2019/12/31

切支丹とアジアの海 

神か天皇か将軍か、誰が支配者になるかの争いが、16世紀の日本で起きた。

われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、
色赤きびいどろを、匂い鋭きあんじゃべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。


いざさらばわれらに賜え、幻惑の伴天連尊者、
百年を刹那に縮め、血の磔脊に死すとも
惜しからじ、願うは極秘、かの奇しき紅の夢、
善主麿、今日を折に身も霊も薫り焦がるる。

                    邪宗門秘曲     北原白秋


 15世紀、世界の文明の中で最も進んでいたのが中国の明王朝で、人口は1億人を超えていた。明王朝は、技術も文化も優れていた。そして巨大な船舶を連ねた大艦隊を鄭和が率いて、南シナ海、ベンガル湾を通り、インド洋からアフリカまで 航海した。しかし明王朝は、強大な官僚体制と極端な保守主義により、その後海外には目を向けず、国内で閉塞していった。彼らの考えは、軍事力が必要になるのは野蛮人が攻撃してくる恐れがあるときと、内乱を収める時だけだとした。そして官僚たちは軍を嫌い、また商人を嫌い、私的な蓄財を嫌った。

 一方、当時の西欧には統一ヨーロッパはというものはなく、小さな王国や公国、領主国家、都市国家が乱立していた、スペイン、フランス、イギリスは君主国家の萌芽期であった。15世紀、そのヨーロッパの西の辺境の人口100数10万の小国のポルトガルが大航海時代を切り開いた。まず対岸のアフリカに拠点を築いた。やがて、アフリカ大陸西岸を南下し、バスコダガマが1497年アフリカの南端希望峰からインドのカリカットにたどり着いた。そして次第に、インド洋の要所に要塞を築き、ポルトガルの独占的交易の海にしようとした。インドのゴア、を占領し、マラッカを支配し、インド洋の海上帝国を作り上げた。
 その当時インドには、ムガル帝国を中心に多くの強国が存在した。それにもかかわらず、インドの王国がポルトガルの海上覇権をなぜ許したのか、これは当時インドの帝国にとって、海上の貿易は帝国にとって、商人の問題であり、王の威信とは何らか関係のないと考えていた。

 
 宗教的使命感と物質的利益を求め、集中的に国力を集中したポルトガルはやがてインド洋から南シナ海、東シナ海へ進出した。この海は15世紀、明の海禁政策をによって、琉球王国の船、倭寇と呼ばれる日本の海賊船の活躍の舞台だった。その後ポルトガルが南シナ海、東シナ海の支配者となる。当時ポルトガル国王はローマ教皇庁から、新領地住民のキリスト教徒化、カトリック教の布教を義務ずけられていた。そして、イエズス会がポルトガル植民地の宗教的指導権を握った。

 イグナチウス ロヨラによって創設されたイエズス会は、伝道活動を重視し、人間は神の望むことをこの世に実現する存在であり、あらゆる人々の民族に神の国をつくる。この使命に燃えて世界の各地に会の指導者を育て、派遣した。1529年スペインとポルトガルの間で世界領土を2国で分割支配するサラゴサ条約が結ばれ、アジアはポルトガル勢力圏とされた。

 フランシスコ ザビエルは最初、インドに向かい住民の教化を始めた。しかし、インドや東南アジアでの布教活動に苦闘していた時、薩摩から来ていた日本人に会い、彼とともに1549年8月15日フランシスコ ザビエルは鹿児島につき日本での布教活動の第一歩となった。日本で布教を始めた頃、日本の人々は、キリスト教は異端、あるいは邪宗というより初めは仏教の一派と思い、その教えをきいていた。

 永禄12年(1569年)4月3日織田信長はフロイスと会い、その後朱印状で宣教師が信長の領国に滞在することを認めた。信長は宣教師を厚遇した。時代の創造者としての信長の視線は時代常識を超えていた。信長の新しい日本は、国内だけではなく国際社会の文物や情報を取り入れ、異国の来朝を歓迎し、世界の中の日本にするいう枠組みで捉えていた。

 緋色の外套を身につけ、ビロードの帽子をかぶり、コルトヴァの皮革、日時計や砂時計など南蛮渡来の異国の品々を愛好した。信長は神仏や迷信を信じなかっった。酒は飲まず、食を節制し、合理的で、徹底した行動の人である信長はやがて京を制圧し、将軍義昭を追放した。そしてキリシタン大名高山右近や内藤ジョアンなどにより、京の街にキリスト教の教会が建てられた。

 本能寺の変で信長が、暗殺され、その後秀吉は天下を支配した。当時秀吉を含め、戦国武士達の世界観は、神は仏の化身でありこの神仏への信仰と、正直な行いにより、神明の加護があり天道に見放されることはない、この天の道が世界を決めるというものであった。そして、信長同様キリスト教の布教は許し、臣下にも多くのキリシタン大名を抱えていた。

 秀吉は、天正25年(1587年)九州の島津氏制圧の帰りに、九州の筑前でキリスト教擁護から一転して、禁教令、バテレン追放令を突然を出した。この時九州はキリスト教がかなり浸透し、力を持ち始めた、これを放置する危険を秀吉は実感した。
 第一条では、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、はなはだ似て然るべからざる候事。第二条では、知行を受けた秀吉の家臣が、領民をキリシタンにして寺社を破壊することを禁じ、第三条では、司祭らが20日以内に日本を待機すべきことを告げ、第四条でポルトガル船が来航して交易することは一向構わぬとし、第五条は、仏法の妨げをせぬならば、商人以下、キリシタン国からの渡来は自由とするとした。
 

 
 1588年スペインは英国、オランダ連合に海戦で敗北。世界の覇権国は南蛮人(スペイン、ポルトガル)から紅毛人(オランダ、イギリス)に変わりつつあった。

  ヨーロッパの君主国家と同じように、秀吉は政権を握ると、フイリッピンではなく朝鮮半島に軍を送る。しかしすぐに撤退し、その後徳川家康が政権を握る。徳川政権はヨーロッパ諸国とは異なる道、しだいに国外には関心を向けず、国内の統治に専念し、キリスト教は禁教策で排除し、海外との貿易も長崎のみとする政策をとった。
 はじめは家康、秀忠ともにキリスト教をうけ入れ難いと思いつつも、貿易は促進したい考えであったためキリスト教の布教を認めた。
 家康は御朱印船という幕府認可の貿易船が東南アジアで貿易することを認め、江戸時代初期から鎖国するまで10万人以上の海外に出て、日本人町をつくった。シャムのアユタヤの日本人町以外にもプノンペンや、マニラの近郊にも日本人は定住していた。しかし、徳川政権は、1614年には「みだりに邪法を弘めて正宗を惑わし、もって城内の政号を改めて己が有となさんと欲す」とした、キリシタンの禁教令を出した。
 イエズス会のキリスト教徒は、邪宗を信ずる民族をキリスト教徒すなわち真の人間にすることであると信じ、世界に宗教戦士を送り出し、そして日本にたどり着き、30万人から40万人の信者を獲得していた。
 さらに、南方の航海に新型の船を造り、多くの日本人は、アジアで貿易を行っていたが、1936年には、遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人の海外航海が禁止され、鎖国した。

 その後世界はヨーロッパの国々が支配し、インド洋から太平洋にかけても彼らの海になった。覇権国はポルトガル、スペイン、オランダからイギリス、アメリカと変化した。日本は260年後の幕末、キリスト教の布教ではない、アメリカの黒船、ペリー艦隊という近代化した国家、西欧と再び対面することになる。