2020/04/17

パンデミックの記憶


 概して我々は、死亡率は低いが早晩自分たちが関わることになるはずの現実的な病気より、自分たちがほとんど罹りそうにもない高い死亡率を持つ病気の方にずっと恐怖を抱くものである。

            史上最悪のインフルエンザ   アルフレッド w  クロスビー

 人類は、動物から人間に感染するようになった病気の影響を、長い歴史の過程で幾度も受けてきた。約1万年前に、犬を飼い、犬とともに暮らし始め、豚を飼い、牛や羊を飼い、それによって動物の病原菌であったヴィールスは変化し、人間だけが罹患する病原菌になった。新型インフルエンザは豚の体内で変異し、人に感染し流行した。

 生物は進化の過程で自分の子孫をばら撒き、生き残るため、様々な形態を生み出した。病原菌にとっては自分の子孫をばら撒き、生きながらえるには、どれくらい多くの人間に次から次へと感染できるかにかかっている。罹患者がどのくらい長い間感染源としていられるのかと、病原菌がどのくらい効率よく感染するかによって決まる。あまりに強毒性のものは、病気が広がる前に、宿主がすぐに死亡し、かえって感染は広がりにくい。

 インフルエンザ、風邪や百日咳は個体に咳やくしゃみをさせ新たな犠牲者に移っていく。コレラ、ノロウィルスはひどい下痢をさせそれによって感染が拡大する。咳は人間から見れば病気の症状である、しかし病原菌から見れば進化の過程を通じて獲得した生存のための策略である。病原菌は動物を病気にすることによって個体を増やし、生き延びるための環境を作りだす。病原菌が有効に伝搬するために、下痢を起こさせたり咳をしたりといった様々な方法をとりウィルスを拡散させ人から人へとその住みかを広げていく。

 それに対して人間は体温を上げて菌を殺す、あるいは免疫システムを使って菌を殺す。
風疹やマシンは一度かかると一生かからなくなる終生免疫を獲得する。ところが病原菌よっては抗体に認識されないように抗原部分を次々と変化させる作戦を取る。インフルエンザは変異を起こし新型のインフルエンザが次々と登場することのよって毎年生き延び活動する。
 
 パンデミックを起こしたインフルエンザは、突然流行し始め短期間の間に集団全体が病原菌にさらされてしまう。そして一部の人は死亡し、多くの人は回復し抗体を作る。感染者の数の減少とともに、ウィルスは人の体内でしか生き残れないので流行は終息する。ウィルスもまた進化の過程でより多くの子孫を残すことができるウィルスが生き残る。


 1918年から19年にかけてスペイン風邪と呼ばれるインフルエンザがパンデミックをおこした。アメリカでは1000人あたり280人が罹患し、全人口の25%、アメリカ全土で2500万人がかかり死者は60万人以上に登ると推定された。
 
 1918年春に悪性の風邪が流行し始め、第一次世界大戦の最中、アメリカから大部隊の兵員が船で次々と、ヨーロッパ戦線に渡った。そしてヨーロッパの戦士から市民にこのインフルエンザは蔓延し、世界中に広がっていった。8月の後半になって、アフリカ、フランス、アメリカで同時にウィルスは変異し、強毒性のインフルエンザとなり、9月はじめに、アメリカ東部の地域からこの流行が再び始まった。
 アメリカ東海岸の170万都市のフィラデルフィアの当時の記録がある。
 最初の頃、インフルエンザの流行はわかっていたが、余計な恐れは必要ないとする論説が米国医師会雑誌に載せられていた。しかし、9月29日からこのインフルエンザで死亡する人は急速に増え、一週間で706人になった。10月3日の夜、市はすべての学校、教会、劇場その他の大衆娯楽施設に閉鎖命令を出した。その後も死者は急速に増えて、第二週には2600人、第三週には4500人以上が亡くなった。、人々は病院に殺到し、それらの人々で溢れた病院は機能麻痺に陥った。公的施設も機能しなくなり、公共サービスは大混乱に陥った。公共サービスのうちとりわけ深刻だったのは遺体の埋葬作業だった。埋葬できない死体がたまって人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせることになった。10月10日で759人の市民の死亡数に達した後に次第に流行は下火に向かった。10月の末にはしだいに学校や教会、劇場やサロンが再開されていった。
 11月11日第一次世界大戦は終結した。その後一週間の死亡者数は164人、次の週は103人、次は93人と減少し、流行は終息した。アメリカでの死者は68万人にも及んだ。
 一般の感染症と異なり、このインフルエンザは子供や老人の死亡率より、20才台30才台の元気な人々の死亡率が非常に高かった。「ミラボー橋」で有名なフランスの詩人アポリネールとオーストリアの画家クリムトはインフルエンザにかかり死亡し、アメリカの小説家フィッツジェラルドはインフルエンザの流行のためヨーロッパ戦線には参加しなかった。そしてニューヨークヤンキースのベーブルースはインフルエンザにかかるも生還した。

 大正時代、白樺派の代表作家武者小路実篤の小説「愛と死」の中で、主人公の婚約者がフランス留学から帰る船の途中、スペイン風邪で亡くなる場面がある。当時人々は船に乗り国外に行き来し、インフルエンザは瞬く間に世界中に広まっていった。太平洋上の島々でも船による人の移動で、このインフルエンザは蔓延した。
 サモアの島々でも広がったこのパンデミックは、統治国の対応で明らかな死者の差が生まれた。西サモアではインフルエンザが蔓延し多くの死者を出したにも関わらず、アメリカンサモアでは死者は出なかった。当時その島の統治をしていたボイヤー知事は強力なインフルエンザ対策を徹底した。外からやってくるすべての船舶の検疫を強化し、インフルエンザにかかった患者が治って10日経過しなければ入港を拒否し、他に海岸でボートでの着岸を禁止した。郵便物は2時間の燻蒸消毒を行い、荷を扱う人にはマスク着用を義務ずけ、アメリカ海軍からインフルエンザワクチンも入手した。このワクチンは結局無効であったが、この検疫は1920年の中ごろまで維持された。



 日本では、このスペイン風邪による死亡者数は1918年6万9820人、1919年4万1986人、1920年10万8428人にのぼった。1度目の流行では、10月に急速に死者が増え、そのピークは1918年の11月そして、2度目のピークは1920年の1月だった。1回目の流行時全国民の37.3%がかかりその死亡率は1.22%、2回目は患者数は10分の1と少なかったものの死亡率は5.29%と高く、ウィルスの変異による悪性化が原因と推定される。流行の4週間で患者数はピークに達し、4週間で流行は終息している。

 内務省衛生局は「全世界を風靡したる流行性感冒は大正七年秋期以来本邦に波及し爾来大正十年の春期に亘り継続的に三回の流行を来し総計二千三百八十余万人の患者と約三十八万八千人余の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を呈したり。」と報告している。
 

 このスペイン風邪は、第1波がおさまった後、強毒性となった第2波、第3波と世界中に広がり、世界のすべての大陸、太平洋上の島々や極地にも拡散した。ワクチンも有効な薬もなく世界で2000万人以上の死者を出して、集団の多くの人が感染し、抗体をつくり集団免疫を獲得して終息した。