2019/09/01

芥川龍之介のアバター小説 Xと云う患者






   水洟や鼻の先だけ暮れ残る              
                               芥川龍之介


 散文は説明的で、文は外へ拡散する。そして、言葉をつらねて秩序だった物語を組み立てる。 絵画は様々な色彩の絵の具を使って額の中に世界を描く。詩は閉じた空間で、言葉がたがいに響きあう。
 この絵画的手法で短編の物語を彫んだのが芥川龍之介の小説で、  作品の額は西欧文学のアナトールフランスや、象徴詩人ボードレールなどで縁どられ、題材は平安時代の今昔物語、宇治拾遺物語、中国の古典、聖書など世界の古典で、これを使って、日本的タペストリーを近代的手法で織り上げた。そして多くの国で翻訳された。
 芥川小説を素材とした新しいコラージュ小説、英語で書かれた小説、「Xと云う患者」がデイヴィッド ピースによって作られ、黒沢敏行翻訳で日本語版が出された。


 「ある日の事でございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、その真ん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度明方なのでございましょう。」で始まる、芥川文学の代表作「蜘蛛の糸」の文章を原文でほとんどそのまま使って構成した「糸の後 糸の前」。

 芥川龍之介の生い立ちを、芥川龍之介自身を物語の中で描いた「地獄変の屏風」。「2度語られた物語」では自我の分裂を「文章」などに登場する主人公の堀川保吉という第二の自我、分身をつくり、その中で彷徨する芥川龍之介を描いた。
 さらにはキリストを題材とした「黄色い基督」は斉藤茂吉と芥川龍之介と菊地寛の長崎旅行中の物語で始まる。「奉教人の死」「おぎん」など長崎の浦上での基督教徒の迫害を素材にした、キリスト教の少年信者の物語。日本のキリスト教信仰の歴史は誤解の連続ではないかと語るイギリス文化的日本の基督物語となった。
 さらに毎日新聞特派員で訪れた上海を舞台にした「戦争の後、戦争の前」。「キリストの幽霊たち」では歯車を素材にして新たな物語を生み出した。随所に芥川龍之介の文章をそのまま残し、物語の人物や実在の作家たちを小説に登場させ、現実と虚構を取り混ぜた世界を生みだした。



  作家のように考え作家のように話をする、そんなタイプのロボットができるのか。現在、生きていた時の記録を読み込ませ故人のチャット ロボで、その人の分身をつくることができる。 言葉は人格であり思想である。そのためには文章の表層ではなく、の文章を組み立てる発想や物の見方、いわゆる思想を機械に学習させる必要がある。

 この人格を持ったロボットを芥川龍之介のアバターを創り出す発想で、小説家芥川龍之介自身とその作品を組み合わせた、新しいタイプの小説がイギリス人作家デイヴィット ピースの小説「Xと云う患者」だった。

 難しいのは、人の心は単純ではなく、分類し難く、また時代によって変化することである。文芸作品についてもその様式、言葉とそれから生まれる隠喩や、諧謔、皮肉をどのように解釈するかが問われることになる。

 ヨーロッパでは19世紀末に自然主義と浪漫主義を産んだ。明治時代の小説家が、この西欧文化に出会い、ヨーロッパの文化に憧れ、それを至上のものとした。日本でも形式主義の小説に飽き足りなくなった人々は事実を、人間社会の真実を小説に描いた。やがてこの写実が日本では心境小説、私小説になってしまった。一方理想主義の白樺派もまた日本の現実から離れた理想の世界にこもってしまった。

 この時代、都市は近代化し、文化もより自由なモダーンな時代になった。明治の日本文学の後の大正時代を代表する作家芥川龍之介は新思潮、モダニズム文学の旗手として登場した。 

 「或る日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男の外に誰もいない。唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、きりぎりすが一匹とまっている。」
 平安時代末期、ききんで都も餓死した死体に溢れていた。その間を盗賊や餓鬼が横行する代表的作品「羅生門」と「藪の中」そして、仁和寺の和尚の「鼻」や「芋粥」。
 そして中国を舞台にした「杜子春」あるいは江戸時代、あるいは長崎を舞台にしたキリシタン物語と時と時代を変えて、人間の心理を、善と悪を華麗な文体で、「芭蕉に及ばなかった、芭蕉に近いある詩人の慟哭」を俳句や和歌ではない短編の物語で小説化した。 その底流には、生きる本能、このエゴイズムのほかに真実を見いだせぬ厭世主義があった。


「茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の翻った上には、もう風に吹かれた落花が点々と幾ひらもこぼれている。」

 文芸は文章に表現を託する芸術なりとした芥川龍之介の文章は緻密で細心であった。そして、文体はフランス文学の強い影響を受けたものの、西行や芭蕉の美意識の世界が底流にあった。その短編小説は、抒情詩や象徴詩に近いもので、その文体はむしろ日本の古典のしらべを近代化したとも言える。
 
「無数の眼はじっと瞬きもせず、三人の顔に注がれている。が、これは傷ましさの余り、息を呑んだのではない。見物はたいてい火のかかるのを、今か今かと待っていたのである。」その時おぎんのはっきりと意外な言葉を捉えた「わたしはおん教を捨てる事に致しました。」

 基督教のエキゾチックな側面にひかれていた芥川龍之介は、「奉教人の死」でイエスキリストの御血潮より赤い、火の光を一身に浴び、殉教したろおれんぞを描いた。「おぎん」では三人が棄教し、悪魔にさらわれ、堕落する情景、日本の殉教者の心の内と、民衆の心の酷薄さを浮き彫りにした。

  また「神々の微笑」で現実との激しい闘争から生まれた政治哲学の老子、や儒教の教えも、転生輪廻する世界と諦観の仏陀の教えも、また現実を拒否し永遠をめざすキリストの夢も、すべては二千年の歴史のうちに、美しい風景と温和な気候のうちに、静かにのみこまれてしまう宗教の日本化、土俗化の問題を取り上げている。

 ヨーロッパでは1920年代アヴァンギャルドが流行し、日本でもその影響が現れてきた。 芥川龍之介の作品は古典の換骨奪胎、コラージュの手法を用いた、新しいタイプの小説、モダニズム小説として受け入れられた。
 一方、プロレタリ文学が20世紀になって世界的流行となった。彼らは人生を、社会をそして生活し生産する立場の人々を描くことが文学であるとする潮流で、日本でもこれが文学作品で力を持ちはじめた。 

 しかしそれは脳の中の組み立てられた物語であり、一つの流行の商品であって、世界の現実や真実を、人間を描いたわけでは無かった。
 これは後の時代に、ようやくわかることであった。この重圧に対して、開き直ることをしないで、 芥川龍之介は、しだいに私小説の形を取り入れたフィクションを創作するようになる。大導寺信輔の半生、或阿呆の一生や歯車で、自分自身を題材とした物語を創作する。
 
 夏目漱石は「死ぬか、気が違うか、それでもなければ宗教に入るか。僕たちの前途にはこの三つのものしかない」と書いた。この文字通りの芥川龍之介の心の彷徨を「基督の幽霊たち」で物語にした。実の母親と同じ運命、狂気への恐れを、自らをキリストに重ね合わせ、天上への高みに向かう願いと、日常にある永遠に守ろうとするマリアの世界への憧れを、そして、書くことの価値を信じ、言葉の力を信じ、芸術を通じた救済を信じようとしたことを。


 最終章「事の後、事の前」は「高名な作家、芥川龍之介氏 田端の自宅で自殺す」で終わっている。一瞬の閃光を、紫色の火花を命と取り換えてもつかまえたかった芥川龍之介は、 或る阿呆の一生で「人生は一行のボードレールにも若かない。」と書き残し35歳で亡くなる。



   

                     

2019/08/01

たそがれの平安京と西行




 平安時代は藤原一族が、娘を天皇の妃とし、朝廷での権力を握った。そして政府の要職には貴族がついた。皇室は古来からの宗教的指導者としての権威を保ち、平安時代後期には、事実上の権力は、天皇を退位した上皇が握り、院政と呼ばれていた。


  若き北面の武士西行は藤原実能に仕えていた。その妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の皇后になる。当時、白河法皇は日本を支配していた。自らは上皇となって院政を行い、堀川、鳥羽、崇徳天皇の43年間にわたり実権を握った。その力は絶大で、鴨川の水、すごろくの賽 、山法師以外は意のままに、世に君臨し、日本を動かしていた。白河法皇のもとで、幼い頃から育てられたスキャンダラスな待賢門院璋子がその後の時代を動かすことになる。鳥羽天皇のもとに嫁いで皇后となった璋子は第一皇子の崇徳天皇、第4皇子の後白河天皇をもうけた。この二人の間の確執がのちの保元の乱を起こす。

 当時の平安京は人口10数万人、日本の人口は600万人くらいであった。平安末期は、全国的に飢饉が起き、地方では海賊や山賊が跋扈し、京の都も餓死者があふれていた。しかしこの民人の困窮にかかわらず、都の貴族世界は退廃的で柔弱な内向きの世界に陥り、日々を送っていた。

 西行は鳥羽法皇に北面の武士として仕え、その法皇の妃となった17才年上の璋子と出会う。身分の違いからか、やがて二人は別れ、西行は憧れの人璋子を終生熱愛し、多くの歌を作っている。

 知らざりき雲居のよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは

     (雲のかなた上の月に恋をして、その面影を袂に落とした涙に映すとは)

当時、家富み、年若く、心に愁いない西行が23才の若さで出家する。

 世中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり

  鳥羽法皇の死により天皇家と藤原摂関家が分裂し相争い、陰謀渦巻く中、崇徳天皇派と後白河派の衝突、保元の乱が起こった。慈円の愚管抄に「鳥羽院うせたまひしのち、日本国の乱逆という言葉起こりてのち武者の世になりにけるなり」と書かれたように、 武力をともなう権力は次第に地方の名門武士、瀬戸内海地方に勢力を持っていた平氏一門に移っていく。平清盛は、多くの荘園を持ち、日宋貿易で経済力をつけ、さらに強大な武力を持っていた。
 保元の乱で平清盛は、功績を挙げ、国司の頂点である播磨守になり、敗れた崇徳天皇は讃岐に遠島となった。続いて起こった平治の乱以降、清盛が武力闘争の覇者となった。そして太政大臣まで官位を登りつめ、平安時代初期藤原氏が行ったのと同じ方法、すなわち娘を皇室の妃として、朝廷の支配権を握った。

 30代に高野山の草庵に住み、吉野に出かけた西行は、和歌を通して、空海の真言仏教の世界に没入する。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思い続けては秘密の真言を唱ふるに同じなり。

 初花のひらけはじむる梢より そばへて風のわたるなりけり

  (ひらきはじめた桜の花の梢に、すでに無常にも、花の散るときの風が吹き渡る)

 西行39才の時、保元の乱が勃発する。その乱で遠島になった崇徳院は46才で、恨みを抱いたまま讃岐の地で没する。江戸時代の小説雨月物語「白峰」に西行が崇徳院の墓をたずねる場面がある。墓の前に、異形の悪霊が現れ、恨みつらみを語り始める。「かの仇敵ことごとくこの前の海に尽くすべし」と呪詛の言葉を唱えた崇徳院に対して、これを諌めて金剛経を読み、院の霊を供養した物語であった。

 西行は崇徳院の死後、数年して四国行脚の旅に出た。白峰の崇徳院陵、弘法大師の生まれ育った足跡を辿った旅をした。その後、源氏と平家の戦乱を避け、63才にして伊勢二見浦の草庵に住む。平家は清盛の死により没落し、やがて壇ノ浦で滅亡する。日本全土に渡る平家追討の戦いに勝利した頼朝は、幕府を鎌倉に開く。
 この頼朝に、69才になった西行は鎌倉で拝謁した。その後、陸奥国平泉に向かう。当時平泉は独立王国で奥州藤原氏が支配し、後に、義経はその下で庇護された。鎌倉幕府はこの奥州平泉と対立し、義経を自害させ、その後頼朝は大軍で平泉を攻め藤原氏を滅亡させる。

  とりわきて心もしみてさえぞ渡る 衣河みにきたる今日しも

 40年余りの出家の間に、過去から今に渡る自らの選んだ道を思い、戦乱の世に儚く死にゆく同族の多くの人々の思いに心めぐらせ、万感の想いを込めた心情を歌にした。
 
 当時は和歌が文章であり思想であり感情の表現だった。さらに、西行にとっては仏道に入る仲だち、法門を悟る便りであった。
 
 晩年西行71才の時、明恵に出会う。明恵は16才の時出家し、西行に和歌の奥義をおそわる。「我が歌を読むは、遥かに尋常に異なり、華 郭公 月 雪 すべて万物の興にむかひても、凡そあらゆる相皆是れ虚空なること」「自分は花を詠んでも実は花と思うことなく、月を詠じても実は月とも思わず、ただ縁にしたがい興のおもむくままに歌っているにすぎない。美しい虹がたなびけば虚空は彩られ、日光が輝けば虚空が明るくなるのと同じである。自分はこの虚空のような心を持って、種々の風情を彩っているといっても、あとには何も残らない」
 明恵は18才より仏道に専念し、翌年には夢の記を書き始める。後に、高山寺の中興の祖となる。

 ながきよの夢をゆめぞとしる君や さめて迷へる人をたすけむ    
                                 明恵


 日本の美意識の源となると歌を詠み、桜を歌った西行は、後鳥羽上皇が、西行を生得の歌人と高く評価し、自ら編纂した新古今和歌集に多くの作品を取りあげた。 西行の一生は、戦乱の世に生まれ、多くの親しい人の死にめぐり合い、生涯旅を友とし、遁世者の栄華を極めた。その歌とその生活は後の世に大きな影響を与えた。


 ともすれば月すむ空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな



願い通り、桜の花の下、きさらぎのもちづきのころに亡くなる。西行73才の時であった。

2019/07/14

花火、 西東三鬼の俳句






    暗く暑く 大群衆と花火待つ

                          西東 三鬼

    遠花火 海のかなたにふと消えぬ
                         長谷川 素逝



 西東三鬼は「昭和17年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。」で始まる神戸物語を発表する。トアロードの安アパートは、日本人のほか、ロシア人、トルコ人、エジプト人や台湾や朝鮮の人たちが生活を送る。多くの外国人との生活を戦時下の神戸の街を舞台に物語を描き始め、戦後の混乱期の神戸の街の異邦人の生活を実録風につづり戦後の昭和29年「俳句」に連載を始めた。


      水枕 ガバリと寒い海がある


 西東 三鬼は明治33年(1900年)生まれ。同じ年に詩人の三好達治が生まれている。歯科大学を卒業後大正14年(1925年)シンガポールで開業。昭和13年歯科医をやめ、無季俳句、新興俳句を作る。
 高浜虚子のホトトギスと対決する俳句の勢力、新興俳句運動が昭和10年代に起ってくる。
昭和3年(1928年)に虚子は「花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四季の移り変わり依って起る自然界の現象、並びにそれに伴なふ人事界の現象を諷詠するの謂であります。」それに反対し秋桜子が馬酔木をつくり、その新興運動を推進した。

 大正14年の震災以降、昭和に入り日本は大国の道を目指すも前途は混迷し閉塞に陥っていた。それを打破するために日本では新興財閥、新興仏教、新興科学などがブームになり、モダニズムとマルキシズムが日本を席巻した。 昭和12年(1937年)日中戦争始まる。それに対して、この強烈な現実こそは、無季俳句本来の面目を輝かせる絶好の機会だとして、三鬼等は、戦争をテーマの俳句に熱中した。


       兵隊がゆく まつ黒い汽車に乗り

       兵を乗せ  黄土の起伏死面なす

       機関銃 熱キ蛇腹ヲ震ハスル       

 

 昭和15年(1940年)京大俳句事件で逮捕された。

 昇降機 しづかに雷の夜を昇る の俳句を、「雷の夜すなわち国情不安な時、昇降機すなわち共産主義思想が昂揚する」という意味で新興俳句は暗号で同士の間の闘争意識を高めていたという。治安維持法違反であった。翌年、昭和16年(1941年)12月7日真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる。



      
      
 長谷川素逝は明治40年(1907年)生まれ、昭和12年(1937年)に召集され、14年(1939年)戦場の句集「砲車」を刊行。高浜虚子は序文に「素てつ君も其後砲兵中尉に昇進したのであるが、不幸にして病を得、今は内地に還送されて居る。然も支那事変は有史以来の出来事であり、その事変の俳句における一人者であり得たといふことは以って自らを慰む可きであらう」

 中国戦線で、中国大陸上陸後南京に方面に転戦し、揚子江で雨と泥濘の中敵前上陸、南京陥落後、徐州戦線に参加、多くのうたを詠む。その後、昭和17年(1942年)日本文学報告会ができ、俳句部会の会長は高浜虚子で、国民詩としての俳句本来の使命を達成し、俳諧報国を念ずるとした。当時、俳句部会には入会申し込みが殺到した。

      
      夏灼くる 砲車とともにわれこそ征け

      かをりやんの 中ゆく銃に日の丸を 

      おほ君の み楯と月によこたはる       長谷川 素逝


 戦後「定本素逝句集」には「砲車」の中の「しづかなる いちにちなりし障子かな」などの3句以外は消去した。

      寒燈の 一つ一つよ国敗れ


 戦後、西東三鬼は、終戦を神戸で迎えた。終戦とともに、米軍の艦載機が空から捕虜たちに慰問物資を投下し始めた。米国軍は、フイリッピンから移動し、和歌山から神戸にも進駐軍としてやって来た。水道工事の仕事をしながら、再び俳句を始めた。

     広島や 卵食う時口開く

昭和29年(1953年)から「俳句」に「神戸」「俳愚伝」を、天狼に「続神戸」を連載する。「俳愚伝」は戦前の俳句弾圧、京大俳句事件の様相を描いて当時の日本の文化統制の記録となっている。

     中年や 遠くみのれる夜の桃

     おそるべき 君等の乳房夏来る 

 西東 三鬼は、昭和17年東京を去って神戸に住みつき、戦前、戦中、戦後の14年間、神戸を中心に、関西の地で暮らし、多くの句を残した。






2019/07/01

上皇の夢 実朝の歌





  昨日まで 花の散るをぞ惜しみこし 夢かうつつか夏も暮れにけり

                                  源実朝


 聖徳太子は律令制度をつくり、それを支える中心の思想に仏教をすえた。この世界の見方が定着し、社会を安定させ、日本社会はその世界観で動かされていた。そこにさらに日本古来の正直と道理を守る考えが加わって、日本は神と仏の加護の下で暮らす社会であった。
 平安時代も京の都の天皇を中心とした貴族が日本を統治した。彼らは仏教の世界を信仰して暮らしていた。平安末期になると律令制は綻びきたし 上皇による院政になって、仏教では末法思想が広がる。滅びつつある平安朝に権力を握ったのが後白河上皇でそれを武力で支えたのが平清盛であった。後白河上皇とその姻戚で、京武者となる平清盛が天下人として君臨した。清盛は後白河上皇の権威を借り、勅命絶対の思想のもとに、地位を極めた。

 遊びせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺がるれ

 後白河上皇は若き日々、当時のモダーンな、今様をうたいその世界に没頭した。
後白河上皇は、漢詩や和歌などの文芸にも秀で、音楽や儀礼に通じ、蹴鞠の達人であった。後白河上皇の義理の兄弟となる平清盛は、武家として初めて権大納言に昇進する。その後、上皇は平清盛とは敵対し、平家を滅亡させる。

 
 平家滅亡の後、鎌倉幕府を源頼朝が開き、後白河上皇の死後、征夷大将軍になる。朝廷は後白河上皇の孫の後鳥羽上皇が権力者となる。
 後鳥羽上皇は才能に恵まれていた。朝廷で和歌を主宰し、正当な王であることを示す「新古今和歌集」を編纂した。和歌だけでなく、琵琶をも演じ、武芸を得意とし、蹴鞠にも長けていた。日々、馬に乗って弓を引き、川をおよぎ、山で狩りをし、礼楽の思想によって朝廷の権威を高めた。

 源頼朝は実朝8歳の時亡くなると、その後鎌倉幕府は陰謀と暗殺の渦巻く世界になり、公武の対立、教団の勢力の増大そして、そのそれぞれが党派に別れ、抗争していた。その混乱の中、源実朝は三代目の将軍になる。源実朝は後鳥羽上皇と姻戚関係で、清盛と後白河院と同じ関係となる。
   
  大海の 磯もとどろによする波 われてくだけてさけて散るかも

 

 この頃になると武士がしだいに力をもちはじめ朝廷は力を失いつつあった。後鳥羽上皇は源実朝との良い関係を保ち、公武の合体を進め、子供のいない実朝が退位し、後見人になり、京の天皇家が幕府の後継将軍にする策を進めた。実朝は異例の速さで官位を昇進し、瞬く間に右大臣となった。
 名実共に若き指導者となった 源実朝は、鶴岡八幡宮の拝賀の夜、二代将軍頼家の遺児、甥の公暁に暗殺される。この暗殺は歴史を大きく変えることになった。幕府内は悲しみと動揺が広がり、主の死を哀傷し、翌日には百余人の御家人達が出家し、公暁の近親者は処罰され源氏の血族は滅亡した。

 出でて去なば 主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春を忘るな

 源頼朝が暗殺されると、京と鎌倉のあいだに確執が生まれ、 自らの力をたのむ後鳥羽上皇が執権北條義時を撃つ命を発する。それに対して関東の武士は反撃し、承久の乱が勃発する。

 この頃から、西欧中世の騎士道に似た武士道の源流が見られる。武器を持ち、自立した彼らにとって、最も大切なものは武人の誇りと主従の契りである。天皇に従うべきか、忠臣の道を選ぶかを問われた時、忠臣の道を選ぶ。そして有徳者こそ君主になるという、思想で、天皇や上皇でも天道に反すれば統治者の資格を失うという思想であった。

 承久の乱では、後鳥羽上皇の北条義時追放の令に対して、関東武者は鎌倉の武家の棟梁のもとに集まり、三代将軍のご恩を忘れず、京に向かって軍を進めた。いかに天皇の命令が重いといっても、主従関係に従わないのは弓馬の道に反すると多くの武士は考えた。

 承久の乱で関ヶ原の戦いに匹敵する天下分目の戦いは、関ヶ原から東へ30キロほどの、木曽川西岸の地で行なわれた。当時の京都文化はこの地にも及び、今様の歌い手、傀儡子と言われた歌舞集団はここから、後白河院院のもとに召されていた。この木曽川の西岸、墨俣の地(現在の大垣市墨俣町)はかつて、木曽川、長良川、揖斐川や中小の河川が、洲股(墨俣)で合流し大河となり伊勢湾に合流していた、この地が渡川場で、源平の合戦以来、東西の境になる要衝であった。ここに上皇軍は陣を構え、1万9千人の軍勢で19万人の東軍を迎え撃った。西軍は山田 重忠の奮闘及ばず、海道大将軍 藤原 秀澄は墨俣の陣から2日で撤退した。その後京都の近くの瀬田川の戦いに勝った幕府軍、東軍は京の都に押し寄せ、京都市内の戦闘で承久の乱は幕を閉じた。


 聖徳太子の律令制と仏教に裏ずけられた権威の物語は綻び、消滅した。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に流され、京の都の朝廷の世界が関東の武士の世界にとってかわられる。鎌倉幕府は、北条泰時が将軍職にはつかず、執権となり複数の指導者体制をとり、武士の精神を法律とした「関東御成敗式目」を定める。

 

 後鳥羽上皇は、現在の島根県の美保関から、船で隠岐の島の海士町に流された。この美保関から、天気の良い日には隠岐の島が見える。隠岐の島は一番大きな島後と島前と呼ばれるより本土に近い小島に別れる。上皇はこの島前と呼ばれる小島の海士町に少数の付き人とともに暮らし、和歌の世界に没頭し、「隠岐本新古今和歌集」などを編纂した。時々使者が京から訪れ、それを京の人々に届けた。その後京に復帰することなく隠岐で60歳の生涯を閉じた。

 我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 心して吹け

 文人であり侍であった右大臣実朝は暗殺され、和歌が残った。後鳥羽上皇の遠島により日本は武者の時代になり、明治維新まで続いた。




 * 承久の乱の戦場となった木曽川、墨俣川(現在の長良川)の西岸は壬申の乱以来幾たびも、東(坂東)と西(京)の勢力が激突し、戦場となった。壬申の乱では、671年大海人皇子(天武天皇)が自分の領地安八磨郡の地で、大友皇子軍を撃ち破った。墨俣町の不破神社にこの神社の神が娘に化身した大海人皇子を助けたとの伝説が残る。

 墨俣川の戦いは1181年(治承5年)平の清盛の5男、平重衡が総大将で東に向かい、この川を渡ってきた源義円(義経の兄)を倒した。1338年の青野ヶ原の戦いでは、後醍醐天皇の命を受け、北畠顕家が奥州から駆けつけ、室町幕府軍が、現在の大垣市赤坂町で激突した。


2019/06/09

脳の中の出来事


6月を綺麗な風が吹くことよ

                            正岡 子規

 100年前から、特定の音階の音を聞くと、特定の色を感じる人がいることは解っていた。フランスの詩人アルチュール ランボーは母音に色を感じた。同じように、数字を見て色彩を感じたり、味覚から他の感覚を感じ取り、匂いから情動と色彩と自然が呼び起こされる人もいた。 その後、200人に一人は、この共感の変化、共感覚がみられることがわかった。
 そもそも私たちが日常使う言葉には、複数の感覚にまたがる、共感的メタファーたとえば、派手な(うるさい)シャツを着ているとか、鋭い味といった表現がある。これは脳の中で音と味覚と色など視覚を感じる神経の配線がクロスためと考えられる。
 このクロス配線は芸術家、詩人や小説家にこの遺伝子が一般の人に比べて統計では約7倍に見られる。小説家には、脳の中で無関係に思える事柄を結びつける、メタファーを作る技能が秀でていることがわかる。詩人はこの感覚を研ぎ澄まし文字に表現し、俳句はその究極の形といえる。


 交感 

                           ボードレール 悪の華

自然は荘厳な寺院のようだ
列柱は厳かな言葉をおりなし
人は柱の間を静かに歩む
象徴の森をゆくが如くに

遠くから響き来るこだまのように
暗然として深い調和のなかに
夜の闇 昼の光のように果てしなく
五感のすべてが反響する

嬰児の肉のような鮮烈な匂い
オーボエのようにやさしく、草原のように青く
甘酸っぱく 豊かに勝ち誇った匂い

無限へと広がりゆく力をもって
こはく 麝香 安息香の匂いが
知性と感性の共感を奏でる

 人間はネアンデルタール人のいた頃から言葉を獲得した。それは共感覚と同じように聴覚と視覚の間にそなわったクロス活性があり、また手と口にもクロス活性がみられる。脳内で手の動きが舌、唇、口の動きにつながり、ものの形を認識する領域と聴覚がつながり、聴覚から視覚がいっしょに働いて、手招きをし、「アー、アー」と叫んでいたものからある日「ここに来い」という原始的言語が生まれる。
 そして、単純な動作や、ものの名前から、やがて言語は複雑なことがらを表現し、それを連ねて、ロゴス的表現が生まれ、論理を生み出す。
 そして言葉はあらゆるものの扉となった。言葉、単語から色彩を、音とひふの感覚を、そして過去の記憶を呼び起こす。6月の風は、その湿気と、綺麗な緑の、海岸の白南風につながる。
 つながりを持った言葉がたがいに響きあい、音はこだまし、香りをはなち、色彩をきらめかせる、それを受け取った言葉が音や香りや色を無限に広がらせる。やがて深い共通感覚の場所にも及び、部分が共鳴し、詩全体が象徴の森となる。




 人間の脳は本質的に、モデルを作る機械です。私たちはそれに基づいて行動するための有用な世界の仮想現実(バーチャル リアリティ)のシュミレーションをつくる必要がある。そのためにほかの人たちの心のモデルをつくらなくてはいけない。これは脳の中の前頭葉にあるミラーニューロンというと特別なニューロン群で、相手に対する共感力に関係する部位が働いている。人が顔を赤らめるのも、他者の心を理解するためで、人間だけが赤面する。これが障害を受け、他の人の行動の意味が理解できない子供達が、自閉症スペクトラムと呼ばれている。
 
 赤ちゃんは大人の行動を真似する。そして猿や小さい子供は大人の行動を真似する。例えばオランウータンは飼育係りの様子を観察していて、自分で錠を開けることができるようになる。真似をすることで学習していく、この模倣の能力が文化を作り出し、文化を伝えていく。人類は、およそ5万年から7万年前に火を使い、精巧な道具を使い、それを模倣し文化はたちまち伝搬し、さらに儀式や呪術、芸術、を生み出した。

  人は何に対して、愛着を感じ、情動を動かされるのか。病室の患者に、ラブラドールなどの愛玩犬で心の平静を保つ治療がなされています。この愛犬のなにが心を落ち着かせるのか、そのしぐさか、その手に感じるぬくもりか、温かさや毛ざわりか、動きなのか、あるいはその表情なのか。
 最近高齢者の好むロボットの研究で、実際の人間や動物の形をした嘘っぽい愛くるしさより、コロッとした球状の機械の組み合わせが生き物を感じさせることがわかってきた。これを理解するのに特異な脳の損傷によるカプグラ症候群が手がかりを与えてくれます。
 視覚と情動の関係が断たれた非常に稀な脳の障害がカプグラ症候群と呼ばれています。交通事故で頭に怪我をして、こん睡状態から治って、知力も会話もすべて回復して、自分の母親と会った時「この人は私の母とそっくりですが、母じゃありません。母のふりをしている偽物です。」という。電話で話しをしているときは母親として認めるのに、面として会っているときはそれが認められない。この原因は、視覚中枢と情動の中枢である扁桃体の配線が外傷によって切れてしまったために、視覚で母親は認めても、そのとき母を感じる情動が結びつかないためです。そこで、脳は一生懸命解釈しようとして母に似た偽物となる。同じように、形は似ていても情動を伴わない機械や生き物は決してペットとはならないし、アンドロイドは人類にはなれません。



 ライオンに襲われた探検家デイヴィット リビングストンの有名な話に、自分の腕が食いちぎられたのを見ても、痛みはおろか恐怖さえもまったく感じなかった話や、変な痛みの代表としてネルソン提督が切断された手が実在するよう感じると書いたファントムペイン。
 さらに現在でも治療にこまる、反射性の交感神経ジストロフィーと呼ばれていた(現在はCRPS、複合性局所疼痛症候群)持続する痛みがある。小さなけがである、虫刺され、打撲などがきっかけで、しだいに腕全体が腫れて、発赤が起こり、ついには動かすこともできなくなる。腕を動かそうとすると、動きを妨げる強い痛みが起こり、それが学習された痛みとして、麻痺にまで至る。これらは痛みは脳内の出来事で、その仕組みは次第に明らかにされ、治療も進んできました。
 さらに、脳梗塞などで障害された神経が再生や代替されることで、麻痺した手足が回復し、失語症も治る人が出てきました。それは神経そのものの再生をさせる医療によるもので、しだいに臨床に使われるようになってきました。そして言葉の起源や美を感じる脳の解明が、進化的な見方と相まってしだいに明らかにされています。


               参考 V.S.ラマチャンドラン 脳の中の幽霊、ふたたび
 

2019/05/26

猿の惑星、サピエンスの進化

 
 猿の惑星は、1968年公開された。チャールトン ヘストン演じる宇宙飛行士テイラー達は、宇宙船で帰還中、謎の惑星に不時着した。この惑星は進化した猿が支配し、言葉をしゃべり、英語で、しかも退化した人類は猿に支配されていた。テイラーは生き残った人間を探すために禁断の地を目指し、そこに廃墟となったニューヨークの残骸、自由の女神の像を発見する。

 続編ではこの猿の惑星の進化したチンパンジー、コーネリアスとジーラが地球に宇宙飛行士としてやってくる。1961年チンパンジーのハムがアメリカの宇宙船で宇宙飛行を行い、その3ヶ月後、ソ連のガガーリン少佐が軌道を回る宇宙飛行に初めて成功し、翌年にはチンパンジーがアメリカの宇宙船マーキュリー アトラス5号で地球軌道を初めて回った。

 1960年代は、アメリカとソ連の宇宙開発競争が華々しく展開された。先行したソ連の人工衛星による人類初の宇宙飛行はアメリカに衝撃を与え、月面着陸のアポロ計画につながる。何よりも当時、核戦争の脅威は現実のものであり、猿の惑星は、その核戦争が起こった後の、地球を描いていた。そこはお互いに争い、退化した人類は生き残るものの、支配するのは言葉を獲得した理性的猿の世界だった。人類は感情に支配されると、文明を滅亡させ、その後の世界は進化し英語を、言葉を獲得した、理性的な猿が支配する文明批判の物語だった。

 当時から、チンパンジーなどと人は遺伝的に似ていることはわかっていた、しかしその後人類が、言葉を獲得し、文化を作り、現在の社会を創り上げるまでの詳しい過程は謎だった。最新の遺伝子解析や発掘された遺跡の分析によって、その謎が急速に明らかにされてきた。

 誰もが、親と異なる7パーセントの突然変異の遺伝子をもっている。それによって、アフリカ熱帯雨林の類人猿、人科のゴリラやチンパンジーから、600万年前に別れ、進化し、深林からサバンナに出て、ホモ・サピエンスが生まれた。 森林の中で、適応した遺伝子は、森の匂いを嗅ぎ、森の恵みを食料として、進化してきた。現在の人の中にも、言語の生まれる以前の、感情や感覚は残され、他の人科の生き物と共通性が認められるもののその社会は彼ら遠い祖先とは全く別物となった。

 以前は森林の中で暮らし緑に囲まれた世界で感情と接触と目を合わせる小集団の間の世界であったものが、ゆっくり歩くのに適した二足脚歩行でアフリカから、ユーラシア大陸を移動し、その後、ネアンデルタール人やその他の原人と呼ばれる人々と遭遇する。そしてネアンデルタール人やデニソワ人などの古代人と交雑しつつ、世界中に広がっていった。現在でも今生きている人類の遺伝子には数パーセントの彼らの遺伝子が混じっている。これら20種のサピエンスのうち現在生き残っているのは人類、ホモ・サピエンス サピエンスだけである。

 人類は 森林の小集団から、大きな集団を作り力を合わせて外敵と戦い、厳しい環境も道具と火を使うことによって克服し生き残り、他のサピエンスは滅んだ。大きな集団の社会をつくるのには言葉が必要であった。人は集団が大きくなっても、言語によって意思を伝えることができ、意思の疎通をはかり社会を作った。

 言葉によって目の前にない状況を想像できるようになり、隠喩(メタファー)をつかって言葉からイメージを想像できるようになり、言葉によってそれを共有できるようになった。力強い相手は、猛獣のように凶暴である、あるいは嫌な相手にはキツネのようにずるい奴らと表現する。言葉によって異なるものを1つにまとめあげるだけでなく、比喩することで、感情を伴った認識のための区別をつくる
 言葉と言うのは世界を切り取って当てはめ、自分の頭の中で整理し、世界を組み立てることであり、言葉で集団をまとめ、呪術で危機を乗り越えた人々は、こうして地球上のあらゆる土地に住み、文化をつくった。

 この言葉は死者にリアリティーを与えた。時間を空間と同じようにとらえ、死後の世界や輪廻の思想を産み出した。集団をまとめるためには同じ創造者の子孫であると言う神話あるいは宗教も生まれた。そのことによってうわさ話のできる数十人の集団から数百人数千人、数万人以上の集団をまとめることができた。

 その集団が、集団の中での共感する能力と言葉を使い、他の集団と争うようになった。武器を狩猟ではなく、戦いに使い、その武器が発達すると戦争になり、猿の惑星で描かれたように最後には、人類を滅亡に導くことになる。



 ユーラシア大陸の人類は、歩いて北に向かいシベリアまで到達し、やがてアメリカ大陸にも渡った。南に向かった人々は、インドネシアの島々を渡ってオーストラリアに、そしてユーラシア大陸の東の端では、北からは樺太を通って、南からは朝鮮半島や海を渡って日本列島にも辿りついた。 最近縄文人の全ゲノムの解読がなされた。縄文人は1万6000年前から3000年前に日本列島に暮らしていた人々で、日本の各地の森で狩猟生活をしていた。その後、3000年前から大陸から弥生人が渡来して混血した。

 人はそれぞれの場所に住みつき、次第に大きな集団ができ、共通の祖先を持つ民族ができる。それぞれの民族はその初源の物語を持っている。また、それぞれの宗教もまた創世記の物語を持っている。また国によって、祭政一致の宗教も生まれ得る。そしてそれぞれの国は歴史、正統な国史をつくりだす。

 現代においてもこの思想、物語は、どの集団に対する共感性かで異なってくる。血縁か地域か民族か世界か人類かは繰り返し問題となり、国際主義か民族主義かは時代によってどちらかに傾く。しかし、この言葉は、どのようにも言い変えることができるし、フェイク ニュースもできる、また時には物語は虚構を生み出すことがある。
 時間をつくった脳は、過去の歴史を認識する。人の行動の軌跡、歴史は、人類同士は争いを繰り返し、地球上の多くの生き物を絶滅させ、技術を発達させてきたことを物語っている。
さらに、同じようにして、未来を想像する。2673年人類の未来は、進化した猿に支配されるのか、あるいは遺伝子操作による新しい生命体の世界になるのか、あるいは、より精巧なコンピューターの世界になるのか。


 

2019/05/05

ウォルト ディズニーとマーク トウェイン

 戦後の日本には、アメリカ型の民主主義が取り入れられた。 その中で最も憧れと影響力を与えたアメリカ文化はマークトゥエインの小説とウォルト ディズニーだった。

 ウォルトディズニーは1901年生まれる。1920年に最初のアニメーション映画を作り始め、3年後ディズニー最初の大ヒット映画「不思議の国のアリス」を制作した。
そして、1928年にはミッキーマウス映画「蒸気船ウィリー」がつくられ、みずからその声を演じた。この映画はアメリカ国内だけでなくイギリス、フランスそしてドイツとヨーロッパ中に理想の短編映画として大人気となる。
ミッキーはトーキーの奇跡である。ジャズのリズムで生きている動物。あゆみのひとつひとつがステップ動きのひとつひとつがシンコペーションである。こうして世界中に熱狂的ミッキーファンを生み出した。
 その後1930年代に白雪姫やピノキオの世界的に有名な作品が制作され、戦争中はヒットラーに反対する「総統の顔」「理性と感情」「死ぬ教育」「ニワトリのリトル」のアニメ4作品を生み出し、1943年には「空軍の勝利」が公開された。これはアメリカの鷲が、世界をその手で囲い込もうとするファシストの蛸を何度も空から攻撃するというもので、空軍のシンボルとなる部隊章にはミッキーやドナルドそしてプルートなどが登場した。
 戦争が終わり、1955年、カルフォルニア州アナハイムにこのアニメの主人公をテーマにした遊園地がつくられた。大人も子供も生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出をつくる場所、いつも清潔で、いつもおいしいものが食べられる空間、ランド内がショーの舞台、家族で楽しめるエンターテイメントの世界、デズニーランドを創り出した。
 その後、アメリカのフロリダにもう一つのディズニーワールドリゾートが建設され、海外にも広がっていった。日本では東京デズニーランドが1983年に埋立地の舞浜の広大な土地につくられ、デズニーシーとともに国内だけでなくアジアの人々の憧れのリゾート地になった。

 そのディズニーランドの中にトムソーヤ島があり、丸太のいかだに乗って冒険の島に行ける。そしてこの島は国外のディズニーランドにも形は違ってもつくられ、冒険が楽しめる。

 アメリカ小説の源流を作ったマーク トウェインは1835年に生まれる。ミズーリ州のミシシッピ河畔に4歳の時から生活し、1869年に「無邪気な外遊記」と「地中海遊覧記」を出版し、  1873年に「金ぴか時代」で人気作家となり、1876年「トムソーヤの冒険」でベストセラー作家になる。
1885年黒人奴隷のジムとイカダで河を下って逃亡し文明から離れミシシッピー河で生活する「ハックルベリー フィンの冒険」を出版。ヘミングウエーが「アフリカの緑の丘」で絶賛したこの物語は、ミシシッピー川の自然と黒人のジムとジムに共鳴するハック少年の心の冒険小説だった。物語の中でユーモアある文章を口語体の簡潔な文体で奴隷制度とアメリカ文明をも描きだした。 

 その後も講演を続け、20世紀初め日露戦争の直前の時代、独立を目指すフィリピンを鎮圧したフィリピン戦争に対して、アメリカの好戦的植民地政策に反対し、反帝国主義連盟に加わり、多くの風刺論文を新聞に発表した。

 
 マークトゥエインは「金ぴか時代」で南北戦争後のアメリカ社会を描き、アメリカ社会に対する鋭い観察眼を持ってその文明を批判的に表現し、その後も自由主義者として政府に批判的であった。
 日本には戦後になって、アメリカ児童文学として紹介される。明るい冒険の物語にアメリカ民主主義の風をミシシッピー河の流れを感じ取り、アメリカの緑の自然の中の冒険ものがりは当時の少年の憧れの世界文学となった。 


 戦後民主主義の下日本の男の子たちは、トムソーヤやハックルベリーの冒険に夢中になり、女の子たちは白雪姫やシンデレラを夢見た。そして平成時代には、東京ディズニーランドとディズニーシーは、日本中から子供たちとその家族、若者そしてあらゆる世代の人たちが非日常の空間を体験するためのリゾート地となった。
 人々はミッキーやミニー、ドナルドやプルートのキャラクターを身につけ、トムーソーヤやハックルベリーは人工の夢の島に再現され、この清潔で安全な環境で、童心にかえって、ディズニーのエンターテイメントを、アメリカの精神を日本化した夢の世界を体験した。その後、しだいに日本以外の中国、韓国、東南アジアの若者を惹きつけ、彼らの憧れの聖地となった。

 それにしても、マークトウェインだけでなく、スターウオーズまで取り込んでしまうディズニーの力は偉大です。
 令和の時代その影響力で、日本はさらに国際化し、幸せで、それぞれが個性的な世界、日本全体がディズニーランド化するかもしれません。