やぶ入や 浪花を出て 長柄川
春風や 堤長うして 家遠し
薮入りの 寝るやひとりの 親の側
春風馬堤曲 蕪村
やぶ入りとは正月と盆の16日前後に、奉公人が親元に帰る休暇。
蕪村は1716年(享保元年)徳川吉宗の時代に生まれる。同じ年に京の青物問屋に生まれた、若冲がいた。蕪村の出生地は、大阪の北の郊外、淀川沿いの毛馬村で、春風馬堤曲は生まれ故郷、毛馬村の原風景を描いている。 関ヶ原の戦いから100年、国内には大きな戦争はなく、人々は天下泰平の世に暮らしていた。しかし徳川幕府は、この時代極端な財政赤字で、それを立て直すため徳川吉宗は改革に乗り出していた。享保の改革と呼ばれる政策で、幕府自らの歳出削減のための倹約に努め、収入を増加させるための、年貢の取り立て強化しそして、新田開発と殖産興業を推進し財政再建をおこなった。
20才の頃、大阪を離れ、江戸に向かい巴人という俳人のもとで俳諧を学ぶ。巴人は居を「夜半亭」と名ずけそこに蕪村は住み込む。27才で師匠と死別。その後、あちこちの遊歴を重ね結城で早見晋我の世話になり住む、75才の早見晋我と死別、「北寿老仙をいたむ」をつくった。
君あしたに去ぬゆふべのこころ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
たんぽぽ(蒲公)の黄になづな(薺)のしろう咲たる
見る人ぞなき
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵は
ことにたうとき
師と別れ、芭蕉と同じ奥州に浄土宗の僧の衣を着て、旅をする。1751年36才の時、京に戻り、宮津や讃岐を訪れる。その後、京に定住し、1770年55才の時夜半亭二世をつぐ。
18世紀後半、幕政は田沼意次がになった。田沼意次は蕪村や若冲の4年後1719年に生まれ、父親は足軽の身分であったが、徳川家治の信任を受けて、側用人になる。そして、徳川政権の初めから続く農村のコメ作中心の経済を、商業に重点を移し、近代的貨幣経済を取り入れ、経済活動を活発にしていった。 新田開発、蝦夷地開発、薬草の国産化などを行いコメ以外の産業を起こし、株仲間を多くの業種、油、青物市場、鰹節、薬、廻船などで認め、その運上金を幕府の税収とした。1760年からの27年間は、幕府は田沼時代と呼ばれ、近代化政策で町人文化が発展した。
戦いもなく、豊かになり、京都、大阪、江戸の3大都市では徳川時代で最も文化が花咲いた時代であった。上田秋成は大阪で小説を書き、伊藤若冲や円山応挙などが京都で画家として活躍し、蕪村も俳句とともに陶淵明の世界を池大雅とともに絵画にした。江戸では、平賀源内や狂歌で知られる大田南畝、黄表紙作家の山東京伝などが活躍した。
芥川龍之介は「蕪村も一朝一夕に蕪村になった訣ではありますまい。わたしはその精進の跡をはっきり知りたいと思っています。」蕪村は、京都に戻ってから、清朝の画家、沈南蘋の模写をしたり、中国の王維の世界に憧れ、明の絵画に学び、俗世界からの離脱の絵を描いた。晩年にはそれから離れ、日本的な絵画に発展していった。そして、俳句と絵を合体させた俳画を作り出した。
1771年大雅と蕪村の合作、十便十宣図ができた。当時の京都の画家の名前に、応挙、若冲、大雅、蕪村がある。18世紀の京都には多くの画家や、俳人や、小説家などの集まる人々の文化サークルがあった。そこに、中国文化の影響が見られる。黄檗宗の僧の持ち込んだ煎茶を飲み、中国の小説を読み、そして絵師は中国の絵画を学んだ。1731年徳川吉宗は絵画を好み、その招へいに応じて、中国人画家の沈南蘋が長崎を訪れ、1733年まで滞在した。そしてその写実的画風が日本人画家に大きな影響を与え、蕪村だけでなく、円山応挙、伊藤若冲、司馬江漢などもその画風を学び取り入れた。
南蘋を牡丹の客や福西寺
黄檗宗の福西寺に、中国の花、牡丹の咲く時に、中国浙江省生まれの中国人画家、南蘋を招く情景の俳句を蕪村は残している。黄檗宗は江戸時代に中国の禅宗の一派で、明朝の滅亡とともに中国から逃れ、日本に渡った禅宗の一派で、太鼓や中国楽器、銅鑼の音を境内に響かせ、中国語の読経で寺の中は満たされていた。
京都に定住してから、百川の下で、山水人物画や俳画を習い、沈南蘋の精密花鳥画を模写し、次第に絵画の技術を身につけ、晩年に蕪村独自の画風を確立する。明画風の作品から、日本的な蕪村独自の絵に発展させていく。
筆濯ぐ応挙が鉢に氷哉
円山応挙と親しかった蕪村は、応挙の制作の場を描いた。応挙の犬の絵、蟹や猫の絵に蕪村の句の合作作品も見られる。応挙の登場で京都中は新しい技法を身につけた写生を重視する応挙の絵画が席巻し、朝廷もこれを重用した。18世紀の京都文化、京都の絵師たちはその後も影響を残している。蕪村も子犬を描いた。円山応挙は写生を重視して、丸々とした子犬のふわふわした毛が特徴の子犬を残し、応挙の弟子長沢蘆雪の描く子犬は芦雪犬と呼ばれまん丸な体の生後間もない紀州犬をえがいて、今でも人気がある。
月天心貧しき町を通りけり
「月天心に到る処、風水面に来る時。一般の清意の味わひ、料り得たり人の知ること少なるを」澄んだ月が天空に登る。風邪は水面を吹く。この清々しい気持ちを知る人は少ない。中国の「古文真宝」の「清夜吟」のなかの邵康節の漢詩の世界である。蕪村は唐の詩人王維とともに、古文真宝から多くの漢詩を学び、その思想に共鳴し、俳句にした。
そして上田秋成と俳人几董を通して親しくしていた。蕪村の死にあたり、秋成はこの漢詩、東風の世界を共有する友を悼み、句を送った。
かな書きの 詩人西せり 東風吹きて 上田秋成
