2021/08/29
死への誘惑 その4 三島由紀夫の宗教小説 暁の寺
「バンコクは雨季だった。空気はいつも雨滴を含んでいた。強い日差しの中にもしばしば雨滴が舞っていた。しかし空のどこかには必ず青空が覗かれ、雲はともすると日のまわりに厚く、雲の外周の空は燦爛とかがやいていた。」
豊饒の海第三作「暁の寺」は1939年(昭和14年)第二次大戦直前のタイ王室の7才になるジンジャン(月光姫)に本多邦繁が初めて会ったシーン、 国王の離宮バンパインでの出来事そしてタイから休暇でインドを訪れる、それらを舞台に物語が始まる。
タイでジンジャン(月光姫)と別れ、日本に向かう。「本多は熱帯の風物に別れを惜しんだ。金の仏塔が緑の密林の間に小さくなると、自分がそこで味わった転生の出会いが、すべて一篇のお伽話、一場の夢のように思われてくる。あれほど転生の証拠が揃っているのに、月光姫があまり幼いので、すべてがわらべうたの哀歓に紛れ、清顕や勲のような生の一連の流れ、その奔湍の帰結に触れることなく、旅人の好奇の目を揺れてすぎた1輌の狂気の花車に似たのである。」
日本に帰国したその年の冬十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、日本国民は熱狂した。「真珠湾攻撃の熱狂に本多が嫉妬を感じていたと云っては誇張になる。ただ彼は、爾後自分の人生が決して輝かしいものになることなく終わるという、利己的で憂鬱な確信の虜になったのである。」
戦時中、本多は余暇を専ら輪廻転生の研究に充てた。
タイなどの小乗仏教は、「人々の肉体や外界の事物には本来善悪はなく、それを善たらしめ悪たらしめるものは悉く心である。「思」である。意志である。」「心と意思が罪と業の原因をなすのであるからわれわれは本来無我である。思いは輪廻転生の原因であってても主体ではない。主体はついにわからずじまいである。来世はただ今世の連続である、この世と一つながりでつづいてゆく終夜の灯明の火が生なのであった。」
仏教は「我(アートマン)」を否定し、その来世へつながる「霊魂」も否定した。死んで一切が無に帰するとすれば、悪行によって悪趣に堕ち、善業によって善趣に登るのは一体何者か、仏教がいっさいは空であるとして否定した我(アートマン)の思想と、仏教の輪廻の思想の矛盾が各派に分かれた論争しながら、理論的帰結を得られなかったのが小乗仏教。
「何が生死に輪廻し、あるいは浄土に往生するのか?一体何が?」この解を出したのが大乗仏教の中の唯心論で、インドの無著(アサンガ)から始まり、三蔵法師により中国にもたらされ、7世紀頃には日本にも伝わった。
唯識論はわれわれは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識の奥の無意識の世界に、第七識たる未那識(まなしき)、すなわち自我の意識があり、さらにそのさらに奥に、阿頼耶識という究極の識を設想する。目で色や形を捉え、耳で聞き、鼻で香りを舌で味を感じ、第六意識、脳神経が世界を組み立て、未那識が認識する。さらにこの奥の阿頼耶は一切の活動の結果である種子を蔵(おさ)めている。そして、この種子は様々な条件のもとで行為をする(現行)そしてその行為はその種子を阿頼耶識に送られ植えつけられる。これらすべてを記憶し保存し意識下に情報として蓄える種子となる。これらが転がるように展開し、種子と現行の因果、現行と種子の因果は同時に行われる。
種子生現行 現行薫種子 三法展転 因果同時
唯識論では、阿頼耶識自体に、輪廻転生を惹き起こす主体も動力も、二つとも含まれているとする。
「過去の存在も、未来の存在も、何一つ確証はなく、わが手で触れ、わが目で見ることができる現在一刹那だけが実有だ。」この無明の長夜にひとり目ざめて、一刹那一刹那、存在と実有を保証しつづける北極星のような究極の識が、阿頼耶識である。「現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、同時に、世界の一切を顕現させている阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交わる一点に存在するのである。」
人は外界を認識して空間を作り、その像と気分と行為を記億して保存し、空間のように認識して時間にする。 生と死を支配する阿頼耶識は、生命の起源からその永遠の上流から流れる暴流に例えられる。恒に転ずること、暴流のごとし。その種子が生命をうみ、その周りの自然を生むが、阿頼耶識が有根身(肉体)を失えば、それを取り巻く自然(器世間)も意味をなくし種子のみ残る。再び結生の識として新たに生まれるものが次の世の阿頼耶識となり輪廻転生する。
第二部は11年後。月日は流れ、本多は58歳になる。戦後生き残った本多の別荘地御殿場に舞台を移して、物語は進む。18才になったジンジャン(月光姫)が日本に留学し再び本多に出会う。鮮やかな色彩に彩られた絵巻物、輪廻転生する松枝清顕そして飯沼勲、二人と同じ3つの黒子をジンジャンの脇に見つける。
一体この私とは何かをつきつめる本多邦繁を主人公に、架空のタイの皇女を中心に物語は組み立てられる。しかしこの主役ジンジャンの心は語られることなく、心不在のままでコブラに噛まれ命を落とす結末になる。
1972年に書かれたこの小説は、日本文化に代わって、民主、自由、経済が至上のものとなり、経済発展の道を駆け上る時代の日本で発表された。小説の中の夢物語と現実の世界を並列させて作家としての生活を送ってきた作者は、この小説を書き上げた後、「暁の寺以外の現実はすべてこの瞬間に紙屑となった。」と語っている。
奔馬で政治思想編を創り上げた。その続編としての暁の寺は輪廻転生する物語をタイ王室の月光姫を主役にした、バタイユを乗り越えた宗教小説を書きつつ、大乗仏教の唯識論の世界に自ら没入していった。しかし現実の生活の戒律である心のうちの煩悩、貪(むさぼる)、瞋(排除する)、癡(道理に暗い)、慢(他を侮る)、疑(真理をわきまえない)悪見(誤った見解)などの事柄には無関心で、社会生活する人間の本性、自己愛の未那識には言及することなく、生や死や認識論としての大乗仏教の唯識論に共鳴した。小説の構築は登場人物の生活や世界の描写は二次的にして三島由紀夫の観念、その刹那の世界観を全精力を傾けて文字にし、遺書とした。
2021/08/01
和尚 一休
「一休骸骨」
室町幕府三代将軍足利義満は、各地の守護の対立を利用してその力を削ぎ、官位を登りつめ、公家化することで武家における足利家の権威の確立を図った。天皇に代わって公家や寺院の土地安堵の権限を握り、公武合体政策で宮廷を取り込んだ。
さらに、明の皇帝から国王の称号をもらい、日本の支配権を確立しようとした。1401年義満は明の皇帝に国内を統一したこと、そして通行と通商をしたいとの書面を明の皇帝に持たせた。翌年、「爾日本国王源道義、心を王室に存し愛君の誠を懐き、波涛を踰越して遣使来朝す」との返詔を受け取る。
義満の擁立する北朝の後小松天皇の子供として1394年一休は生まれる。金閣寺が完成した翌年、5才の時、臨済宗の安国寺に出家させられる。
8才の時には、、中国風の虎の屛風の絵の前で「この虎を捉えてみろ」と将軍に言われ、「ではその虎を追い出してください。」と返答した逸話は義満の豪華な館を舞台にして生まれた。義満は明との貿易で珍しい金銀の食器や豹柄の毛皮の椅子や登り龍の絵のなどの珍しい品や美術品を手に入れ財力を蓄え、それらの装飾品で身の回りを飾り、暮らしていた。
17才の時西金寺の謙翁和尚の弟子になる。京都には日蓮宗の勢力が強く、地方では一向宗と呼ばれる真宗の教えが一般の民衆に浸透していた。一方鎌倉時代武士階級に広まった禅宗は、室町幕府では重用されていた。しかし、都の禅宗は権力者に取り入り俗化して中国かぶれの禅僧も多く、かれらが幕府の使節を務め、国書をしたため、接待役を務めた。中には蓄財に励む禅僧もいた。
その都から逃れ、本来の禅の師を求めて、22才の時、滋賀堅田の祥瑞庵の華叟(かそう)の元を訪れ、その弟子になり清貧生活をおくり、修行し、一休の名をもらう。
有漏路より無漏路へ帰る一休み 雨降らば降れ 風吹かば吹け
(煩悩の世界から、煩悩を越えた世界に、私は戻る。そしてその途中で一休み)
禅の世界では、精神世界と俗世界は両者とも大切であり、悟りに至る道のみでは、生活できないので、世俗世界に戻り、煩雑の世界に浸る。世俗世界に絡め捕られた時その煩悩から遠ざかりそれを超えた精神世界に没入する。この二つの世界の間で一息つく。この一休こそ求めるものである。
十年以前、識情の心、瞋恚豪機即今に在り。鴉は笑う、出塵の羅漢果、昭陽日影玉顔の吟
一休は27才の時悟りを開く。夏の夜遅く、小舟に乗り一人座禅を組む。闇夜にからすの鳴き声が聞こえた。その時十年来の疑問がいっきに解け、羅漢の境地に達する。寺に帰り一片の詩を吟みこの体験を師に伝えた。
修行により開悟した一休は、34才の時、師の亡くなった後、庵を出て、街に戻った。一休の生きた時代は、天皇に威なく、政治に信なく、禅などの宗教も堕落した時代で、街では学識や、身分の装いは通用しない時代になり、赤裸な人間本来の姿が現れた。街に出て小庵を転々としていった一休は、この間皇室や武士、町人や農民、文人や歌人、遊女など多くの人と出会い、彼らが寄り合い、一休の文化サロンが作られていった。一休は養叟(ようそう)などの、 旧来の形式に陥り、堕落した禅を激しく批判し「自戒集」を編纂した。
頤卦題名貪食来
会中膾炙寵如梅
攫金手段機輪転
君子果然多愛財
養叟は自分の名を宗頤と取り替え、印可証といって飯の種にした。彼の門下は、梅をほめるように自慢した。金をつかむ手段は、輪が転ずるように素早い。君子は財を愛される。
華叟子孫不知禅
狂雲面前誰説禅
三十年来肩上重
一人荷担松源禅
華叟の弟子たちは皆、禅を知らぬ。この私の前で誰が禅を説けるか。30年来松源の禅を一人で、担い肩が重い。
住庵十日意忙々
脚下紅糸線甚長
他日君来如門我
魚行酒肆又婬坊
養叟に送った手紙では、この寺にいた十日は気ぜわしい日々だった。私の脚に絡まる赤い糸は甚だ長く、私はそこから出て行く。もしいつか私をたずねてくる気があれば、魚屋か、酒場か、それとも淫売屋をのぞいて見てくれ。
62才から妙勝寺を再建、酬恩庵と称した。ここを拠点に布教を行う。一休の元には茶人の村田珠光や能、狂言や茶の湯、連歌など東山文化の担い手が訪れた。これらの人々が北山文化の王朝を擬した花の御所文化を否定して、日本の庶民の土着した歌、能にとどまらず、茶道、住まいなど現在につながる日本的文化の始まりを生み出した。
1457年「骸骨」の中で、「そもそもいつれの時か、夢の中にあらさる、いすれの人か骸骨にあらさるへし。それを五色の皮につつみて、もてあつかふこそ、男女のいろもあれ。いきたへ、身の皮破れぬれは、その色もなし。上下のすかたもわかす。たた今、かしつきもてあそふ皮の下に、骸骨をつつみて持ちたりと思ひて、此の念を能く仰信すへし」
人はやがて死んでその皮がやぶれてなくなれれば、感情も消え、生前の地位の上下も分けられない。人間はみな、この骸骨に皮を被せていきて動いているいるに過ぎない。
一休73才の時1467年から11年に及ぶ応仁の乱がおこった。この間京都から、奈良、大阪に逃れる。この応仁の乱は、仏道の衰退、朝儀礼節の衰退そして幕府の無力から武士団の一族の内部分裂、同族の争いが大義も名分もない動機で勃発し、勝敗のつかないまま収束した。その最中76才で盲目の旅芸人森侍者と出会い、共に暮らす。
そして森公の深恩に謝するの願書を残した。狂雲集の中では「約弥勒下生」とされ弥勒下生信仰の恩とされている。
木凋葉落更回春
長緑生花旧約新
森也深恩若忘却
無量劫来畜生道
一休は禅僧とし悔悟し、儀礼、格や形式や常識を破壊し、生の根源、人間の生物としての存在を凝視し、人間本来の姿を禅の修行を通して見い出した。そして風狂の人生を過激につらぬき通した。
1474年81才で大徳寺の住職となり、1481年没する。