2021/03/28
草庵の暮らし 日本の住まい

人類は古代から、風雪を逃れ、食物を食べる住居を洞窟に、あるいは、穴をつくり生活をしていた。北アフリカの熱帯乾燥地帯には、家畜と共に生活する遊牧民ベトウィン族は移動式テントで暮し、モンゴルの草原地帯ではパオで暮らした。パオは木のやぐらと柱で屋根の骨組みをつくり、それにフェルトや毛皮で包んだドーム状の壁を作り、強風や寒さに耐える住まいとし、生活した。その土地の風を感じ、陽光を浴び、風雪などのその地の環境に適した空間をつくり、風土にあった住み方をした。
日本でも狩猟生活からやがて、農耕の社会になると土を掘り、その上に木材で屋根をつくり、寝たり、作業する生活空間を作った。その後南方の建物と同じように、床が地面より高くなった高床式の穀物の保管のための建物がつくられ、やがてこの高倉を住居にする人々が現れるようになる。
この高床式の住まいは、やがて平安時代の貴族の儀式や遊戯をする場所としてのための寝殿造りを生み出す。貴族、時の権力者はそこに畳を敷き、屏風を備え、寝台もつくった。15世紀武士が支配する室町時代には、主君の応接の間が必要となり、書物を読んだり書いたりするための書院がつくられた。これが和風の空間、和風建築の原型で、昭和の時代まで続いた。
17世紀江戸時代には、武家屋敷から庶民の家にもまた農家にも畳が普及し、農家も土地により気候により様々に変化し、また財力の豊かな、庄屋などは建物自体を誇示するようになった。一般の日本の農家は、中世ヨーロッパとよく似た家屋の構造になっている。土間にはうまやがあり、その土間には大きなカマドがある。居間や寝室はやや高い床にあり、部屋の中心の囲炉裏で、体を温めたり、濡れた衣服を乾かしたりする。その囲炉裏が家庭と家屋の中心点であった。そしてその煙は天井に登り、煙突はなくそのまま煙は屋根から抜けていく。戦前の日本の農家の家屋は日本の風土より生まれたもので、国土が温帯に位置するためか、古くからのヨーロッパの農家に非常に似かよっている。
しかし両者の違いも大きい。囲炉裏端では父親、母親、子供の場所が上座、下座で決まっている。そのしきたりは日本では、和室で座って食事をするときに家族の座る場所の決まりや、来客を招いた客座敷の、床の間の位置で上席、そして奥と手前と序列の決め方に受け継がれている。
そして、日本では土間から家に上がるのは当然履物を脱ぐ必要がある。これによる内と外の意識が西欧と全く異なる住み方の感覚になる。壁は木の柱と棟で骨組みを作り、そのあとに壁を作る。一方ヨーロッパでは石やレンガを積み上げて壁をつくる。 ひさしが陽を遮り、縁側が、雨風から、畳の間を守るため、ひさしを長くして、縁側をつくった。その奥の田の字型の畳の間、居間で寝て食事をし、座敷には床の間と書院があった。
それにしても、今より気候が寒冷な時代、草庵や農家の住宅、権力者の館に冷暖房もなく、囲炉裏の火や火鉢で暖をとる生活にも関わらず満足に暮らしをしていたのは、気候に比較的恵まれた地域である日本では多くの季節、屋外の生活でも快適に暮らしていた。地球の環境から生まれた人類は、その風土をつくる樹木、風あるいは陽光は快適なものと感じるためで、テントや草庵は快適な住まいとなる。しかし、暑すぎるあるいは寒すぎる季節や雨や風から守る役割も住まいには必要となる。この両方を備えた住む場所を、その土地で使える自然の素材を使って、冬や夏に備えた家を茅葺の屋根や、木の板の壁、障子、唐紙を使って生み出した。
明治維新以後洋風建築が日本に移入され、各地に、鹿鳴館や居留地風の建物が多く立てられ、椅子と机が生活の中に取り入れられ始めた。関東大震災で木造都市東京の建物は大部分が焼失し、そのあとに西洋と同じ、堅牢で重厚な不燃性の建物が多く建てられた。フランス風のロココ建築風など、外面の様式を技巧的に真似て造ったため、日本の風土に似つかわしくない建物もあった。
当時も一般の人々の生活する家は、地方だけでなく、都市の住宅も、漱石の住まいに見るようにほとんどが和風住宅の借家であり、風と陽光を遮断することの少ない自然を感じる住まいに、暮らしていた。椅子も机も家財道具ほとんどない庶民は、引っ越すときには畳や、建具も一緒に運んでいた。
19世紀にイギリスで田園都市構想が生まれ、20世紀になると郊外住宅というユートピア構想がアメリカで生まれ、現実のものとなった。当時、工業の発達した都市は工場の排気で不潔で、雑然として、危険ですらあった。仕事の場と暮しの場所を分けて、農村地帯を開発し、交通網を整備して、個人所有の庭付きの家を作り始めた。都市と農村地帯を結ぶ交通網が整備され、とりわけ高速道路で車を使えば、清潔で安全な住まいが個人の所有物となり職場に通勤できる。第一次世界大戦後、住宅不足を解消する必要に迫られたアメリカでは誰でもそれが手に入る、住宅ローン制度がつくられ、人々はこれにより郊外に芝生の庭つきの住宅を手にした。このシステムは、経済が発展し、豊かになればなるほど人々はより働き、より豊かになっていく経済発展の原動力となった。
日本も第二次大戦まで、ほとんどの住まいの形式は和式住宅であった。第二次大戦の戦火で都市の木造住宅は焼失し、職場も住居も廃墟になった。戦後住む場所の確保は切実な問題になった。1951年公営住宅の標準設計51Cが設計され、鉄筋コンクリートの構造で、戦前の寝る場所と食事の場所が同じ生活の家から、寝る場所とは別の、食事のできる台所ダイニングキッチンが作られた。これがその後の3DK、4DKと呼ばれる日本の建物の標準になった。この公団住宅の発想は学校や病院にも取り入れられた。次第にこの集合住宅は公団住宅から、マンションやタワーマンションへと進化していった。
アメリカと同じように1960年代から70年代にかけて各地に郊外のニュータウンが建てられた。この個人住宅も、食事をした部屋に布団を敷いて寝る、田型の間取りのなんでも間の代わりに、食事のできる広い台所と寝室が分かれ、独立した子供部屋が標準となる公団住宅の発想が取り入れられ、流行した。当時、親とは別に家を建て、子供達と住む核家族が多くなってきた。その頃、都市に若者は向かい、仕事について、家庭を持つと郊外の私鉄の沿線に沿って住むようにになる。和風の住宅は次第に地方に残される少数派に追いやられることになった。
工業化住宅生産が始まり、木材以外の新しい素材を使って、工場で素材を組み合わせ、組み立て、大量のユニットを作り、それを住宅地に運んで、クレーを使って家を組み立てた。また鉄道や高速道路も整備され車も普及した。この日本型住宅供給システムはバブル期に頂点を向かえ、経済の成長が止まるとうまくいかなくなった。すでに想定されていた子供達と核家族化した標準世帯は多数派ではなくなり、生活の形は色々で、住まい方は様々で、高齢化が進み、人口が急速に減ってきた。
今後の住まいはより現代的(モダーン)化し住まいも情報の館化し、都市全体の情報通信網の一部として、より便利で快適に進化していくのか、日本とその風土や伝統に立ち返り、木材を材料にした自然を取り入れた住まいの復活になるのか予想はできません。もしかしたら、自然を感じるモダーンな草庵に住むことが流行するかもしれません。
迢迢たる天外 去雲の影
籟籟たる風中 落葉の聲
忽ち見る 閑窓に虚白の上るを
東山に月出でて 半江明らかなり 夏目漱石