2024/06/23

脳は美をどのように感じるのか

1950年代にジョン リリー は人間の感覚が、外からの刺激の全くない状態でどのようになるのか、意識は外の刺激から生まれるのか、あるいは内部にあるのかを知るための実験をした。このアイソレーション タンクの実験で、時間とともに意識は変容し、幻覚や夢が現れ、時空の組み立て方が変化してきた。


 昔から、切断された手や足がまるで存在してそこに痛みを感じるファントム ペインが知られている。痛みもまた痛覚刺激が脳に達して痛みを感じるだけの単純な刺激と反応だけではなく、痛みという情動をともなった概念として脳の中で生み出される。


 痛みは皮膚や筋肉が傷つけられると皮膚は刺激が加わるとニューロンを伝って脊髄に入り、つぎのニューロンが視床にパルスを伝えさらに次のニューロンを介して大脳皮質に達して痛みを感じる。それに対して痛みを少なくする抑制システムがある。草原でライオンに襲われかまれ重症をおった人たちがその時痛みを軽く感じる程度であると話している。 これは痛みに対して脳や脊髄でオピオイド 麻薬様物質が放出され痛みを抑制するシステムが働くためである。その後、しばらくしてから脳がその状況を認識する。


 絵を前にして、まず感情が湧き上がる。美しい色の組み合わせ、心休まる風景は、ドーパミンを放出させ、穏やかな微笑み、穏やかな人々やその情景はエンドルフィンやオキシトシンバゾプレッシンに働き、恐怖を感じる画像や残虐な絵を見た時ノルアドレナリンが分泌される。宗教的静いつな情景はセロトニンを放出させる。 その後、脳の認知中枢からトップダウンで送られてくる信号と照らし合わせてその意味を見つける。トップダウンの処理は、情報の分類や意味付けに関わる大脳皮質と脳の別の部分の貯蔵されている記憶によって、脳の中でその絵を解釈し創造する。


 絵がもたらす視覚の情報は変わらなくても我々の情報の解釈が変わることは、エッシャーやルビンの壺など、だまし絵を見ていると、同じ絵が、あるとき壺と見えていたものが反転して人の横顔となって見えることで経験する。見ることは、現実にあった幻想をつくることである。視覚も痛みと同じように目で見て網膜がそれを感じてニューロンを伝って脳の視覚野にとどく。それに対して扁桃体や線条体で情動が生まれ、大脳の前頭前皮質が働いて、それを分析し、分類して、知覚する作業が行われている。 


 

 側頭葉の奥深くにある扁桃体は、いろいろな知覚の刺激が大脳に届く前に、チェックする役割がある。扁桃体へ感覚のデータが送られ、それを無意識に処理され、扁桃体がこの刺激を視床下部に送り、そこで身体の生理的反応、動悸などが起きる。人の体に危険が迫ると、この扁桃体が最初に働いて、漠然とした非常に不快な感情、不安感が起き、危険を回避する。その後、第2の回路を使って、目で見たり、耳で聞いたりする情報が脳の視覚野や聴覚野という部位に到達する。

 扁桃体は、大脳皮質の視覚や聴覚、触覚の感覚を感じる神経と結びつき、視床下部などの自律神経とも結びつき、さらに認識する大脳の前頭葉にも結ついている。扁桃体は、情動の働く脳のほとんどの領域とつながっている。ものを見て、感じる単なる知覚を、脳の中で情動的感じるように変換する。それに扁桃体が中心的役割を果たす。

 

 猿やマウスの扁桃体に障害が起きるとヘビや恐ろしい動物を危険と感じなくなり、身の回りの予想外の出来事に対応できなくなってしまう。人間でも先天的に扁桃体の機能障害を起こす稀な遺伝的病気のウルバッハ ビーテ病の人は他人の顔の表情から、怒りや恐怖を読みとることができなくなる。


 情動刺激は、肯定的で報われるか、否定的で罰せられるか、その中間かである。肯定的な情動は幸福感や快楽を生み出し、その刺激を求めるようになる。反対に否定的情動は喪失感や恐れの感情を生み出し、これから逃れようとする。扁桃体は刺激に反応する情動を評価する中心になる。扁桃体、海馬とともに大脳皮質の下にある線条体は近ずくべきか、避けるべきかの行動を起こす時に最初に働く。そして、そのあとに前頭前皮質が知覚と経験を整理して、情動と行動を統合する。

 まず刺激に対してはボトムアップの反応が起こる。刺激に対して報酬系のドーパミン、エンドルフィンシステムが働き、オキシトシン バゾプレッシン系も働き始める。そして注意を向けたり、新しいことを始めるためのノルアドレナリンが働き、安心や幸福感をもたらすセロトニン作動系が働き出す。これらは扁桃体につながり、情動は生まれる。見ることによる単なる知覚を、扁桃体で情動として感じることに変換される。

 そして、肯定的や否定的な知覚や情動をコントロールするシステム働きはじめ、大脳皮質の高次領域でそれが行われる。この脳の部位前頭葉で、絵をみて触発される海馬の中に記憶された情景、過去の感情と比較し評価する。情動だけでなく思考も前頭前皮質の高次領域が認知し、トップダウンでコントロールしている。


  


 絵画や詩は作者の感情を形にしたもので、多くの意味を込めている。芸術家は自然を観察し自然を感じとって、絵や言葉によって、感情と美意識を表現する。その鑑賞者もまた絵を見て、詩を読んで、快楽を感じ、脳内でそれに触発された創造物を生み出す。

 ヨーロッパの絵画は宗教画や神話や物語を絵にし、いかに立体的に正確に描くかが重要であった。それが、19世紀になり印象派の絵画になり自然の一瞬を捉え、その感情を形にしたもの、キャンパスの色彩や形が物語性や立体的構図より重要になった。20世紀絵画は、さらにそれを進め、クリムトの表現主義やピカソのキュービズムや抽象絵画を生み出した。現在それらの芸術が、脳の機能によりどのように生み出され、どのように鑑賞者の情動に働きかけるのか、そのメカニズムが次第に明らかになりつつある


2024/06/09

それぞれの季節 高浜虚子

       われの星燃えてをるなり星月夜

      爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え


 高浜虚子は1874年(明治7年)松山藩の武士の4男と知って生まれる。俳句は17 歳の時、1891年( 明治 24  )松山の中学校の級 友である河東碧梧桐の紹介で、正岡子規と文通したことに始まる。5 月,松 山に帰省した子規の家を訪ね、初めて対面した。10 月子規によって,本名に近い俳号・虚子が与えられた。25 4 月同校を卒業。9 月、 京都第三高等中学校に入学し下宿することになった。翌 26 9 月に一年遅れて,碧梧桐も同校に 入学し京都のこの下宿を「虚桐庵」「双 松庵」などと呼んで学生生活を送った。 

1897年( 明治 30年) 極堂が松山で俳誌『ホトトギス』を発刊し子規や碧梧桐らが寄 稿した。同年 6 月、24 歳の虚子は 末の兄、池内政夫の下宿経営を助けながら『国民新聞』の俳句選を担当した。1898年( 明治 31 年) に俳句はある点で絵画と一致する が、音楽的な語調が大切だと書いた俳句入門を出している。『ホトトギス』は松山での運営 が困難となり同年9 月東京、神田錦町の自宅に発行所を移して虚子が主宰することになっ た。

                  遠山に日の当りたる枯野かな


 病の床にあった子規は1902年(明治 35 年)容態が急変し36 歳で世を去った。この明治30年代は短歌では明星の与謝野晶子のみだれ髪がブームを起こし、明星の時代であった。明星の主催者与謝野鉄幹の主情的な心の表現と正岡子規のホトトギスの写生による短歌や俳句は当時の文学界で対立していた。

 俳句界は、正岡子規という大きな 柱を失った。そして碧梧桐は子規の後を継いで新聞『日本』掲載の日本俳句欄の選者となり、日本派 と呼ばれるようになり『ホトトギス』の経営に携わる虚子のホトトギス派と二つの勢力に分 かれる形となった。


    金亀子(こがねむし)擲つ(なげうつ)闇の深さかな 


 1908年(明治41年) 国民新聞社に入る。翌年から数年、虚子は俳句からはなれ、小説『鶏 頭』『寒玉集』『俳諧師』『続俳諧師』『凡人』 などを書いた。 

1910年(明治 43年)秋、虚子は国民新聞社を退社 、44年 1 経営のため『ホトトギス』に復帰し た。

 当時、俳句の従来の形をなくした、季題季語の無用論や定型 17 字に合わない自 由律などが唱えられそれが流行し始めた。そこで虚子はこれに対峙し1913年(大正 2 年)、39 歳で俳壇に復帰する意志を固めた。 

   春風や闘志いだきて丘に立つ 

 虚子は碧梧桐派の新傾向に対してやゝ技巧的な浮華な方面に走っていると考え、俳句は伝統を尊ぶ文芸であり、 俳句の伝統を重んずるべきである。すなわち季語や17字の字数の制限は必要で、写生のなかで清 新な仕事をするべきと主張した。 

 大正期のホトトギス派は渡辺水巴、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川 零余子などが集めまり、分裂を繰り返す新傾向派に代わって、ホ トトギス派は俳壇の主流となった。

   鎌倉を驚かしたる余寒あり 

   野を焼いて歸れば燈火母やさし 

 虚子は俳句は花鳥諷詠をとなえた。春夏 秋冬四季の移り変りによって起る天然界の現象並びにそれに伴う人事界の現象を諷詠する 文学である。広い文壇にはさまざまのものがあってよい。そのなかで俳句は人事の葛藤纏 綿から離れて,自然に愛情を注ぎ、又それに報ゆる自然の愛情を享受して、自然を描写す る文芸として独特の価値を持っているというもので、17字定型、季題を与えられることによって逆に思考や感情の過剰さが抑えられると考えた。


 ホトトギスから水原秋桜子,山口誓子 や中村草田男、中村 汀女らが育っていった。 

  流れ行く大根の葉の早さかな 

 1926年(昭和 15 年)日本俳句作家協会が結成され、虚子は会長に就任した。その頃、俳句の新しい改革の運動が起こり、反戦的な西東三鬼、社会主義的な秋元不死男など伝統破壊の俳句作家たちは治安当局に弾圧され、活動 は休止させられた。

 戦後桑原武雄の俳句は思想を語る第一芸術の小説などとは違う第二芸術 であると発表し、論争となった。虚子は自分たちが俳句を始めた頃は、これを芸術と思うものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。それを桑原は十八級特進させてくれたのだ、結構じゃないか。と語った。俳句は思想を語らず、日常の存問が即ち俳句である、と俳句への道で書いている。西欧文学とは全く別の花鳥諷詠、客観写生を貫き、俳句に人生論や深刻な意味を持ち込むこととは反対の立場をつらぬきとおして終生俳句を創作した。

  落花生喰いつつ読むや罪と罰

  虚子一人銀河と共に西へ行く

  見栄もなく誇りも無くて老の春


  1959年(昭和 34 年) 4 1 日,鎌倉原の台の自宅で,虚子は脳出血のため意識不明になっ た。翌日永眠。享年 85