2016/01/09

観光立国


 昨年、国外からの観光客が1900万人を超えた。中国からの観光客が爆買いする姿は何度も放送され、東京、大阪、北海道、九州が主な観光地で今年は2000万人を超える予想で、これらの観光客が地方にも多く訪れることが期待されている。

 一方、40年ぶりに田舎の温泉街に日曜の午後に訪れ昔からお気に入りの海の見えるコーヒー店を探した。その店の旅館は廃業し、まわりには朽ちそうな閉店した店、シャッターをおろした店、そしてふるびた自動販売機ばかり目について、観光客らしい人影は殆ど見当たらず、一件の真新しいホテルにかわっていた。

 かつて日本が経済を成長させた1960年代から1980年代にかけて、その温泉街は会社の社員など団体観光客を対象にしてたくさん人を集めにぎわっていた。 日本中、どの温泉でも大広間にみんなで浴衣に着替えて宴会を楽しみ、ゆかたのまま、街に出て散策する。それが、バブルの時代に頂点をむかえる。  日本の観光地である温泉宿も自然や土地の風物が目的ではない、年に1度か2度のゴールデンウイークやお盆、正月のはれの場所を提供していた。 
 その時代は過ぎ去り、若者や家族が、温泉を自然を癒しの場として利用するようになり、しだいにこの会社ぐるみの集団行動は時代遅れになっていった。そして、今では、外国の旅行客がこの日本人のみの嗜好と思われていた温泉にも訪れるようになってきた。

 時代は確実に変化をしているのに、観光を提供する側が、この時代の変遷に気がつかず、白浜の美しかった海岸はテトラポッドの山になり、海岸はコンクリートの護岸堤防となっていた。海はかつての青い海ではなく、生活排水でよどみ、海岸線の松並木は手入れも行き届かない貧相な緑になってしまっていた。昔の温泉は河や山や海と一体になったくつろぎの世界であった。温泉旅館の中をかざりたてても、まわりの景色が破壊されてしまえばくつろぎの場所ではなくなってしまうことを忘れ、経済の発展とともに、このまわりの海岸の自然は変貌をとげ、新しいコンクリートにかわってしまった。

 一部の特殊な場所以外、日本の多くの地域で、なぜこういったことになったのか。これを分析したのがアレックス カーで2001年に Dogs and Demonsをアメリカで出版し翌年2002年日本語の「犬と鬼」を出版した。その文化論は今でも正鵠を射ている。

 「1993年には、全海岸の55%が完全にコンクリート ブロックやテトラポットで固められた。落ち葉が汚いからといって、紅葉の木々は剪定され、河の自然はコンクリートで美しく整備され、きれいになった。
 この文化の根源は、日本の自然に対する放任ではなくコントロールの思想に求められる。盆栽、生け花、石庭といった日本の伝統芸術は、自然を自然のままにではなく、人の手できれいに仕立てる技が重視される。」
 「犬は難く、鬼は易し、ここで言う犬とはゾーニングであり、広告の規制であり、樹木の管理、電線の埋没、歴史的景観の保護、 鬼は文化ホールや、博物館、モニュメントの建築であり、高速道路である。」戦後の荒廃からの復興は、近代的な工業製品に代表されるピカピカの真新しいものがもてはやされ、歴史的な物は古くさいものとして捨て去られてしまった。その結果、この40年間で日本の自然はかなり劣化してしまい、日本の歴史や、伝統文化も開発によって衰退した。それを国をあげて推進し暴走し、だれも抑制することができなかった。
 
 最近ようやくみなおされつつあるように、かつての日本列島は火山国であり、敷島のみどりなす千路の島々は,海岸は波が岩をあらい、白い砂浜を形つくっていた。 現在人気の日本食や日本の製品の他に、その海や山や川、林、などの自然を回復すれば、日本の全国の古都や歴史的な建物や文化が街全体として世界中の観光客にとって魅力的になれば、そして日本の文化遺産を国際的に高く評価されるようにすれば、世界有数の観光立国は夢ではなくなる。

 たとえばタイには年間400万人以上のアメリカヨーロッパの観光客がバンコクだけでなく、チェンマイやアユタヤをおとずれ、合計2500万人以上の観光客をうけいれている。日本と同様に多くの国民はタイ語しか話せません、しかし30年以上前から、伝統文化、その土地の特有の竹や木材を使ったホテルをつくり、遺跡など観光資源を大切にし、パタヤビーチも新たな発想を取入れ、世界中の観光客の滞在するリゾート地となり環境やホテルも世界標準に達している。

 時代は工業化によるコンクリートや真新しいプラスチックの石油大量の石油生品の近代主義から、より自然で環境にあった古来からの素材を使い、風景をより新しい技術で復活させる脱工業化(ポスト モダン)の時代になりつつある。これが実現できれば、夢は現実となる。

2016/01/01

閉塞の時代の石川啄木


  日本では古来より歌が詠まれ、万葉集、古今和歌集、新古今和歌集など和歌の伝統が脈々と続いていた。明治時代に正岡子規が、俳句を革新し現在につながる現代俳句を復活したように、和歌、短歌の革新を子規より20才若い石川啄木はおこなった。1886年(明治19年)生まれの啄木は、子規が日清戦争に従軍し戦争の勝利に喜びを隠せなかったのと同じように10年後1904年(明治37年)日露戦争が始まると日記に「予かん喜にたへず、真に骨鳴り、肉踊るの慨あり」とやはり国民の戦勝気分に共鳴した。翌年1905年(明治38年)詩集「あこがれ」を刊行し文壇に明星派詩人として登場した。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

はたらけどはたらけど猶わが生活
楽にならざり 
じっと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ


 1910年(明治43年)石川啄木は短歌集「一握の砂」で海と砂と東京での生活を歌によんで注目され、北原白秋と並び称されるほどになった。神童と自負して少年時代をすごした啄木は社会の荒波の中、赤貧生活を余儀なくされ、才を認められぬ憤懣、こころの内のうっ屈を短歌にたくして表現した。短歌が花鳥風月の定形に堕して、実生活や社会から遊離してしまっていた。これを現代人的感覚であらたな価値を短歌で表現した。

 同じ年、幸徳秋水らの大逆事件が起きている。天皇暗殺をくわだてたとして、死刑24人、有期刑2人が有罪となった。この事件の公判記録を読み、秋水の「陳弁書」を読み、彼等に同調し,社会主義に傾倒していく。そして、「日本無政府主義者陰謀事件経過及び付帯現象」を書く。

秋の風 我等明治の青年の
危機を悲しむ
顔撫でて吹く

 
 明治維新から、近代国家に変貌をとげた日本は2度の戦争にも勝利し、東洋の大国の地位を築きつつあった。しかし、日露戦争後の日本は、戦後の恐慌と物価高がおそい、大学を卒業しても職がなく、国民生活は苦しくなり、明治40年頃には足尾銅山の暴動や炭坑でのストライキが頻発し社会主義は明治の日本をゆるがしていた。

 文学の世界では自然主義が最も多くの国民に支持されていた時代であった。それに対して明治政府はこの反政府の社会主義運動を押さえ込もうとしていた。一部の過激主義者が明治天皇を暗殺を計画したとして、多数の社会主義者や無政府主義者らが検挙され、幸徳秋水が首謀者とされ処刑された。しかしこれは明らかにえん罪であり、処刑は政府の強権によるものであった。



 1910年(明治43年)「我々青年を囲む空気は今やもう少しも流動しなくなった」という明治時代の終わりの社会の様相を論評「時代閉塞の現状」で描く。
 文学では強権の壁にさえぎられ、自然主義の文学は主流から外れ、白樺派と新ロマーン主義に取って代わられる。当時自然主義的な描写は政府のとりしまりの対象になり、この制約をすりぬけて個人の自己を表現する方向に進まざるをえなかった。
 「我々は一斉に起って先ずこの時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧をやめて全精神を明日の考察我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならないである。」と主張し、自然主義から社会主義に向うべきとよびかけた。


 

 はじめて労働運動とか社会主義的な背景を詩に取り込み、生活の一面を切りとった短歌は、それに日本的メンタリティーである酒と泪とこころの内の哀しみをこめた短歌にして表出した

 啄木は結核のため27才で「悲しき玩具」を残してこの世を去り、明治も時代閉塞のまま、大正をむかえた。