戦後の、平和、自由、人類としての世界といった枠組みのなかった時代を三島由紀夫は「豊饒の海」の第一部春の雪と第二部の奔馬で描いた。その時代天皇は至高の存在で、死はみじかにあった。
第一部のセピア色した日露戦争の写真で始まる「春の雪」は主人公松枝清顕の大正時代、貴族社会の悲恋の物語。第二部「奔馬」は、この松枝の生まれ代わりの飯沼勲が主人公になり、激動する1932年(昭和7年)の日本を舞台に物語が展開する。
飯沼勲は、陸軍の堀中尉を訪れる。「勲は笑った中尉の顔を見て、むしろ過ぐる桜のころにここを訪れるべきだったと思った。中尉は、空を黄いろくするやうな演習場の風塵の中から帰ってきて、桜の花びらのついた埃だらけの長靴を脱ぎ、春と馬糞の匂いにあふれたカーキいろの軍服の肩に、襟に、幼い赤と金の光彩をきらめかせて、少年たちを迎えるべきだった。」そして堀中尉は飯沼薫に「お前の理想とするところは何か」と尋ねる。「昭和の神風連を興すことです。」さらに、「よし、じゃ訊くが、お前のもっとも望むことは何か」と問われ「太陽の、日の出の断崖の上で、昇る日輪を拝しながら、かがやく海を見下ろしながら、けだかい松の樹の根方で、自刃することです。」
この飯沼勲の信奉する神風連の物語に対して、本多は手紙で、新島襄のキリスト教の布教のため学校をつくるも迫害を受け、京都に逃れ、同志社の基を築いた例を上げ「歴史を学ぶことは、過去の一時代の嵌め絵から、一定の形を抜き出して来て、現代の一部分の形に当てはめて、快哉を叫ぶことではありません。」といって心情の純粋性と歴史の混同をたしなめた。
非合理の行動主義者の幻の夢は、「色さまざまに変わる美しい一つの鞠」となって蹴り込まれ、冷たいけれども整然とした法秩序建築の中、合理主義者本多繁邦の確信する世界に対しひびを入らせることになる。
飯沼勲は、昭和の神風連になるべく、腐敗した政財界に鉄槌を加える行動を仲間とともに起こそうとするが、決行前に逮捕され裁判を受け、釈放される。釈放後、財界の黒幕蔵原殺害を一人で実行し、自刃する。最後は「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。」で閉じられる。ほとばしる情動は理性的判断、理知の抑制を飛び越え奔馬となって行動に駆り立てた。
民族精神の擁護、廃刀令に反対して、古代と同じ、祭祀主宰者としての天皇復古の実現を求めたのが神風連の乱で、明治9年、政府機関である熊本鎮台を襲撃した。
帯刀は日本が神の国である象徴で、刀剣は神器であり、それを捨てることは国の風儀の否定になるとして、明治政府に刀剣と槍で武力攻撃をしかけた。しかし、時の明治政府の銃の前に鎮圧され、多くは自決した。当時から、神がかりの神秘主義的秘密結社の反乱と呼ばれた。
昭和の初期、桜、カーキ色の軍服、赤と金の徽章に象徴される、陸軍皇道派もまた、天皇をかかげ天皇制の下の人民国家の樹立を目指して行動を起こした。そして、天皇の率いる政府軍に鎮圧され、軍内過激派のクーデターとされた。
武士道は坂東武者の名誉感と自負心、そして主従の関係、状況に対応する戦闘者の行動規範に始まり、戦闘がなくなった江戸時代においては、極端な形の葉隠として残った。
江戸時代も18世紀に入り、戦乱の世から100年経ち、「みな人は江戸に行くらん秋の暮れ」といわれた太平の時代になった。鍋島藩の若い武士も現生の衣装や、損得勘定にうつつを抜かしていた。この風潮に対して、当時の江戸時代の現実にはなかった武士の精神を語ったのが葉隠で、戦国武士の思い出の神話化であり、当時においても過激な思想の口述であった。
「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」に象徴されるその先鋭で過激な極論は、切腹礼賛ではなく、日常の生活において、最悪の事態に備える心構えを説いたものだった。そして、武士の無条件の絶対的な主従関係、君臣の契りは、片思いこそ純粋の恋愛であるように打算のない、極端なまでの純粋化、人格の同一化として捉えられた。そして、忠誠を尽くすためには諫争、君を君たらしめる為の努力が義務となる。
この主君への絶対的な忠誠心は、幕末に再現された。幕末は足利室町末期元亀天正の世の再来と捉えられ、武士にとっての名誉心、自主的決断、目的をもった生き方が蘇る。幕末の志士の行動は尊皇の意識とともに日本の独立と名誉の確保が、自分自身の独立と名誉の確保であるという武士道がもとにあり、その考えは農民や名主、庄屋などの層にも共有された。そして、藩主に対しても、諌言し、その誤りを正すべく行動を起こした。
この幕末から明治初期の武士の心情は、佐賀の乱、神風連、そして最後の武士の戦いとなる、西南の役の鎮圧とともに消滅し、開国し、富国強兵策をすすめる現実派が政府の実権を握った。
しかし、西南の役の翌年に大久保利通は暗殺され、明治政府にとって、天皇の地位をどう定めるかが次の重要な問題となった。祭政一致の司祭者か、有徳の君主か、憲法の下の立憲君主か、あるいは共和制かなど様々な勢力がそれぞれの案を提案した。最終的にはドイツ式の憲法の下の君主として立憲君主制の明治帝国憲法が1889年(明治22年)に制定された。そして尊王も忠君愛国の家族的国家観に変質し、武士の持つ人と人のつながりによる忠君もまた武士階級の消滅とともに消え去った。
人の心は、どのような神話も物語も、美もつくることができる。そしてそれを信じて行動する。奔馬の中に描かれた主人公飯沼勲の行動の生まれる過程は鎌倉時代の武士に源があった。そして政治の理想を古代の祭政一致の神政ユートピアに求めた。平和な時代に眠っていた思想が幕末の動乱期に復活し、さらに昭和の時代にも再び過激な人々を行動に
駆り立てた。
三島由紀夫はその心情を奔馬に描き、第3部暁の寺で輪廻転生、唯識論を語り、第4部の天人五衰の「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。」で豊饒の海を終わらせる。自らも幻に対して諌言し、幻をめがけて行動し、自刃した。
参考 丸山真男講義録 武士のエートスとその展開