2014/08/16

ブルーノ タウトと日本の美


宇宙建築士 ブルーノ タウト

 ブルーノ タウトは昭和8年(1933年)から昭和11年(1936年)まで日本に滞在し、西欧建築家による日本美の再発見、芸術論、工芸品、住宅を残し現在に至るまで多大な影響力を与えた。

 日本の各地を旅行し、貧とさえいえるほどの簡素こそ日本美学の基礎であるとして茅葺きの農家、あるいは飛騨、白川郷の60度の急勾配の藁葺き屋根の古い民家、戦前各地にあった農村地帯の家々、簡素なそれらの農家に日本の建築の美しさを見いだした。 

  奈良をつつむ雰囲気に宿る魅力は、この都が日本仏教の初期を代表しているところにある。当時、日本人は自由清新な気宇をもってシナの思潮を摂取し、しかも豊かな創造力によってこれに改良を加えた。

 新薬師寺に赴いて、何よりもまずそこの門や塀、植え込みなどのもつえもいわれぬ自然的な美しさを仔細に眺めてみなければならぬ、すべて簡素な美しさである。それはあくまでも清新純雅であると述べている。

 そして桂離宮を「発見」した。
Katsura.hier bin ich quasi sein Entdecker.
 また、伊勢神宮をアクロポリスにも比類するとしてみなし、日本のまったく独自の文化の鍵であるとして絶賛した。

 タウトの建築論は日本における建築の様式を2つに分け、この伊勢神宮、白川郷から桂離宮につながる建築の系譜を本物(オーセンティック)と評価し、一方、日光東照宮は様式は中国の明、清の悪趣味の模倣でありいかもの(キッチュ)と呼んだ。

 タウトの最も好んだ建築芸術は大和文化に始まる、伊勢、桂の系譜で、大陸文化の日本的にしたもの、明治以降の欧米文化の影響したものより遥かに高く評価した。

 ブルーノ タウトは1880年ドイツのケー二ヒスベルグに生まれ、若き日々ドイツを席巻した工芸技術と芸術を結びつけるジャポニズムやアールヌーボーにつながる「青春様式」ユーゲントシュテールの時代に青春時代をすごした。
 ベルリンに建築事務所の拠点をつくり、鉄の記念塔(1913年)やガラスの家(1914年)で表現主義建築家として有名になった。

 ドイツは第一次世界大戦の敗北で、帝国が崩壊し、ワイマール共和国が成立。同時に芸術のための労働者評議会が結成され、労働者の為の建築を目ざして、タウトや、グロピウスなどが建築家の集まり〔ガラスの鍵〕をつくり、バウハウスがこの時期誕生。その後の装飾を排した普通の素材を用いたドイツモダニズム建築を主導した。
 タウトは建築家として、働く人々の住居の設計にかかわって多くの田園都市、住宅団地を建設した。そしてベルリン工科大学教授になる。 しかし、ナチスが政権をとると左翼主義者として、職を追われ、日本に亡命することとなる。

 戦前の日本に昭和8年から3年間滞在し、伊勢神宮から桂離宮につながる系譜を日本文化の精華とし、将軍的装飾主義とは対極の天皇芸術を賞賛した。そして、皇国史観の強まる日本で多くの共感を得た。ドイツでの工芸と芸術の融合運動を日本でもおこし高崎市で日本の自然素材である竹,和紙,漆器を用いた工芸品を指導し製作し,芸術運動をはじめた。しかし、総力戦にむかう日本ではその活動は広がらず、1936年(昭和11年)、近代化を推進するケマル アタチュルクのトルコに教授として招聘され、日本を去った。

 戦後、日本の近代化は、天然、自然の素材をを捨て去り、安価でキッチュなプラスチックとアルミとコンクリートを偏愛し、タウトの目にした昭和初期まで残っていた芸術的な木造建築は跡形もなくなった。今こそ、伝統素材を見直し,日本の美を再構築し、タウトの夢見た、工芸、絵画、建築の統合された、キチュではない本物のアーツ アンド クラフト運動が必要な時代といえる。