2013/10/13

風立ちぬの世界 堀辰雄と四季


「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。」

堀辰雄は、1930年(昭和6年)「聖家族」で文壇に登場した。

 1933年(昭和8年)軽井沢を舞台に「私の心はさつき霧の中から私を訴へるやうな眼つきで見上げた野薔薇のことで一杯になっていた。私はそれらの白い小さな花を私の詩のためにさんざん使って置きながら、今日までその本物をろくすっぽみしなかったけれど 」と恋物語「美しい村」を発表した。

 同じ年に、三好達治、丸山薫、津村信夫と詩の雑誌四季を発刊した。この年、共産党の指導部の佐野、鍋山転向事件から共産党は壊滅し、日本でも一時的に流行した国際主義的色彩の強いプロレタリア文学も国家の敵とみなされ消滅させられていった。そして、旧文壇の高村光太郎や萩原朔太郎の復活と若い世代の文芸復興がおこった。
  

 堀辰雄は有名な「風立ちぬ」を2.26事件のおきた1936年(昭和11年)と盧溝橋事件で日中戦争の始まる翌年1937(昭和12年)にかけて書き上げた。「それは,私達がはじめて出会ったもう二年前にもなる夏の頃、不意に私の口を衝いて出た、そしてそれから私が何ということもなしに口ずさむことを好んでいた、風立ちぬ、いざいきめやも。という詩句が、それきりずっと忘れていたのに、又ひょっくりと私達に蘇ってきたほどの、」

 古典復興と内向的、求心的、叙情的な詩を集めた雑誌で四季派とよばれる詩人たちが昭和の始めに活躍した。このなかには中原中也、草野心平、金子光晴、立原道造も含まれている。四季は1933年(昭和8年)から1942年(昭和19年)まで81冊続いた。

 堀辰雄の分身的存在だった詩人は立原道造で,彼は10才年上の堀辰夫と同じように府立三中、一高を卒業し1934年(昭和9年)東京帝大に入学、四季の編集同人となり、繊細で透明な空気を代表する作品を生み出している。

 「夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に 水引草に風が立ち 草ひばりのうたひやまない しづまりかえった午さがりの村道を」(のちのおもひに) 

 「暁と夕の詩」の覚え書きで「失はれたものへの哀傷といひ、何かしら疲れた悲哀といひ、僕の住んでいたのは、光りと闇の中間であり、暁と夕との中間であった。生きたるものと死したるものの中間者として漂ふ。死が生をひたし、僕の生の各瞬間は死に絶えながら永遠に生きる。すべてのものは壊されつくしている、果敢ない清らかな冒険を言ひながら、僕がすべてのものを壊しつくしてその上に漂った、と僕の心がささやく」

 建築家としても嘱望されつつ1939年(昭和14年)24才で死亡。

 昭和初期1930年まではプロレタリア文学は大きな社会的影響力をもち、太陽のない街の徳永直や蟹工船の小林多喜二、詩人の中野重治たちが活躍した。しかし、しだいに時代の重圧の中で敗北していった。同時にモダニズム文学や詩も消滅した。

 現在にも読み継がれ人気のある詩は,その後も残った日本的叙情詩を描いた四季派の詩人たちである。四季派の特徴は日本古来の詩人たちのように日本の自然と心の内的世界とのかかわりあいを詩の目的にしたことにある。
 これらは季語や花鳥風月につながる、自然を直感的にとらえ表現することを重視しすぎ、社会的視野のなさ、芸術のみが至上で、現実より遊離している、あるいは近代社会のメカニズムとしての戦争を分析することはなく、戦争そのものを自然災害と同じようとらえていたといったという批判にもつながる。彼らの文学の舞台となった信濃追分や軽井沢のある長野県はまた最も多くの開拓移民を満州に送り出していた所だった。

 この頃の時代について金子光晴は「2.26事件につづいて、弾圧された筈の右翼勢力が,地下根をひろげ、着々とその地盤をつくり、満州事変上海事変等の民族的エゴイズムの発露となり、遂に中日戦争への追い込みというかたちになった。昭和6、7年あたりの自由主義の華やかさは皮相的なものであって、筋金になって国民を率いる思想の正体は、日本主義的ファシズムにほかならなかった。そして、国民の大多数は、それを支持した.それには,明治維新の皇道精神を基本とした子女教育がものをいっていた。」