2019/08/01

たそがれの平安京と西行




 平安時代は藤原一族が、娘を天皇の妃とし、朝廷での権力を握った。そして政府の要職には貴族がついた。皇室は古来からの宗教的指導者としての権威を保ち、平安時代後期には、事実上の権力は、天皇を退位した上皇が握り、院政と呼ばれていた。


  若き北面の武士西行は藤原実能に仕えていた。その妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の皇后になる。当時、白河法皇は日本を支配していた。自らは上皇となって院政を行い、堀川、鳥羽、崇徳天皇の43年間にわたり実権を握った。その力は絶大で、鴨川の水、すごろくの賽 、山法師以外は意のままに、世に君臨し、日本を動かしていた。白河法皇のもとで、幼い頃から育てられたスキャンダラスな待賢門院璋子がその後の時代を動かすことになる。鳥羽天皇のもとに嫁いで皇后となった璋子は第一皇子の崇徳天皇、第4皇子の後白河天皇をもうけた。この二人の間の確執がのちの保元の乱を起こす。

 当時の平安京は人口10数万人、日本の人口は600万人くらいであった。平安末期は、全国的に飢饉が起き、地方では海賊や山賊が跋扈し、京の都も餓死者があふれていた。しかしこの民人の困窮にかかわらず、都の貴族世界は退廃的で柔弱な内向きの世界に陥り、日々を送っていた。

 西行は鳥羽法皇に北面の武士として仕え、その法皇の妃となった17才年上の璋子と出会う。身分の違いからか、やがて二人は別れ、西行は憧れの人璋子を終生熱愛し、多くの歌を作っている。

 知らざりき雲居のよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは

     (雲のかなた上の月に恋をして、その面影を袂に落とした涙に映すとは)

当時、家富み、年若く、心に愁いない西行が23才の若さで出家する。

 世中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬ我身なりけり

  鳥羽法皇の死により天皇家と藤原摂関家が分裂し相争い、陰謀渦巻く中、崇徳天皇派と後白河派の衝突、保元の乱が起こった。慈円の愚管抄に「鳥羽院うせたまひしのち、日本国の乱逆という言葉起こりてのち武者の世になりにけるなり」と書かれたように、 武力をともなう権力は次第に地方の名門武士、瀬戸内海地方に勢力を持っていた平氏一門に移っていく。平清盛は、多くの荘園を持ち、日宋貿易で経済力をつけ、さらに強大な武力を持っていた。
 保元の乱で平清盛は、功績を挙げ、国司の頂点である播磨守になり、敗れた崇徳天皇は讃岐に遠島となった。続いて起こった平治の乱以降、清盛が武力闘争の覇者となった。そして太政大臣まで官位を登りつめ、平安時代初期藤原氏が行ったのと同じ方法、すなわち娘を皇室の妃として、朝廷の支配権を握った。

 30代に高野山の草庵に住み、吉野に出かけた西行は、和歌を通して、空海の真言仏教の世界に没入する。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。されば一首読み出ては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思い続けては秘密の真言を唱ふるに同じなり。

 初花のひらけはじむる梢より そばへて風のわたるなりけり

  (ひらきはじめた桜の花の梢に、すでに無常にも、花の散るときの風が吹き渡る)

 西行39才の時、保元の乱が勃発する。その乱で遠島になった崇徳院は46才で、恨みを抱いたまま讃岐の地で没する。江戸時代の小説雨月物語「白峰」に西行が崇徳院の墓をたずねる場面がある。墓の前に、異形の悪霊が現れ、恨みつらみを語り始める。「かの仇敵ことごとくこの前の海に尽くすべし」と呪詛の言葉を唱えた崇徳院に対して、これを諌めて金剛経を読み、院の霊を供養した物語であった。

 西行は崇徳院の死後、数年して四国行脚の旅に出た。白峰の崇徳院陵、弘法大師の生まれ育った足跡を辿った旅をした。その後、源氏と平家の戦乱を避け、63才にして伊勢二見浦の草庵に住む。平家は清盛の死により没落し、やがて壇ノ浦で滅亡する。日本全土に渡る平家追討の戦いに勝利した頼朝は、幕府を鎌倉に開く。
 この頼朝に、69才になった西行は鎌倉で拝謁した。その後、陸奥国平泉に向かう。当時平泉は独立王国で奥州藤原氏が支配し、後に、義経はその下で庇護された。鎌倉幕府はこの奥州平泉と対立し、義経を自害させ、その後頼朝は大軍で平泉を攻め藤原氏を滅亡させる。

  とりわきて心もしみてさえぞ渡る 衣河みにきたる今日しも

 40年余りの出家の間に、過去から今に渡る自らの選んだ道を思い、戦乱の世に儚く死にゆく同族の多くの人々の思いに心めぐらせ、万感の想いを込めた心情を歌にした。
 
 当時は和歌が文章であり思想であり感情の表現だった。さらに、西行にとっては仏道に入る仲だち、法門を悟る便りであった。
 
 晩年西行71才の時、明恵に出会う。明恵は16才の時出家し、西行に和歌の奥義をおそわる。「我が歌を読むは、遥かに尋常に異なり、華 郭公 月 雪 すべて万物の興にむかひても、凡そあらゆる相皆是れ虚空なること」「自分は花を詠んでも実は花と思うことなく、月を詠じても実は月とも思わず、ただ縁にしたがい興のおもむくままに歌っているにすぎない。美しい虹がたなびけば虚空は彩られ、日光が輝けば虚空が明るくなるのと同じである。自分はこの虚空のような心を持って、種々の風情を彩っているといっても、あとには何も残らない」
 明恵は18才より仏道に専念し、翌年には夢の記を書き始める。後に、高山寺の中興の祖となる。

 ながきよの夢をゆめぞとしる君や さめて迷へる人をたすけむ    
                                 明恵


 日本の美意識の源となると歌を詠み、桜を歌った西行は、後鳥羽上皇が、西行を生得の歌人と高く評価し、自ら編纂した新古今和歌集に多くの作品を取りあげた。 西行の一生は、戦乱の世に生まれ、多くの親しい人の死にめぐり合い、生涯旅を友とし、遁世者の栄華を極めた。その歌とその生活は後の世に大きな影響を与えた。


 ともすれば月すむ空にあくがるる 心のはてを知るよしもがな



願い通り、桜の花の下、きさらぎのもちづきのころに亡くなる。西行73才の時であった。