2023/01/25

1930年代 パンとサーカスの時代  



 1930年代 政党は目先の争いで国民の信頼を失い、軍と官僚はパンを求めて大陸に戦線を拡大し、大衆は技術革新に乗ってスリルとスピードを求めてサーカスに走った。センセーショナリズムに押され民主主義的文化や良識的報道はしだいに片隅に押しやられる。


 1930年(昭和5年)太宰治は帝大のフランス文科に入学し東京で生活を始めた。「いったい私たちの年代の者は、過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。」と戦後に書き残している。


 翌1931年(昭和6年)満州事変勃発。日露戦争で手にした南満州鉄道は満鉄が経営した。鉄道の経営とともに大連港などの港湾を管理し、撫順の石炭や製鉄所を持ち、重工業の産業の役割を果たしていた。さらに満鉄調査部をというシンクタンクも持っていた。関東軍はこの権益を守り、さらに拡大するために、日本政府の外交努力を認めず、奉天郊外の柳条湖の南満州鉄線路を爆発させ、独断で中国軍を攻め、満州全域を占領下に置いた。

 この時、大手新聞社は、地方での発行部数を増やし、購読者を惹きつけるために、この満州での軍事行動を称賛し、軍人の犠牲を悼み、国民の愛国心に訴えた記事を競って載せた。


「続いて満州事変。5.15だの2.26だの、何の面白くもないようなことばかりが起こって、いよいよ支那事変になり、私たちの年頃の者はみな戦争に行かなければならなくなった。」太宰治は続ける。


 1932年(昭和7年)犬養首相暗殺の5.15事件で海軍軍人に民間人の橘孝三郎も加わった。橘は愛郷塾は農民組合活動を行い、その後日本の国家を変える運動に参画し、軍人たちとともにを行動を起こし無期懲役となる。 この事件に対して、行為は悪いが動機は正しいと世論は同情し、全国から百万通を超える減刑嘆願書が寄せられた。



  1935年(昭和10年)第一回芥川賞の候補に太宰治の「道化の華」がなるも結局選ばれず、ブラジル移民を題材とした石川達三の蒼氓に決まり翌年も、小田嶽雄の杭州を舞台にした外交官の物語が受賞した。その後も中国の奉天や上海あるいは樺太を舞台とした小説が芥川賞を受賞している。湿った、閉塞した内地日本と異なる乾いて、広がる外地が憧れの地となりつつあった。


この年保田與重郎と亀井勝一郎などと国学的民族主義の「日本浪漫派」が刊行される。


 1936年(昭和11年)夏に大宅壮一は「現代スリル論」を書いた。「近代社会は、モダンライフのストレスからの逃げ場を求めるスリルハンターにあふれている。なぜなら現代人は次第に空気が腐敗していく大衆社会のなかで息苦しさを感じているからだ。スリルには、スリルを求める以外の目的はない。スリルの質を評価する普遍的な基準も存在しない。なぜなら、すべては個人の好みや環境次第だからだ。となれば、重要な意味をもつのは、その量と、認識された危険率のみということになる。殺人事件や最近の2.26事件など、センセーショナルに報じられた暴力沙汰はスリルハンターに、平素のスリル欲を満足させる絶好のチャンスをあたえる。」この年に2.26事件は起きた。



 満州事変から6年後、1937年(昭和12年)7月支那事変勃発。新聞社や出版社は特派員を派遣して、センセーショナルに戦場を記事にして、売れ行きを伸ばしていった。 日中軍事衝突は、盧溝橋事件のあと、上海で海軍が軍事作戦を決行。そして陸海軍合同で首都南京を目指した。1937年8月の上海事変から南京攻略に従軍記者は1000人以上にのぼり、各社競争で戦争熱をあおり、文字によってお祭り騒ぎを起こし、東日の百人斬りの記事はこの時書かれ話題になり、他社もそれに加わった。むしろ軍部や政府はこの行き過ぎた報道に対して抑制する立場をとった。


 当時のことを、大宅壮一は「実感なき戦争」で、「停車場のプラットフォームでの兵士の歓送は、野球の応援そっくりのリズミカルな拍手がよく見られる。都会に限られてはいるが、日清、日露の頃には、まさかあんな送りかたはしなかったろう。」「国内にいる一般民衆の頭には、身辺に出征者を持つものを除いて、戦争といふものが実感となって沁みこんでいないようだ。」


 全国の戦勝記念の提灯行列で、人々は街々で通りに繰り出し、深夜まで騒いだ。東京の銀座では「銀座通りは百花繚乱。おなじみのミリタリーマーチが流れてきた、彼は戦場のスリルを感じる。」「戦争とダンス。地球のどこかのすみで砲声殷々と轟く時、泉の如く湧き起こるのはこれ、ダンス熱」と小野佐世男は描いている。


 新聞各社はスリル、スピードをきそって、センセーショナルな記事を書き、戦争を売り物として従軍記者や従軍作家は時代の寵児となった。「事ここに至るとニュースはその本質を脱して、もはや創作以外の何物でもない。   気まま放題なニューススピーディズムから軍機漏洩的行動に及んでは、それこそ国策を誤らせる。」


  1938年(昭和13年)近衛内閣になると、国家総動員法がだされ、内閣情報部から日本文芸家協会会長の菊池寛に対して、作家を動員して従軍するように求められた。そして陸軍班と海軍班に分かれて、武漢攻略戦に従軍しその状況を描くように求められ、これらに菊池寛、佐藤春夫、林芙美子たちも加わり、ペン部隊とよばれた。そして漢口一番乗りで、林芙美子は一躍文芸界の寵児となる。


その後政府は次第に統制を強め、国策に沿わない作品の発行を禁止し、その期間は、小説家にとって「愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守り通すのは、実に至難の事業であった。」

 

 1930年代、国策を進める国とそれを煽ったジャーナリズムとそれに乗った国民大衆の行動は、文学の世界でも国粋主義の台頭を支え、アカデミズムもそれに屈した。



2023/01/02

技術(テクノロジー)と宇宙船地球号の未来



 バックミンスター フラーはアメリカにおける偉大なクリエーター、発明家である。

 1933年フラーによって、ダイマクションカーが作られた。飛行機の形態で空気抵抗を抑え、11人乗りの3輪の車でドーム型の今でも斬新さを失わない、新しい車を作りだした。

 ダイマクションとは、ダイナミック(動的)とマキシム(最大)とテンション(張力)の組み合わせた、フラーの造語。

 1946年飛行機から材料を集め、中央に一本のマストを立て、そこから張りめぐらした引っ張るワイヤーによって軽いさまざまな素材の床や屋根を吊る構造の、組み立て式のダイマクション住宅を考案した。ダイマクション移動型共同住宅は、第二次大戦の最中に、移動可能な将校の住宅や兵舎、緊急の医療施設として設計された。戦後ウィチタ ハウスとして、エネルギー効率の良い、耐久性のあるハイテク住宅として建てられ、家の上に、フィンのついた丸い帽子が載っていてキャデラックのベアリングが入っているので風が吹くと、くるくると回り通気する構造になっている。この家屋は全部がアルミの合金で出来ているためたたみ込んでシリンダーに入れて飛行機に積んでどこにでも運ぶことができた。


 1970年代ローマクラブが「成長の限界」で、このままの生活を続けたのでは地球の資源は枯渇すると警鐘を鳴らした。それに対して、フラーは資源の再循環やメタボリックな再生力、そして人間の学習と改良の能力を無視していると反論した。科学に基づいて適切にデザインされた技術があれば、環境を改良することによって、兵器やエネルギー効率の悪いデザインあるいは、生存に寄与しない装飾品などの製造で浪費しなければ、地球には十分な資源があると考えた。サイエンス、科学的デザインによって環境は悪化しないし資源は枯渇しないと唱えた。

 1964年モントリオール万博のアメリカのパビリオンは、フラーの設計による正三角形の組み合わせの構造材を組み合わされて作られた球形の建物であった。球形のドームは支える素材に対して最も強度が高い。この巨大なドームは直径76.2メートルの建物で遠くからは光り輝く巨大な宝石にたとえられた。その後ジオティックドームは世界中で、様々な建物に応用された。日本では富士山レーダーやテントあるいは世界中で様々な住居で使われている。


 1968年にホールアースカタログが刊行され、1971年の最終号で終わる伝説の書物は、地球上のすべてのものが乗っているツールへのアクセスと副題が付けられ、バックミンスターフラーの「確実に動作する計器や機構に私は神を見る」とより良い地球を創り出すのは科学技術であるという哲学、最小の資源で最大の効果を得るという思想を反映していた。


 スティーブン ジョブズはシリコンバレーで生活し、この雑誌を気に入り、いつも持って歩いていた。雑誌は、役に立ち、自立教育に関係のある高品質で低価格な製品のカタログで、「それはまるで、グーグルが出る35年前に出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使える道具と偉大な概念が、それこそページの端から溢れている、そんな印刷物でした。」とジョブスは語っている。この雑誌はコンピューーター教育を専門とする財団ポートラ協会の支援を受け、発行されていた。この組織から1975年にパーソナルコンピューターキット 「アルテア」が紹介された。


 これを見てマイクロソフトのビルゲイツがコンピュータューソフトの開発を始め、ジョブスとウオッズはガレージでアップル コンピューターを作り1977年にはアップルIIが誕生した。こうしてパーソナルコンピューター時代は始まった。1980年代はインテルを使ったマイクロソフトのウィンドウズマシーンが処理速度などの機能が優れ、しかも安価で、世界中に広がった。それに対してジョブズは「マイクロソフトが抱えている問題はただ一つ、美的感覚がないことだ。足りなないんじゃない。ないんだ。オリジナルなアイデアは生み出さないし、製品に文化の香りがしない。」

 その後アップルはi phone、i Pad、i watchを次々と創り出し、技術による感情に訴える道具、ブランドを確立し世界一の企業となった。


 スティーブン ジョブズはスタンフォード大学の卒業式で、新しい人生を踏み出す若い学生たちにこう語った。 「ホール アース カタログ 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎町の写真がありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。


 Stay hungry. Stay foolish」


 21世紀に入り、このコンピュータを使った情報通信革命はさらに進化していった。情報は大きな価値があり、適正な情報は人々の人生を変える。それを入手するためのコストがどんどん安くなって、簡単に誰でも手に入れられるようになった。この情報革命で世界中の人々を豊かにし、便利な生活が実現した。それと同時にこの技術は使い方によっては、人々の安全や自由を脅かす、ダークサイドもまた現実のものとなった。 


  2014年にロシアのゲラシモフ将軍は演説した。「戦争のルール自体が変わっている。政治的及び戦略的目的を達成する非軍事的手段の役割が増大し、多くの場合その効果において兵器の威力を凌駕している。」「我々が実際に話をしているのは新しい戦争理論です。その理論は情報戦と言う概念を拡大した。以前は敵の通信ネットワークと送信網を支えるコンピュータに対する攻撃であった。それが、21世紀になると敵の政府や軍文官を標的とする政治戦の形態へと発展していった。」 

 2014年にウクライナの光ファイバーケーブルが切断され大手電機通信会社が攻撃され固定電話やインターネットのアクセスは全て障害された。そしてウクライナの政府メディアの主要なウェブサイトは攻撃でダウンしウクライナの国会議員の携帯電話をハッキングされた。そしてほとんど無血で瞬く間に、クリミア半島はロシアの領土となった。



 技術は進歩し、技術(テクノロジー)の勝者か敗者で、個人の生活は決まり、国の盛衰が決まる。宇宙船地球号の未来も、テクノロジーの使い方で決まる世界になっている。