2021/06/29

盗まれた脳 アルツハイマー病

  ドノバンの脳は、1943年アメリカSF作品で、脳医学者パトリック コーリー博士が、アリゾナの砂漠に墜落した、大富豪のドノバン氏の体から脳を取り出し、ガラス容器の中でその脳を生存させる。やがてその脳は意識を持ち、パトリック博士の身体を、ドノバンの脳が支配し、博士の肉体を乗っ取ってしまう。その脳が多くの人を支配し、その命令のもとに、殺人を犯し、脳の生命を保つガラス容器を破壊しようとした人をも殺害する。この恐怖の物語は、最後にパトリックの友人、シュラットによって培養器のガラスとともにこのドノバンの脳が破壊され、機能を停止することで終わる。



 アルツハイマー病は、SF小説のように表現すれば、 それは 脳の細胞を静かに盗んでいく泥棒のように、何者かが毎夜訪れ、脳の中に静かに入り込んで、神経細胞を1つずつ破壊していく。脳細胞は破壊され、次第に脳の活動による記憶や、感情、思考力を奪い、やがて脳の支配が全身に及ばなくなってくる。最初に現れる典型的な兆候は物忘れで、次に、より深刻な記憶喪失がやってくる。そしてその後、言動は要領を得ないものになっていき、混乱し幻覚を見るようになり、人格が変化して、怒り、不安、落ち込みと目まぐるしい精神状態を変化させていって、脳の大半がやられてしまうと全身の機能も次第に停止していく。


 すべての精神疾患は脳の病気であるとの信念で、1906年アルツハイマーがアウステ Dの症例を観察し、剖検して報告を行った。進行する認知障害に、幻覚や妄想をきたし、亡くなった患者(アウステ  D)の脳組織の一部を染色し、プレパラートで観察すると、脳の萎縮と動脈硬化性病変そして、アミロイド斑と神経線維の変化が見つかった。このアミロイド班は神経細胞の間に形成されるタンパク質の断片からなる異常なタンパク質のプラーク(塊)であった。

 これをもとに、1910年エミール クレペリンが精神医学の教科書に初老期認知症をアルツハイマー病と名ずけて記載した。 そして、注記として、アルツハイマー病の臨床的解釈は現在のところ未だ不明瞭であると書き加えた。


 アルツハイマー病は、それが正常な老化の避けられない一部なのか、それとも老化とは完全に異なる、純粋に神経病理的な疾病なのかはその後も、明らかではなかった。どの病気でもその概念が明らかになり、検査法が確立するまでは、多くの要素が複雑に絡み合っているため、因果関係が確実にはならないことが多い。

 アルツハイマー病の診断では、血液検査も神経の検査も正常なので、まず話を聞いてテストし、その結果を判断することが重要になる。そのためには、問診を標準化する必要があった。認知機能の標準化された最初の診断は、ミニメンタルステート(MMSE)検査で始まる。さらに詳しく記憶などの検査を長時間に渡って検査して、これを繰り返し、病気を除外して診断に近ずいていく。

 さらにこの診断を難しくしているのは、アルツハイマー病に脳の外傷や、脳血管の障害あるいは甲状腺機能の低下などを合併することもあり、正常の老化と、記憶障害、記憶障害と認知症を区別し診断を確定するのはなかなか難しい。


 そして最近まで、血液の検査や脳の画像による診断は出来なかった。画像検査のCT,MRIができても、診断の確定はできなかったのは、これらの画像で脳が萎縮しているのは、すでに病気がかなり進行し、細胞が破壊された結果の脳萎縮の像であったためであった。 結果的に、いったい何人がアルツハイマー病になっているのか、何才の人がどのくらいの頻度でその病気になるのかという、その人数さえも正確にはわかっていない状態がアルツハイマー病の病名がついてからも長い間続いていた。


 20世紀後半になり、人々の寿命が急速に伸びる長寿社会になると、アルツハイマー病の患者は全世界で急速に増え、ガンや動脈硬化による病気とともに、社会の対応が世界中で問題となり、急速に診断方法も進歩してきた。


 1992年イギリスの神経遺伝学者のジョンハーディーがアミロイドβタンパクの沈着がアルツハイマー病の病変を引き起こす要因であるというアミロイド カスケード仮説を発表した。このアミロイドβは正常にある水溶性のタンパク質で、それが不溶性となり塊をつくり、神経細胞の周りに沈着して神経細胞を死なせてしまうという説であった。この説をもとに、画像の診断や血液検査が開発された。


 画像検査法では、 PET検査が有効であった。このアミロイドの沈着がアルツハイマー病の発症20年前から見られることから、アミロイドぺット検査でその沈着を測定できれば、その沈着の多い人がアルツハイマー病の可能性が高いと判断できる。さらに血液中のアミロイドベータの検査も最近可能となってきた。


 今年6月8日アメリカ食品医薬品局がアデュカヌバブが、脳内のアミロイドβプラークを減少させる効果があるとして、アルツハイマー病の治療薬として初めて承認された。この薬はアミロイドの蓄積が確認された軽度の認知障害および軽度認知症の患者のアミロイドβプラークを59%から71%減少させ、アルツハイマー病を治療できる初めての薬となった。ようやくアルツハイマー病の治療はスタート台に乗った。



この不思議で波乱に満ちた人生における

最後の場面は

2度目の子供時代、そして完全な忘却。

歯もなく、目もなく、味もなく、何もなく。

                            シェイクスピア 


  長寿社会はアルツハイマー病など脳の病気の時代でもある。