2023/10/26

新古今和歌集の時代 2  プリンセス式子と藤原定家

 


 古代、文化を作る力や祭祀と政治は未分化であった。奈良時代に政治は、祭祀の中に仏教を取り込み、外来の文字や文化を取り込んんだ。平安時代には、政治権力を握った宮廷は、文化の力としての歌、和歌を勅撰集というアンソロジーで示した。


 演劇舞台と同じで和歌の言葉は発声が重要であったと思われる。後白河上皇の今様は声を出し朗々と歌う、また和歌や念仏も声に出し朗々と歌われた。儀式はかねや太鼓音色とともに行われ、和歌は発声された言葉として伝えられる。

 後白河が天皇であった時代に、和歌以外にも昔からの歌として神楽、催馬楽、風俗があった。神楽は、神と人の一体化を目指す歌と舞。催馬楽は庶民の民謡を楽器外来の活気に乗せて歌うものあり、風俗は鴨神社など大神社での練習の歌や舞その他には以前から伝えられ、習い、覚えてきた歌である。そのほかに以前から、習え伝えられた歌があり、それを今様という。今様で神々への賛歌、神霊などの様子を示した歌で、田楽などとともに、これらの伝えられてきた歌は多く、分野も広い。そして上皇は若い日々からこの今様を1日中歌い明かして、日々を暮らしていた。


 鳥羽法皇がなくなり、崇徳上皇と後白河天皇の間の保元の乱が起き、後白河天皇は崇徳上皇を倒し、讃岐流刑にし、権力を握った。慈円の書いた通り、鳥羽院うせさせた給いて、武者の世になりにけるなり。式子内親王は1149年、後白河天皇の3女として生まれ、6才の時に保元の乱が起きたことになる。続く平治の乱で平清盛が武士として初めて権力を握り、武家である平家の世の中になる。

 その頃地震や台風などの自然災害が多発し、疫病も流行し、仏教の末法思想の通りの混乱に日本は陥ってゆく。式子は1159年10才の時、賀茂神社に入り、この世間とは隔絶した世界で、巫女として10年間生活する。巫女の生活から離れた後には、30才過ぎて、藤原俊成のもとで和歌を習い、その息子、藤原定家を知る。俊成と定家親子は度々式子内親王の住まいを訪れている。

 式子の歌は1200年後鳥羽上皇が企画した「正治初度百首」載せられ、藤原俊成、定家など限られたサークルの歌人から、京文化の中心に名を連ねることになった。新古今和歌集には25首が載せられた。約400首の和歌を残して、病気のため1201年、53才で亡くなる。


故郷へ今はと向かふ雁が音も別るる雲の曙の色


風さむみ木の葉はれゆく夜な夜なに残るくまなき庭の月影


花はいさそこはかとなく見わたせば霞ぞかをる春のあけぼの


思ふより見しより胸に焚く恋のけふうちつけに燃ゆるとや知る




 1162年に正四位下左京大夫という中級貴族の藤原俊成49才の時の次男として、藤原定家は生まれる。1180年18才の時、源氏が挙兵して、源平の戦が始まる。この年に、明月記を書き始める。1185年平家滅亡。定家は14才で麻疹に、16才で天然痘にかかり、病気との長い付き合いの人生が始まった。1182年20才の時、「堀河院題百首」をつくり家族や宮廷人にもその歌を高く評価された。


 かすが山ふもとの里にゆき消えてはるを知らするみねの松風


 天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月のひかりなりけり


 一方父親の俊成は右大臣九条兼実の和歌の師匠となり、1183年後白河院から「千載和歌集」を勅撰するようにと命じられその選者になる。和歌の歌壇の第一人者となった俊成は、式子内親王や寂蓮など多くの歌人を育てた。



       大空は梅の匂いにかすみつつ曇りもはてぬ春の夜の月


  春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空


 息子の定家は、時の権力者九条兼実の家に仕え、その弟の慈円と会い和歌を通して知り合う。1200年38才で後鳥羽院に認められ、歌壇の一人者となる。翌年新古今和歌集の選者の一人となり4年の歳月をかけて、この勅撰和歌集を完成させる。定家の4才年上の姉は式子の女房として使え、式子の御所へは、その姉に会うためによく訪れていた。このころ13才年上の式子内親王の病気が悪化し、その屋敷をたびたび、見舞いで訪れたことを書き残している。


            来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ


 貴族社会から武家社会の転換期、多くの優れた歌人が生まれた。政治は武家の手に渡るも、文化は京の貴族のものであり、その文化の中心に和歌があった。鎌倉武士もこの貴族文化を身につけようと願い、源実朝は武家社会では傑出した京文化の担い手となる。この和歌の指導者の頂点に藤原俊成、定家親子がいた。そして、それを支えたのが後鳥羽上皇で、後鳥羽上皇の歌会に集う貴族文化を担う人々の集まる和歌所がつくられ、定家のほか長明、慈円、寂蓮、家隆、良経など貴族文化を担う人々が集まり和歌を競い合った。そうした文化的世界、貴族社会の中で、新古今和歌集は定家など5人によって編纂され、京の貴族文化の精華となった。


 1221年定家59才の時、後鳥羽院が承久の乱を起こす。源平の合戦の時と同じく、承久の乱に対しても「紅旗征伐我が事に非ず」として、政争に対して距離をおいた。定家には2人の息子と11人の姉妹がいた。長男は出家して仁和寺に、次男為家が歌人として定家の後を継いだ。「男女両息、吹挙の恩に依り、各生涯の望みを遂ぐ、感悦身に余るの由を申す」「予姉妹十一人、面々の官仕悉く此の恩有り」と記す。西行や慈円のように仏教に傾倒することはなく日吉神社に参詣しつつ、官職を務め昇進していった。1232年、71才の時、後堀河天皇のもとで新勅撰和歌集をつくる。


 父俊成、定家、そして子供の為家はともに勅撰和歌集を編纂した。俊成の「千載和歌集」定家の「新古今和歌集」為家は「続後撰集」である。武士の政権になるも、文化は京にあり、この文化の中心を藤原定家がになった。小説も書き、かな使いを確立し、平安時代の源氏物語や土佐日記を書写し、注釈し後世に残した。鎌倉幕府とも繋がりを持ち、定家は実朝の和歌を指導し、為家は、北条義時の孫娘と結婚した。藤原定家は日本文化のレジェンドであったが生活者としても安定した家族の世界を築き、80才の天寿を全うした。


 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ        藤原定家