
藤原新也
1960年代以前の日本は、まだあらゆるものの中にアシア的なものを持っていた。それは 金子光晴の描いた、亜細亜、混沌として物質文明以前の世界。まだ貧しさと、飢餓と死が日常の生活の中に自然の暮らしの中にあった。
日本では、1960年代になるとこのアジア的なものがしだいに失われ、社会の近代化が始まり、 経済では高度経済成長期が始まり、物質的豊かさが始まった。この社会の変動に対して、1960年の後半には、学生達の反乱が社会運動となり、政治の季節をむかえた。
ちょうどこの時期1969年に日本を脱出してインドに放浪の旅に出かけ、1972年に著者最初の作品『印度放浪』を23才のとき書き上げた。
この中で自然と人間の生死も自然の一部であるインドを、「物質的貧困と同時に、日本が失いつつある生命の根本である熱をみた。私はその国の熱にうかされた。そして、地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきり見ることができた。」
そして、熱球の下で「インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。インドという国が国の近代化にいつも失敗するのは、その人びとの頭上の巨大な熱球の主張や、その分子である地上の熱の独自のうごめきや生命の主張というものを法によって規制できないところにある。さらに言えば、この国においては,熱が法にとってかわっているのだ。それが宗教というものだろう。」
日本では、1960年代から始まった高度成長期は1980年代にはいり絶頂期を向かえつつあった。その1981年に東洋の端、イスタンブールのボスポラス海峡から東に、香港、台湾、朝鮮半島をたどり日本に至る新たな写真による紀行「全東洋街道」を発表。そこには物質的繁栄前のアジアが鮮やかに写し取られ写真による新たな文明紀行,文明論を生み出した。
1983年『東京漂流』を出版。インド、アジア漂流の体験から日本の豊かになる軌跡、繁栄が人々に何をもたらすのか、近代化がなにをもたらすのかを鋭く浮かび上がらせた。『日本人は戦後80年代になるまで自らを物によって救済することのみに奔走してきた。』
その象徴は1980年東京郊外のベッドタウンおこった金属バット両親殺人事件で、青空の下の何の変哲もない住宅。この郊外の住宅は、高度成長期20年の間営々として築き上げた消費文明の成果であった。その家の完成とともに空疎化し崩壊した家庭の物語を一枚の写真に雄弁に無言のうちに語らせた。
皮肉なことに、その後この日本が一歩先んじた近代化、物質的豊かさの追求が、アジアにおいては台湾、韓国、シンガポール,香港などで始まり、東南アジア、中国そして、現在では彼の青春の聖地であったインドにおいても起っている。