2017/08/29

ドイツロマン主義の美 (意志の勝利、オリンピア)




 「閉ざされ、人々が近づくことの難しいサンタ マリアの谷に、ユンタの伝説が生き続けている。静かな夕べに、ふだんは寡黙な山の農夫たちが、青い光の物語を語る。その光は、はるかな昔に消え失せた。
 だが今日もなお、月の光がほのかに輝きを放つ晩には、美しきユンタの秘密が孤独な登山者をモンテ クリスタルの絶壁へと誘う。」

              レニ リーフェンシュタール監督 「青の光」

 明治政府は近代国家をつくり,国の形を作るため西欧とりわけ近代国家として勃興したドイツを手本にした。明治時代ドイツオーストリアに合計552人の留学生を送り出し、イギリスへはその半分の253人、アメリカやフランスはさらに少ない留学先だった。 初期は医学,軍事の研究が主であったが、のちに近代国家ドイツ文化を総合的に日本に移植した。彼等は帰国すると文部省、陸軍省、内務省、司法省、大蔵省の要職につき明治政府を動かす。 その代表が森鴎外で1884年から4年間陸軍省から衛生制度および軍陣衛生学研究のためドイツに留学し、のち陸軍軍医長になる。

 ドイツは第一次大戦で敗北した。その後再び力を得たドイツにおいて、神秘主義とロマン主義は国民の意識を覚醒するための有効な手段となった。このドイツ民族主義であるロマン主義は思考や論理の世界よりも内なる感情や情動に忠実であろうとし、大地と森林,自然を崇拝した。世俗からはなれ放浪する遍歴学生を模した自然への回帰、ワンダーフォーゲルの運動が盛んになってきた。
 レニ リーフェンシュタール監督の「青の光」は1932年(昭和7年)神秘的な水晶の山を舞台に、自然への憧憬、崇高さを求めるドイツロマン主義的伝説を映画化して熱狂的に支持された。

 1934年(昭和9年)レニ リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」が上演された。ワーグナーの曲にのってヒットラーが登場し、人びとの姿、パレード、集会が写され編集された。古都ニュルンベルグで開催されたナチス党大会の4日間は青の光と共通する、斬新なアングルのショットをかさねる方法で芸術化された記録映画となった。そしてドイツで国家映画賞を、パリ万国博覧会の映画祭で金賞を受賞した。

 1936年(昭和11年)8月1日オリンピック開会式がグリュネヴァルトのメインスタジアムで開かれた。そこに49カ国3980人の選手が世界中から集まり行進した。日本選手は179人女子17人であった。
 このベルリンオリンピックの取材に日本から、各新聞社の特派員として横光利一や西条八十、武者小路実篤らの有名作家が競って日本に記事を送っていた。そしてラジオの実況放送がされた。
 横光利一はオリンピックの取材のためパリ経由で訪れたベルリンの街について「どこもかしこもこれほど掃除の行き届いた町は無い、人間の心もこのように清潔になれば戦争するより希望はなくなるのかもしれない。」とナチス政権下の清潔の国ドイツの弱者排除の予感を日記に記し、それと比較して雑然たる東京でのオリンピック開催を心配していた。そして新聞報道やラジオ放送の前畑がんばれの実況中継で日本でもベルリンオリンピックは人びとの関心を高めた。
 
 
 レニ リーフェンシュタール監督の映画「オリンピア」は1938年(昭和13年)に公開された。
 第一部の民族の祭典は古代におけるギリシャ思想を賛美して始まる。まずカメラはギリシャの遺跡の間を移動する。そしてギリシャ神話に由来する彫刻群にうつり、ギリシャ神殿の映像、その後に円盤投げをする男性の彫刻から人間に移行する。これはギリシャの神々の魂が現代のスポーツに再現され、10種競技の有名選手フーバーは動く彫刻となった。
 膨大な記録を編集し直し、第2部の美の祭典とともに自然と大地と美しい肉体を持った人々の躍動、より美しいもの、より力強いものより健全なものをたたえた映像を作り上げた。当然、無秩序、混沌,弱さや醜さは画面のなかには見つけることはできない。

 日本では日中戦争中、同盟国ドイツの秀作映画として20名の宣伝部員をつけて宣伝され公演された。日本もこの大会で活躍し、第一位のドイツ、第二位アメリカそしてハンガリーやイタリアなどに次いで7番めの金メダル獲得国となった。
 棒高跳びでは西田大江選手が銀と銅を分け合い、マラソンでは孫選手が優勝し、地面にうつる選手の影、音楽のリズムにあわせひた走る映像となって記録された。

 当時日本でも外国映画は多くの映画館で上演されていた。このベルリンオリンピックの記録映画「オリンピア」は日本中で絶賛され、ひとびとをドイツびいきにした。同時期のジョンウエン主演のアメリカ映画「駅馬車」はその影響であまり話題にならなかったほどだった。

 ドイツはヒットラーが新たな枠組みで古い価値を突き崩す勢力としてヨーロッパを席巻した。 日本国内では反米英、親ドイツの国民の声、陸軍の方針がしだいに力を持ち、山本五十六など海軍の反対派を押し切って、1940年(昭和15年)日独伊三国軍事同盟を締結。東京での開催予定のオリンピックは中止された。

 1945年(昭和20年)ドイツは敗戦。戦後レニは連合国軍に「意志の勝利」と「オリンピア」がナチスのプロパガンダ映画であったとして逮捕拘束されるも起訴はされなかった。

 戦後、1962年(昭和36年)アフリカのスーダンの中央部に住むヌバ族と10年にわたり生活を共にし彼等を撮影した。1973年(昭和48年)「ヌバ」写真集を世界で出版する。大地の鼓動と自然のなかの褐色の美しい肉体と装飾をほどこした生命あふれる姿を映像にし、世界各国でセンセーションを巻き起こした。
 レニ リーフェンシュタールはドイツロマン主義の憧憬と神秘的映像、水晶山の少女、ギリシャの大地と均整のとれた肉体の映像、アフリカの大地と躍動するヌバ族の魅力、これら自然と人間を映像化し、20世紀を代表する映像美の表現者となった。       終生変わることのなかった自然の美と肉体の美の表現者レニは、晩年にはスキューバーダイビングをして海中の美をとらえた「水中の驚異」を88才の時発表している。

2017/08/06

斉藤茂吉と宗吉(北杜夫)



斉藤茂吉と宗吉(北杜夫)

 明治時代 斉藤紀一は精神科の医師としてドイツに留学し一代で大病院,青山脳病院を築きあげた。帝国議会の代議員にもなり、同郷の蔵王の近くの出身であった斉藤茂吉を養子として迎えた。

 正岡子規をうけつぐ根岸短歌会から派生したアララギが創刊され、斉藤茂吉はこのアララギに1913年(大正2年)赤光を発表。写生主義を唱え大正時代から昭和初期に万葉風の短歌を数多く残した。「死にたまふ母」など仏教的無常観を底流にした日本古来からのこころを唱い日本短歌を主導した。芥川龍之介はこの連作された短歌は物語性をもった短歌で小説に近い文学となったと高く評価している。

星のいる夜空のもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり

 斉藤茂吉の奥さんとなる輝子は養父紀一の次女であった。進取の精神に富んだ華やかな舞台がよく似合う女性で、猛女とよばれたモダンガールだった。
 1914年(大正3年)13歳年下のその輝子と結婚した。茂吉32歳の時だった。

をさな妻こころに持ちてあり経れば赤小蜻蛉の飛ぶもかなしき

 茂吉は、 長崎医学専門学校教授をつとめ、1921年(大正10年)横浜を出港し、敗戦後のウィーンに到着した。1922年(大正11年)このウイーンの神経学研究所で5人の日本人の留学生とともに研究をし「麻痺性痴呆者の脳カルテ」の論文を書き上げた。 その後1923年(大正12年)から1925年(大正14年)までミュンヘンのクレッぺリンのもとで研究生活を始めた。

 精神医学の登場する以前、精神病患者は狂人として、施設に隔離されていた。19世紀のすえに精神病は脳の病気であるわかり、このクレッペリンによりようやく早発生痴呆すなわち精神分裂病(現在の統合失調症)は他の精神疾患から区別され分類された。そして、躁うつ病も彼によってはじめて定義されるようになった。その脳の病理と病気との因果関係の研究が当時最も重要視されていた。

 帰国後主治医として薬の処方を行った芥川龍之介の死、アララギ派詩人島木赤彦の死にあう。さらに青山脳病院が火災で消失、その院長になり病院再建を行い、アララギ派短歌を担うことになった。

 1933年(昭和8年)銀座のダンスホールで有閑マダムらが遊びを繰り返していて警視庁により検挙された、その中に青山病院長夫人の斉藤輝子がいた。大正時代のモダンガール輝子は昭和に入り有閑マダムとよばれ、ダンスホール事件で非国民となった。このために一時2人は別居する。

 その偉大な父親斎藤茂吉の次男斉藤宗吉は東北大学在学中、「幽霊」を北杜夫のペンネームで1953年(昭和28年)文芸首都に投稿し、それを自費出版した。

  「人はなぜ追憶を語るのだろうか。
 どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みの中なかに姿を失うように見える 。」
「人はそんな反芻をまったく無意識に続けながらなぜかふと目ざめることがある。」  
「わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気ずいて、不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持ちがするのだろうか。」
 
 「あかるく華やかな洋間で、硝子器のかちあう音、けだるい甘美な旋律。幼い日に家をでていった母親や死にわかれた姉の一言、ママの幽霊。そして本棚一杯の父親の書斎。そして原っぱと墓場。」 
 青年期にむかうころ、「ふりそそぐ盛夏のひかりの下、むせるような植物の匂いと、媚びにあふれた虻の羽音、底のしれぬ大地のぬくもり。アルプスをのぞむ大自然のまどろみのなかで、珍しい昆虫や蝶と出会った幼い心の恍惚を感じた。」
 幼年期におし隠され無意識世界にひそんでいた過去の記憶をたぐり、子供時代の内的世界をみずみずしく描いた。

 精神医学は20世紀になりフロイトが人間にはふだん意識している世界の奥に広大な無意識世界があることを発見した。 ユングは無意識を個人無意識と集合無意識にわけた この集合無意識は人類の祖先からの神話であるとした。この無意識の世界、忘れてしまった記憶や抑圧された記憶、それを明らかにする精神分析が治療法として登場した。

 1958年(昭和33年)水産庁の漁業調査船でマグロ漁をしながら6か月におよぶアフリカ、ヨーロッパの船旅を船医として経験し「ドクトルまんぼう航海記」を1960年(昭和35年)に出版し、肩の力の抜けたユーモアと軽いエッセイ風の文章でベストセラー作家となった。

 ナチス政権による断種法、遺伝病子孫防止法が1933年(昭和8年)ドイツに制定された。精神病の遺伝子を持つ人々を健全な社会を作るために抹殺するという法律ができそれを実行する根拠となった。ドイツを舞台に、ナチス政権の精神病患者に対するあつかいとそれに対して苦闘する精神科医の心を分析的に描いた物語「夜と霧の隅で」は1960年(昭和35年)の芥川賞受賞作品となった。

 当時の精神病治療は電気ショック療法、インスリン注射法やロボトミーが主流で、ほとんど有効な治療法がなかった。薬物治療が可能になったのは戦後のことだった。1950年代になってからクロルプロマジンができ、抗うつ剤イミグラミンなどは1958年(昭和33年)にはじめて合成された。現在では薬物療法と精神療法が治療法として確立している。 

 1964年(昭和39年)には、「楡家の人々」で明治以来の有産階級の世界、精神科医3代の斉藤家の歴史を題材にした長編小説を、そして翌年にはカラコルム遠征隊に加わり、それを題材とした「白きたおやかな峰」などの作品を世に送り出した。

 北杜夫の母輝子は斉藤茂吉の晩年、再び同居し死をみとる。茂吉の死後は持ち前の進取の精神を失うことなく、世界中を旅する旅行家として有名で80才を過ぎてもの南極旅行などに出かけ、生涯で地球上100カ国以上を訪れている。
 一方北杜夫はそううつ病にかかり、それを題材にした小説や父親斎藤茂吉の生涯を後年書き上げた。小説やエッセイは「船乗りくぷくぷの冒険」に見られるように現実が小説で小説が現実の入り組んだ世界をあるいはコミカルにあるいは重々しく書き続けた。