世代の共通の記憶となった。

 日本政府は戦争中、世界に冠たる日本独自の医学を打ち立てようとして、1938年(昭和13年)厚生省をつくり、開業医中心の病院医療を公的医療機関を中心にするなど、政策の変更を図った。そして、全国に46校の医学専門学校をつくった。
 戦後GHQのサムスは日本の医療制度に対して、大学医学部と医学専門学校の2種類が並存し、医専は教育の質が低く、研修するべき付属病院を持たない速成医師養成機関であるとみなした。また、世界的にみれば大学医学部も入学時の年令の低いこと、医学部教育期間の短いこと、資格試験のないこと、卒後研修のないことが問題にした。
 この制度を改革するためにアメリカの制度をもとにして、改革案を提示した。医専は17校が廃校となり、29校が医学部となった。そして医学部は学士修了者のみメディカルスクールに入学する案が提案された。しかし、日本側の反対で、現在と同じ6年制になった。医師国家試験は1946年(昭和21年)から開始され、インターン(臨床研修制度)も取り入れられた。

 戦争中、外国の医学雑誌は輸入されなくなった。この遅れてしまった医学の復興のため、戦後、3年間は医学のあゆみなどにアメリカ政府の許可で著作権を無視し、アメリカの医学報告の和訳が載せられた。そして1946年(昭和21年)には米軍病院の進んだ医療機器の展覧会を日本医師会館で開かれ、それをモデルに日本でも新しい医療器械が作られるようになった、
 物資不足のためか、中世並みと言われた日本の病院改革も行われた。当時、ガーゼは消毒されず洗濯され、軍手で手術を行っていた。1947年(昭和22年)サムスは厚生省の附属機関として、国立東京第一病院の中で「病院管理学校」を開き、全国の病院長を集め、病院経営の教育をした。 そして戦後、日本の医学界はドイツ医学に代わってアメリカの医学を急速に取り入れることになった。

 戦後、日本中で天然痘やコレラ、チフスが蔓延し、性病や結核も流行していた。これを撲滅するため水道の塩素消毒、DDT噴霧、ワクチン接種など様々な対応をした。そしてこれらの伝染病予防のため、公衆衛生を充実させることをサムスは提案した。それは日本国憲法の条文となった。
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」日本国憲法第3章第25条。

 1946年(昭和21年)には、GHQは公娼廃止の覚え書きを日本政府に渡し、保健所機能の拡充強化に関する覚え書きが出された。そして東京都杉並区に新しい杉並モデル保健所を作った。腸チフスの予防注射をし、性病洗浄や結核の人工気胸手術もした。そしてこの仕事に参加した人たちの熱心な努力によって、全国の保健所は病気予防、公衆衛生の普及に大きな役割を果たした。
 

 1945年(昭和20年)8月7日大本営発表「咋8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるもののごときも詳細は目下調査中なり。
 第一次米国原爆災害調査団が来日。同年9月6日築地正男東京帝国大学外科学教授とともに広島に向かった。広島についで長崎も訪れ、三週間で帰国した。築地博士は10月の総合医学に、所謂原子爆弾傷に就て 特に医学の立場からの対策を掲載。9月下旬に第2次米国調査団が再びやってきた。日本政府も原子爆弾災害調査研究特別委員会を設け日米共同の医学調査を行う。それが「原子爆弾災害調査研究成績」にまとめられ、1946年(昭和21年)夏の総合医学に掲載された。
 1946年(昭和21年)暮れ、米国原爆災害調査団の第3陣が来日した。これがのちのABCC(原爆障害調査委員会)になる。1947年(昭和27年)3月には「ABCC総合報告」がワシントンで発表された。そして4月には日本医学会総会で原子爆弾症臨床などの特別講演が行われた。
 その後これらの医学報告は、次の戦争に備え、アメリカの法律で、軍事機密として、発表禁止になった。

 1945年から1952年まで日本を支配したGHQは多くの日本の医学、医療を変え、現在の日本の医療システムの根幹を作り、現在まで続いている。

 その占領軍支配が終わった後、日本医事新報は「マッカーサー元帥やサムス准将の如き冷厳な人物によって占領政策が推進せられたのは我々にとって実に不幸な廻り合わせであった」と記している。

2018/09/11

地球温暖化の夏 関空の水没

 今年の夏は3ヶ月にわたる猛暑を記録し、9月になっても終わらない夏が続いている。
6月hot7hotter8月hottestでブーゲンビリアやハイビスカスなど熱帯原産植物が生命を謳歌していた。さらには、台風が日本列島を直撃し、高潮と猛烈な風で甚大な被害を及ぼした。今年9月、台風21号の高潮のため、ダッカ空港ではなく、関西空港が水没する情景は、台風の猛威を見せつけた。

 過去数十億年で見れば、気候は大きく変動していて、地球全体が熱帯で、北極にヤシが生えたていた時代もあり、逆に地球全体が完全に凍っていたこともあった。その時の海面は100メートル以上低く、また温暖期には今より180メートル高かった。
 そして、人類誕生以来文明も気候の変動や、人間の活動により、消滅した例も見られる。太平洋上のイースター島は森林の伐採によって文化をつくっていた、しかし気温と降水量が森林の再生に不向きな環境の島であり、また土壌が豊かでなく、山の低い孤立した島であったため、森林の消滅と共にポリネシアの社会を崩壊させた。

 マヤ文明もまた水不足から滅亡した。レバノンは緑豊かな国土でレバノン杉を国旗に用いている。その大地は乾燥し、大量の伐採のため、今では杉は絶滅寸前となる。またアラル海は灌漑用水の使いすぎで消滅し、アフリカのチャド湖も消滅寸前となった。
過去の歴史は、気候と場所、そして人間の営みで文明が滅亡したことを物語っている。

 現在地球上でおこっていることは、周期的気候の変化の一部分なのか、人間の活動の結果なのか。この状況に対して「成長の限界」が1972年にローマクラブから報告された。世界は近い将来に資源の枯渇と汚染排出による環境の変化から成長不可能な状況に直面する。全地球のシステムをコンピューターでモデル化して、100年にわたって推定し、物理的な成長の制約は21世紀の世界政治の重要な課題となるとした。
 地球は有限であり、人口増加と人々の活動により、石油枯渇 、オゾン層破壊、地球温暖化 、有害物質の処理不能、 種の絶滅、 森林の消失の危機が起こり、そのままの経済成長は不可能で、限界に達する。地球の資源には限りがあり、持続可能な経済成長の必要性を訴え反響をよんだ。その20年後に新しい情報を加えて「限界を超えて」ですでに、人類は地球の能力の限界を超えたのではないかと述べた。さらに10年後の2005年「成長の限界人類の選択」を出した。

 その後、資源については、石油の枯渇はなかったものの、人口の増加は70億を超え、二酸化炭素は自然の吸収力の2倍を超え、地球温暖化など予想が妥当だったものが多い。
 まず第一に地球の温暖化による海面の上昇。
1900年から2000年の100年間で地球上の平均気温は0.6度上昇した。この上昇は21世紀になり加速している。パリ協定で1.5度Cを目標にしたのは、根拠のあることで、全体としてわずかな変化でも、地球上の局所では多大な変化をもたらした。
 地球温暖化のため、北極の氷は溶けてしだいに海面を上昇させ、世界中で氷河は消失しつつある。現在では海水面の上昇からモルディブやツバル、キリバスは水没の危険があり、バングラデシュやオランダは水没の危険は高く、他の国では低高度の地域はやはり、水没、高波浸水の危険は高くなる。もし、地球の平均気温が2度上昇すれば、海面は36センチ上昇すると推定される。
 さらに、氷河は世界の大河に水を供給している、もしそれが減少すれば深刻な水不足をきたす。ヒマラヤ氷河はアジアの大河のすべての源で、黄河、長江、メコン川、サルウイン川、ガンジス川、インダス川、プラウトプトラ川の水源になっている。そして、北半球の中高緯度の地帯では雨量は増加し、他の地域では降水量は減少して、砂漠化が進行している。
 第二にハリケーンや台風の強大化は地球温暖化の影響を確実に受け、人の管理不可能なシステムである。海水温の上昇はハリケーンや台風やサイクロンを巨大化させ、 今後どれほど強大化し、どれほどの被害を及ぼすかは不明である。
 ハリケーン カトリーナなど21世紀の台風やハリケーンは世界中で、甚大な被害を及ぼすようになってきた。猛烈な風の脅威とともに沿岸地域の高潮の被害浸水も増加し、アメリカでは1970年に比較して10倍以上の経済的な損害を出している。2005年のハリケーンはメキシコ湾の海上石油生産施設を壊滅させ、橋桁に衝突した施設で、橋の通行は停止した。 今後は沿岸地域のハリケーンや台風のさらなる強大化にともなう海面上昇対策が必要となってくる。 
 今後の対策として、アメリカのハリケーン地帯の海抜10メートル以下の地域では、住宅、道路、病院を安全な場所に移動させた方が、沿岸部でハリケーン被害を受け続けるより、はるかに経済的には有効であるという報告もされいる。しかし合理的計画はあっても、実現には多くの困難がある。

 第三は海洋の酸性化が進み海中の珊瑚を死滅させつつある。そして牡蠣、プランクトン、骨格類に被害を与える。
 そして第4には生態系の崩壊。気候の変動により陸上の植生を変化させる。それとともに野生生物と消失絶滅する種が急速に増えてくる。さらには、寒い地方の蚊などの感染症媒介生物の北上をもたらしている。 


 1972年当時の心配は杞憂で 技術の進歩で解決できるのか、まだ結論は出ていない。しかし地球温暖化は世界中で共通の認識になった。京都議定書に続き2015年パリ協定で、二酸化炭素の排出は吸収を上まらないようにする。そして世界共通の長期目標として
産業革命前からの平均気温の上昇を2度より十分下方に保持、1.5度Cに抑える努力を追求することが批准された。

 今後問題となるのは、環境を悪化させない成長ができるようにすること。省エネルギー生活に切り替え、二酸化炭素を出さないエネルギー源に変更すること。各国、アメリカ、ヨーロッパ、中国は2、30年後に再生可能エネルギーを全エネルギーの60から80%に増やす目標を立てている。2030年には40から50%を目標にしている。日本は2030年に2224%を目標にしている。

 台風の強大化や高潮の被害を防ぐ対策も必要で、伊勢湾台風、第二室戸台風、今年の台風21号以上の台風は毎年のように発生し、熱波もさらにひどくなると予想される。
 人口減少社会で、10年先あるいはさらなる将来を想定した、今後起こりうる自然災害に対応する都市の再設計が必要になる。

 人間は現状維持を好み将来のことよりも現在を重視する傾向がある。イギリス植民地相ジョセフチェンバレンは19世紀の終わりころ「私に言わせれば時代の流れは全ての権力がより大きな帝国に集中する方向に向かっております。そして、力の小さい王国すなわち進歩の遅れた国は、2流の属国の地位に滑り落ちることでしょう。進歩しないものは取り残される。」と言った世界観は21世紀の今も主張する国がある。
 さらに、もし経済成長が停止たら、地球の気温上昇は止められるものの、世界の多くの人々は貧困と病の中に残される。
 一般に人々は目の前にある経済成長、短期的な消費 雇用などの経済問題、あるいは安全保障の問題を優先的に追求するもので 、議定書が実行され温暖化が本当に防止できるか、今後、長期的危機は手遅れになるまで放置されてしまうのかはわかりません。




2018/08/26

 エドガー アラン ポーと 江戸川乱歩

ヘレンへ

ヘレン、あなたの美しさは、
 いにしえのニケーアの舟に似ている。
かぐわしい海を渡って、ゆるゆると、
 やつれ果て旅に疲れたさまよい人を
 故郷の岸辺に連れ戻った、あの舟に。

絶望の荒海をさまよい慣れた この私を、
 あなたのヒヤシンスの髪、みやびやかな顔だち、
水の精さながらのたたずまいが、ふるさとへ連れ戻してくれた、
 そのかみの光輝へ、
ありし日のローマの威風へと。

                         エドガー アラン ポー

  エドガーアランポーは1809年生まれる。南北戦争前のアメリカ南部の小説家としてマークトウェインとともにアメリカ小説の源流を作った。
 ポーはアメリカにおいて、最初は南部の教養ある文人としてロマン主義の詩を発表したり評論を書いていた。その後、ミステリーや探偵、冒険など大衆文化としての小説を多く発表するも、当時は米国文学の主流とはみなされなかった。
 最初の頃、国内よりむしろフランスで認められ、象徴派の詩人たちに影響を与えた。  1852年ボードレールは「エドガー アラン ポー その生涯と業績」で、場違いにも拝金主義と物質万能の民主主義国アメリカに生まれ落ちたために、社会から敵視され、孤独と貧窮と泥酔のうち夭折した天才と評した。

 1841年近代推理小説の第一作目となる「モルグ街の殺人」で探偵C オーギュスト デュパンを登場させ、パリの親子の不思議な、奇怪な殺人事件を発表し、それは、その後のシャーロックホームズなど探偵小説のスタイルにつながる。
 1839年に「アッシャー家の崩壊」、1843年「黒猫」などの恐怖小説を発表した。「アッシャー家の崩壊」は病んだ友達の最後を看取る男の物語。構成は緻密に計算され一週間の出来事を一気に、クライマックスまで精神の緊張を保つ文章で描き、妹の殺人と自らの死、崩壊する 家族の心とその館の沼に水没する様を幻想的雰囲気に彩られた言葉表現した
 「黒猫」は主人公が黒猫の殺害それによって起こる殺人の幻想的な物語りで、人のこころに住む動物的恐怖心と不安、残虐性を描く。
 1845年発表の詩「大鴉」もまたカラスの喋る言葉によって主人公が狂気に陥る物語。この詩を題材にして、詩のつくりかた、表現の暗示性と小説の構成の方法、主題のロマン主義について、テーマやストーリー、言葉やそのリズムについて「構想の哲学」で語っている。「大鴉」では魂の強く純粋な昂揚、つまり美そのものの与える効果を描いたのもので、それがフランス象徴主義に大きな影響を与えた。

 エドガーアランポーを真似た江戸川乱歩は日清戦争の起きた1894年に生まれ、1923年(大正12年)関東大震災の年に「二銭銅貨」と「一枚の切符」を「新青年」に発表。1925年(大正14年)D坂の殺人事件で明智小五郎を登場させ、1930年代少年少女向け小説「怪人二十面相」やそのほか多くの推理、怪奇小説を発表した。人間椅子、心理試験、双生児、赤い部屋など斬新なトリックの小編で日本での探偵小説ブームを作った。

 ポーの小説などからヒントを得て、推理小説を日本的に、日本の社会と日本人的メンタリティーを加えて創作した。しかし、推理小説にしても江戸時代からのお化け屋敷の掛け小屋的発想で内容や形容が過剰で、怪奇趣味に走り、文芸小説として人間を描く表現に欠けていた。謎解きトリックの推理小説、怪奇小説、少年の探偵小説、など娯楽小説の枠で出版された。戦時色の強くなる1939年(昭和14年)題材の怪奇さを主とした短編小説「芋虫」で傷痍軍人を描いた。この作品の表現と内容は軍人冒とくに当たるとして、発禁処分になった。


  明治維新で江戸時代は幕を閉じた。このころにポーはすでに没し、マーク トウェインは旅行記を出版していた。日本では、江戸時代に多くの通俗小説があった。アメリカの南北戦争の頃に明治維新により時代は変わり、欧米の知識を取り入れ、文学もヨーロッパに起こった自然主義文学を取り入れ、また私小説は発展した。しかし、その他の通俗的大衆小説は主流にはならなかった。
 近代国家明治になっても日本の都市人口は少なく、全人口の3%ほどで、ほとんどが農業従事者であった。都市人口が多いアメリカのような中産階級が少しずつ増えてきたのは大正時代になってからで、そのためかエリート層にとって、文学は自然主義文学、社会主義文学が主流だった。そして、昭和の時代に入ると、しだいに国家総動員色が強くなり、アメリカの文学は、正当に受け入れられる事はななかった。
 エドガー アラン ポーが恐怖と不安の心理を描き、推理小説の初源であり 、ハックルベリーフィーンがアメリカ文学の始まりで単なるユーモア、単なるホラー小説あるいは娯楽のための推理小説、少年少女文学ではないことが理解されるのは日本では戦後になってからだった。

 戦後乱歩は「アメリカ探偵小説の近況」で復活した。そして雑誌「宝石」の編集兼発行人になり、1949年(昭和24年)には、15年ぶりに短編小説「断崖」を書いた。
 そのころ探偵小説はどうあるかをめぐって1950年(昭和25年)に同人誌「鬼」が創刊され、ポー以来の本格派の探偵小説を継承発展させると宣言し、卑俗な読み物から脱する方向を打ち出した。
 その後昭和30年になると高度経済成長時代になり、都市人口は増加し、多くのサラリーマンが生まれた。彼らがいわゆる中間小説の読者となり推理小説もブームとなる。その時代に江戸川乱歩賞をつくり、推理小説家の登竜門として多くの小説家を世に送り出した。

2018/08/01

井伏鱒二の「黒い雨」と野坂昭如の「火垂るの墓」

 

1966年(昭和41年)井伏鱒二の代表作「黒い雨」は連載小説として発表された。画期的戦争の記録小説として、日本でも評価され、海外にも翻訳され紹介され、映画化もされた。黒い雨は雑誌新潮に1967年(昭和40年)1月号から最初は「姪の結婚」と言う題名で連載が始められ、その後題名を「黒い雨」とかえ重松氏の日記に重点を置き広島の原爆惨禍を抑えた筆致で描き、翌年の9月号で連載を終わっている。野間文芸賞を受賞し大江健三郎、江藤純氏ら多くの人々も絶賛し文化勲章も受けた作品だった。

 特に山本健吉氏は文化勲章にちなんだ記事で、「黒い雨は近来の傑作と思うが、この本を書いた動機は、あの毎年の原水爆反対集会のお祭騒ぎが悲しくて、あの作品を書いたという。あまりに政治の手に汚されすぎた。あまりに安易な符牒で呼ばれ過ぎた。井伏さんがこれを書いてくれなかったら、私は日本人として、何時までもやりきれない思いを消すことはできなかっただろう。」

 
 最初は巨大なクラゲのやうな原爆雲が刻々と赤、紫、黄、緑などに色をかへながら、廃墟となった広島市街を上から舐めるやうにユックリと動いて行く。そして人々を焼き尽くした灼熱の環境で郊外の竹藪のそばの溝の流れには目高が群れて遊んでいるという描写、あるいは死亡した子供をおんぶした母親、そして原爆爆心地の近くで、植物の新芽が徒長する様相。 「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉ををかみしめている。それら重松日記に記されている文を取り入れ小説化した。


 この作品は全ページの約半分に重松日記や岩竹日記、他の資料とか報告書や資料を引用して小説に使った。重松静馬氏の日記は広島における原爆投下という過酷な力が加わった時、部外者ではなく、罹災者でしか感じられない生身の体験であり、その場の人々の様相であり自然の変容の目撃者である。その現実をそのまま記録し、みごとなドキュメンタリー小説になっている。

 著者自身が黒い雨は小説ではなくルポルタージュであるとのちに語っているように、戦争と平和の物語を題材にして最初は姪の結婚を主題にした世間の人情ものにしようとして連載小説は始まった。その後、 事実の重みから日記の描写の記述がそのまま文章として はめ込まれ 物語は完成した。
 



 井伏鱒二は1898年(明治31年)の生まれで、戦前より多くの作品を書いている。1929年(昭和4年)「山椒魚」「屋根の上のサワン」を発表。 1934年(昭和9年)「青ヶ島大概記」を書き上げた。この製作の過程を太宰治は打ち明けている。24歳の太宰治が早稲田大学近くの井伏鱒二宅で下宿しているときだった。江戸時代、近藤富蔵
という武士が八丈島に流された時記録された「八丈実記」のなかの八丈島持青ヶ島大概記のリメイク版であった。
 井伏鱒二の小説は村の出来事や、民話を素材にしてそれの端々に井伏風の創作を、人情味を加えて書いた作品が多い。1939年(昭和14年)ジョン万次郎漂流記で直木賞を受賞した。これもまた、明治の少年読本シリーズで石井研堂作の中浜万次郎をテキストにしている。

 井伏文学の特徴は、ありふれた日常生活を市民的日常を、観察して文章にする。そこに生の声ではない人間模様を描き出す方法とっている。描写技術がうまくないと古びた花鳥風月、凡庸な人情話になってしまう。
 センセーショナルな作家太宰治ほど有名でなかった井伏鱒二は、戦後この作品は自分の創作でなく人から聞いたものであるとした「駅前旅館」で番頭の日常些事を書き、「本日休診」もまた当時の産婦人科医院の日常を面白おかしくして描いて読売文学賞を受賞した。

 1966年(昭和41年)68才の時、それらとは異色の作品黒い雨で一躍国民的作家として文化勲章を受け、海外にも翻訳され反響をよんだ。「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」の一行に象徴される最も重要なものに注目し、この作品を書き上げた井伏氏の真実の姿勢を感じた。と船橋氏は評している。これは戦後まもなく書かれた「遥拝隊長」の戦争批判と同じ理念を表現していた。
 

 翌1967年(昭和42年)野坂昭如が短編小説「火垂るの墓」を発表した。神戸大空襲の後孤児となった14歳と4歳の兄妹の物語。戦争による爆撃で焼け出され、幼い妹を餓死させた想いを小説化したもので、冒頭の、餓死した少年のドロップの缶、その中に入っていたのは妹の灰と骨のかけらだった。その缶は投げ捨てられ、空に向かった清太の魂は、4歳の妹節子の魂と再会する。スタジオジブリの高畑勲監督のアニメ映画化して世界的に評価される。

 タレントであり作詞家であり歌手であった野坂昭如は「おもちゃのチャチャチャ」を作詞し、「黒の舟歌」を歌って人気を集め、あふれる反抗精神で世間の常識を突き崩す小説で、人の心模様を描き、ある時は江戸時代の戯作者になり、またある時は人の欲望心のやるせなさを描き出そうとした。
 火垂るの墓は文字にしたとたんに嘘が混じる。と自らが語っているとおり自分の経験した事実を創作し物語にしたものだった。
そして、卑怯者の思想を持つ、焼跡闇市派を自称し、文を書き、政治家にもなった。「正しい戦争より最も不正な平和を選ぶ」というローマの政治家キケロの言葉を体現して実行しようとした。


 小説はありふれた退屈な話とあまりに現実離れした突飛な物語その間にある。そして、小説は文章の技術だけではない、歴史に対する理解や人間の心の深層に迫る見方が反映される。そして、題材とする資料や日記の事実と創作との間の虚構と真実の兼ね合いでその作品の価値は決まる。

 今コンピューターに小説が書けるかが話題になっている。多くの文章を簡単にコピーできる。そして災害や事件の記事や、そのほかのルポルタージュ記事はかなり機械でも描きやすいタイプの文章で、すでに人間の記者と区別できないレベルに達している。日本では、昨年星新一に応募したコンピューターのショートストーリーが一次選考を突破した。

 今後、コンピューターを使い、資料を読み込ませ、それぞれの作家らしい文章を学習させて面白い小説にしたり、昔の物語を下敷きにして、機械による新たな小説が生まれる時代がすぐにやって来る気がします。しかし、心の叫びを表現した詩や小説はアンドロイド文学には無縁の世界です。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

・・・


                           峠三吉