2013/09/16

20年代新興芸術文学 吉行エイスケと川端康成


「米良は空中滑走する、戦い疲れた陳独秀とビクトリア カップよりセント ジョウジ プレースに至る山頂火車のなかで彼等は力なく握手して、空中の鏡の上にモーニング姿の印度人のイサックを発見するのであった。」「フィリッピン人のジャズ バンドが大広間で演奏を始めると、酒杯の味覚が米良を興奮さし、踊り子の赤いエナメルの靴尖に打ちつづく自己の災難を忘れて、断髪した朝鮮女と、口唇を馬のように開いて笑う日本女、猫背の支那女,目脂のでたロシア女、シミーダンス得意なマレー女、計算を爪のなかにかくした独逸女の腕から腕を地球を周遊するように廻りながら、マダム レムブルグの華美な安衣装から透いて見える胴体に潜む夜の唱歌隊を懐かしい逃亡者の国土にするのであった。」

 吉行エイスケの小説「地図に出てくる男女」は1928年から1931年にかけて上海、北京、大連を舞台にした謎の女性シー ファンユーを主人公にした清朝末期から中国革命期までの超近代小説で、この饒舌で装飾的な文章で当時の支那軍閥、国民党、共産党の戦乱の様相や植民地主義者の活劇を描いている。

 「地図に出てくる男女」の他「張作霖の死ぬ迄」「大統領戴冠式」「喇嘛寺付近」 「革命後の2人のモダンガール」「Filipino 瑪麗の愛」の5部作は国際的な都市の、政治的混迷と、各国の様々な人種の政治家から娼婦までを極彩色のスピーディーな文章で新興芸術家として吉行エイスケを有名にした作品であった。


 日本でも、大正末期から昭和初期にかけてはプロレタリア文学と並立して、モダニズム文学とよばれる新しい新興芸術派あるいは新感覚派が誕生した。この中に都市の幻想や犯罪を描いたモダーン都市文学やパリ、ニューヨーク、上海を舞台にした異国の物語あるいは自動車、列車、地下鉄、飛行機などの機械文明を題材にした文学が流行した。この新感覚派の文学「新興芸術派倶楽部」には吉川エイスケの他に川端康成、船橋聖一、阿部知二、井伏鱒二、小林秀雄、堀辰夫なども名を連ねている。彼らの主張は文学は政治や党派から自由な芸術でありたいという目的でつくられた団体であった。

 掘辰雄は1920年代モダン都市小説「水族館」で新興芸術派作家として出発した。しかし,1930年代には方向転換し「風立ちぬ」「美しい村」「菜穂子」の作家として名を残すことになる。川端康成も1930年(昭和5年)「浅草紅団」で新興都市東京を感覚的表現でルポルタージュ風に書き上げたモダニズム文芸作品をつくっている。
 これを読んで吉行エイスケが書評を書いている。「1920年代の都会の地図に無造作にばらまかれた人類と、機械と、建築と、塵埃と、科学的な色彩と、動物と、娯楽そのたのあらゆる万物の事物を熟練した装飾かのごとく並列して、そこから読者に近代をパノラマ風にうつしだした。」 
 その後の都市小説風作品は実験的小説「水晶幻想」を1931年(昭和6年)発表し、「末期の眼」1933年(昭和8年)のなかでは、これらの新規な作風に対して、奇術師と評された事に反論を書いている。感覚的で冷酷な心を描いた「禽獣」を1934年(昭和9年)に発表し、その後しだいに人の心の深層を描いたり、作品のなかで哲学を語ることはなくなり眼前の美しいものを繊細な表現で描いていく作風に転換していった。

 そして1937年(昭和12年)に「雪国」を発表した。1961年(昭和36年)には形式的完成美を保ちつつ,熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の逸品である、真の退廃が横溢している作品と三島由紀夫に評された「眠れる美女」を発表した。続いて、1963年(昭和38年)にはグロテスクスさを精緻な文章で書き上げた「片腕」を発表している。川端康成64才の時であった。

 川端作品は初期の浅草紅団以来多くの作品が映画化され、そのうち「伊豆の踊子」はその時代やスターにあわせてリメイクされ最も多くの映画がつくられている。同年1963年(昭和38年)4度目の映画化となる「伊豆の踊り子」に薫役に18才の吉永さゆりが抜擢されたとき、撮影現場を幾度かおとずれている。
 
 「雪国」やその後の「山の音」、「古都」などで、日本の伝統表現の和歌,伝統園芸の盆栽ににて、こまやかな自然、心のうちの美しいものを小説で表現した。そして、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、叙述の卓越さに対してノーベル賞を受賞することになる。

 急速な機械文明の発達と第一次世界大戦は,マルクス主義国家ソ連を誕生させ、多くの国で皇室が廃止され、その他のヨーロッパ諸国も政治文化の大変動が起った。その結果新たな芸術運動ダダイズム、シュールレアリスム,表現主義などの新興芸術が世界に広まっていった。戦争の反動として起った感覚的な,享楽的退廃的なダダイズムの小説や絵画は混乱した時代を反映し多くの国で流行した。

 日本でも、1920年代プロレタリア文学やモダニズム文学が流行し、30年代にプロレタリア文学が政府によって圧殺されると、モダニズム文学もしだいに自壊し、社会や世界を描く文学から情緒的、内向的文学に戦時下は変貌していった。小林秀雄は「様々なる意匠」のなかで、マルクス主義も第一次大戦の西欧の危機から生まれたモダニズムも西欧文化の移植であり日本では根づかないであろうとのべていた。又,川端小説の論評では「小説の冷たい理智とか美しい叙情とかいう様な事を世人は好んで口にするが、化かされた阿呆である。」と書いている。