戦時下の太宰治の長編小説「惜別」は、魯迅の小説「藤野先生」を題材にして書かれたもので、1945年(昭和20年)大東亜共同宣言の独立親和を目的に情報局と日本文学報国会が推薦する作品を募集し、それに応募した小説です。
太宰治はその作品の意図について以下のように述べている。
明治35年、当時22才の周樹人が、日本国において医学を修め、もって疾病者の瀰漫せる彼の祖国を明るく再建せむとの理想に燃え、清国留学生として,横浜についた、というところから書きはじめるつもりであります。清潔感、中国においては全然見受けられないこの日本の清潔感はいったい,どこから来ているのであろうか。彼は日本の家庭の奥に、その美しさの淵源がひそんでいるのではなかろうかとかんがえはじめます。あるいははまた,彼の国においてはまったく見受けられない単純な清い信仰を、日本人がすべて例外なく持っているらしいことにも気がつきます。
魯迅の晩年の文学論には、作者は興味を持てませんので,後年の魯迅のことにはいっさい触れず、ただ純情多感の若い1清国留学生としての「周さん」を描くつもりであります。
魯迅はこの小説の舞台となった東北大学医学部を中退し、その後、中国に帰国した。
太宰の興味を持てませんとした小説や文学は有名な「阿Q正伝」や「狂人日記」、「故郷」などが、1918年(大正7年)に出版された『吶喊』の中に収められている。1920年代になると 生命の泥は地に捨てられ、喬木を生まず、ただ野草を生む。の題辞ではじまる散文詩『野草』を、朝露を帯びた花を手折るのであれば色も香ももっとよいはずだが,私にはそれができないから題をとった『朝花夕拾』。その中の一編に「藤野先生」がある。
1930年代には抗日文芸家として左翼作家連盟に関与し多くの文芸評論集を出している。毛沢東は彼には奴隷根性やへつらいの態度がいささかもない,中国文化革命の主将,偉大な文学者,偉大な思想家、偉大な革命家、最も認識が正確、最も勇敢、最も決然としている、最も忠実、最も情熱を持っていると絶賛した。毛沢東が硬骨の人と魯迅を讃えたのは、1940年(昭和15年)「新民主主義の政治と新民主主義の文化」の講演会であった。
ぼろぼろの高い壁にそって、やわらかい埃を踏みしめながら私は道を行く。
無為と沈黙だけで乞食をするのか
少なくとも虚無は得られるだろう。
そよ風がふいて、あたりは一面の埃だ。ほかにも何人か、
めいめいに道を行く。
埃、埃
中国の動乱期に時代と格闘し寂寞と虚無をとおして文学の可能性を示した詩や,小説を書き、政治に関与した啓蒙的な数々の論評や多くの翻訳を残し、現在でも中国国語の教科書に最も多くのせられている。
作者の太宰治は1930年代昭和の初期私小説「晩年」を発表した。幾度かの自己破壊の精神的危機を乗り越えて戦時には、リアルな私小説は、もうとうぶん書きたくなくなりました。フィクションの明るい題材のみ選ぶつもりです。として1939年(昭和14年)に「富嶽百景」「姥捨」「女生徒」を 翌1940年(昭和15年)「思ひで」「走れメロス」1943年(昭和18年)に「右大臣実朝」、翌年には「津軽」を発表して有名作家の一人となった。戦争の激化とともに翌年の戦争末期に応募した「惜別」は戦後になって出版された。
魯迅が日本留学時、日露戦争で日本の勝利を目撃し、明治維新は蘭学の科学ではなく国学の精神による。日本人の国体思想、天皇への忠義が国民すべてにあることを知り、医学救国の道ではなく自国民の教化のためにはまず文学による精神の啓発が第一と考えるようになった。また仲良くなった10才の子供の慰問文の国体の精神に感心し、儒教やキリスト教についての考えを語っている。太宰作品のなかで宗教や政治をとりあげたまれな作品となった。
それらの文学表現、言葉が考証から想像した魯迅の考えなのか、あるいは主人公に仮託した太宰のものか、あるいは時代思潮の代弁なのか、反語なのか、この小説の意図ははっきりしない。
戦後は非政治的小説「斜陽」が単行本として発売され、1948年(昭和23年)には初期の 道化の華に似た私小説「人間失格」を書き掲載予定であった「グッドバイ」を最後にその年入水自殺し私小説作家として一生を終えた。