2018/06/11

草野心平と詩人黄瀛

川面に春の光はまぶしく溢れ。
そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ葦の葉のささやき。
行行子は鳴く。行行子の舌にも春のひかり。

土堤の下のうまごやしの原に。
自分の顔は両掌のなかに。
ふりそそぐ春の光に却って物憂く。
眺めていた。

少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環をつくる。
それをなわにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはいる。
その度に富士は近ずき。とおくに坐る。

耳には行行子。
頬にはひかり。


 草野心平は1921(大正10年)年1月、日本を出て、中国広東にあった嶺南大学に入学した。1903年(明治36年)512日生まれの心平、18歳の時であった。嶺南大学はアメリカ型のミッションスクールで、外国人が経営する学校で独自のカリキュラムで運営されていた。教員の4割は中国人、残りの多くはアメリカ人の教師であった。

 この頃中国では五-四運動が始まった。これは日本の対華21箇条の要求を中国政府が受け入れたことに反対する反日運動であった。

1923年(大正12年)はじめての詩集「廃園の喇叭」を発表する。中国の広州にいて、1925年(大正14年)もっとも中国らしい名前の同人誌「銅羅」を発刊した。
 当時草野心平は無名であった。「春と修羅」の詩を読み、それに感動し「銅羅」に、やはり無名の宮沢賢治の作品も載せた。その詩を「表現過程においていつの間にか、天然自然が濾過器としての彼を透って、賢治的な心象風景を描いた」と評して高く評価した。この「銅羅」には草野心平を中心に黄瀛、宮沢賢治、高橋清吉、三好十郎など多くの詩人が参加した

 この中で、当時は黄瀛が詩人としてもっとも有名だった。黄瀛は中国人の父と日本人の母の間に生まれたハーフで、中国の青島日本中学校時代、多くの日本語の詩を発表し、日本でも認められていた。その後、進学のため日本にわたり、高村光太郎のアトリエで多くの時間をすごしていた。その頃草野心平を光太郎に紹介した。
 そして高村光太郎のもとに黄瀛、賢治、心平は私淑することになる。
 その後、黄瀛は文化学院に在籍した後、陸軍士官学校に入学、2年後に卒業する。1931年(昭和6年)南京にわたり蒋介石の国民党に参加する。

1928年(昭和3年)に「銅羅」は廃刊、草野心平は同年11月「第百階級」を出版、生活に苦しみながら詩を創作する。そして1935年(昭和10年)には歴程を創刊する。

秋の夜の会話
 
さむいね。
ああさむいね。
虫がないてるね。
ああ虫がないてるね。
もうすぐ土の中だね。
土の中はいやだね。
痩せたね。
君もずいぶん痩せたね。
どこがこんなに切ないんだろうね。
腹だろうかね。
腹とったら死ぬだろうね。
死にたかないね。
さむいね。
ああ虫がないてるね。


 1937年(昭和12年)盧溝橋事件から、日中の全面戦争になる。その後、蒋介石の国民党とドイツの仲介により日本との和解が進められた。それに対し、日本の陸軍参謀本部は現実的判断から和平を求めた。一方近衛内閣は国民の熱気におされ、賠償責任が必要であると主張し和解交渉は決裂した。1938年(昭和13年)、近衛内閣が国民政府を相手にせずと声明を出し、日本は汪兆銘を担ぎ出し南京政府を作った。
 中国には共産党の延安政権 、蒋介石の指揮する国民党の重慶政権そして南京にそれらに対抗するための日本が支える汪兆銘の南京政府が併立する状態になった。

 草野心平の大学時代の同級生は延安の共産党、重慶の国民党そして南京の汪兆銘政権に別れた。草野心平は、林柏生にさそわれ 1940年(昭和15年)汪兆銘の南京政府宣伝部顧問として南京に向かった
  1942年(昭和17年)には日本政府の支援のもと、第一回大東亜文学者大会が開催された。中華民国から草野心平が文学者の代表として出席し、1944年(昭和19年)には第3回目の大東亞文学者大会が開かれた。しかし、汪兆銘は病死し次第に色あせた会議になってしまった。

1945年(昭和20年)日本は敗戰、草野心平は、国民党軍軍人として接収のため南京に来た黄瀛と再会した。

一つのふるさとからいつのまにかおれにも一つのふるさとが出来。
二つが別別の二つでありさうして一つであることの希願から。
大きな亜細亜の命運のなかで。
けれどもおれがみたものは。
いまはまさしく敗亡のみじめなざまだ。
中国なくして日本なく日本なくして中国なし。の系譜を正しく踏もうとして。
けれども夢は阿修羅になって迫るいま。
生ま身をひきさく別離の胸にやぶける金属音。

 敗戦後の1946年(昭和21年)3月草野心平は中国から帰り福島県の阿武隈山脈の下の生家に帰った、そして歴程を復刊する。
 黄瀛は1949年(昭和24年)国民党の将校として中国共産党に囚われ入獄、1962年(昭和37年)出獄。1966年(昭和41年)文化大革命で獄中の人となり、  11年後に解放され、四川外語学院で日本語と日本文学を教える、そして教授になる。

生きていれば きっといい時世が
来るにちがいない
こんな時はかなさは
すっかり取り除かれて
いるにちがいない
高い梢の桐の花
石垣一ぱいの
明るい金色の名なし草
夏の早い雲足さっときてさっと戻る
さんさ時雨

後来有期


 草野心平の尊敬する師は高村光太郎であり、大いなる影響を受けた詩人は天上の作家
宮沢賢治で、自らは地上の詩人であった。そして黄瀛は自分の存在自体が詩でありたいと願い終生詩を書き続けた。