2019/02/13

上田秋成 雨月物語と春雨物語


「私はせつない生活をしていた期間にこの雨月物語をよみました。夢応の鯉魚は、三井寺の興義といふ鯉の絵のうまい僧の、ひととせ大病にかかって、その魂魄が金色の鯉となって琵琶湖を心ゆくまで逍遥した、といふ話なのですが、私は之をよんで、魚になりたいと思ひました。」
 太宰治は中国の白話小説をもとにした「夢応の鯉魚」をリメイクした作品「魚服記」を発表した。

 羅子は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、
紫えんは源語を著し、而して一旦悪趣に堕つる者、
蓋し業を為すことの迫る所耳

「羅漢中は水滸伝を著したために、子孫三代にわたり啞の子が生まれ、紫式部は源氏物語を書いて、一度は地獄に落ちたが、それは思うに、彼らがありもしない嘘の物語を書いて、業の報いを受けた。
 明和5年3月雨晴れて、月おぼろの晩春の夜明かり窓の下でこの書が編み上がり、これを梓氏に与える。題して雨月物語と言う」の序文で始まる雨月物語は1776年(安永5年)上田秋成43才の時に出版された。
 雨月物語は、白峰、菊花の契り、浅茅が宿、夢応の鯉魚、仏法僧、吉備津の釜、蛇性の婬、青頭巾、貧福論の9編からなる怪奇小説で、、個人の心のうちにある感情、思いのくさぐさをその奇抜な内容に託した物語であった。

 「白峰」では崇徳院の怨霊が西行のいさめにも関わらず、王道の倫理を押しのけて、悔しい想い、怨念を描き出した。
 「菊花の契り」は母と二人で暮らす左門がある日行きずりの武士を看病し、兄弟の契りを結ぶ。病気が回復した武士は出雲の軍学者宗右衛門で9月9日には戻ってくると約束し故郷に帰る、そこで監禁され、約束が果たせなくなる。その約束を果たすためには幽霊になっていくしかないと自刃した話。のちに走れメロスの友の信義の江戸時代版とも言える。「浅茅が宿」は夫の約束を信じて待ち続けた宮木は、すでに亡くなり、荒れ果てた我が家に住んでいたのは、宮木の霊、幻だった。
 風に乗って旅する宗右衛門の霊魂や浅茅が宿で夫の勝四郎の帰りを7年待つうちに窮死した宮木の霊魂、そして崇徳院の怨霊、これらは、希望や絶望あるいは怨みを欲望を持った身体が消えた後、実体のない霊がその死者の気持ちを実現する物語である。

  この雨月物語は、後の日本の小説家に大きな影響を与える短編小説集で江戸時代読本の代表作となる。

 上田秋成は1734年(享保19年)生まれ、4才の時、大阪堂島の紙油商上田家の養子となる。懐徳堂という私塾で学び、33才にして、「諸道聞聴耳世間猿」と「世間妾形気」を著す。
 国学を学ぶも、38才の時火災で家を消失、それを期に儒医に医学を学び、42才になり、大阪で医業を始める。そして43才の時、雨月物語を世に送る。

 この新しい小説、中世の仏教的あるいは、近世の儒教の勧善懲悪から独立した物語が生まれた背景には、江戸時代の文化の変化があった。
  黄檗宗は禅宗の一派で、明の末期清の政権に迫害され17世紀日本に渡り、特に徳川綱吉の時代、柳沢吉保が彼らを、厚遇し、各地に寺院をたて、禅宗の寺院とした。この時の政策ブレーンの荻生徂徠が岡島冠山を迎えて、中国語を習い、古文辞学を打ち立てた。これが文学芸術と政治を切り離し、さらに、岡嶋冠山が中国の俗文学を数多く翻訳し、中国俗文学を日本にもたらした。禅宗の黄檗派はまさに明の文化そのものであり、江戸時代の仏教に大きな影響を与えた。

 18世紀の中頃、売茶翁という一人の僧が京都で文化の中心に存在していた。売茶翁は17世紀、九州肥前に生まれ、僧名は月海と言う。月海は明の滅亡の時、日本に亡命した僧侶たちの寺院、黄檗山万福寺などで修行する。50才頃から京都に出た。黄檗僧が江戸時代の日本に新しい飲み物としての煎茶を持ちこんだ。
 この煎茶は明の文化の象徴であり、この売茶翁の煎茶サロンで、京都の文人が集まりチャイナ スクールを作り、中国の絵画や文学や陶淵明などの生き方を学ぶ場所となった。 与謝蕪村、池大雅、上田秋成はこの中国文化の影響を受け、江戸時代の京都、上方の文芸を作り出した。その後、文化の中心は江戸に移り、京都文化がなお輝きを保っていた最後の時期に当たる。

 秋成53才の時、国学者として国粋的な復古主義の本居宣長を批判、宣長の日の神、天照大神の生まれたわが国は、万邦を照らしている国であり、世界中でこんな優れた国は無いと言ったのに対し、世界地図を見れば、日本が世界の中心といっても誰も納得しないであろうといって論争になる。

ひが事をいふてなりとも弟子ほしや 古事記伝兵衞とひとはいふとも と宣長を揶揄し、

 敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花 と宣長が詠んだのに対して

 敷島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花 と茶化した。

 国学は和歌を通して、歌の心を、中世的秘伝の口授を否定し、革新し、こころの表現としての歌学を唱えた契沖に始まる。それと同時に仏心や漢意に影響されない、それ以前の日本の道を明らかにしようとするやまとごころの考え方を本居宣長が主張した。この歌学と古道の二つのみちを最初に合流させたのが賀茂真淵で、これが本居宣長さらには平田篤胤に受け継がれる。
 この国学を賀茂真淵から学んだ上田秋成は、芸術主義、文人主義者的活動の傾向が強く、国粋主義的、日本主義の本居宣長と対立することになる。その後、本居宣長の説より古道のイデオロギーをさらに強め再構築した平田篤胤が、幕末の天皇親政の復古主義、攘夷論を支えることになる。

 秋成は55才で医業をやめて、京都、奈良、大阪を転居しつつ随筆山霧記や和歌の紀行文、歌文集つづらぶみ(藤冊子)を著す。60才頃、太田南畝は大阪で役人をつとめ、上田秋成と会い、意気投合している様子を「胆大小心録」に描いている。
秋成は、晩年に短編小説集「春雨物語」を書き残した。その中で血かたびら、二世の縁、目ひとつの神、死首の咲顔 など人の情を寓話に託した物語を残した。
 その人間観は、完全な悪人や善人は登場しない、人は皆過失をおかしうる、そして、変わりうると考えた。最後の樊噲 は 雨月物語の青頭巾の主題と同じく「心放せば妖魔となり、収むる則は仏果を得る」と荒くれが改心し仏僧になる物がたりであった。

 江戸時代の文学の世界にたどり着くまでに、言葉の壁と共に江戸時代の人々が世界をどう見ていたかを知るため、大きな歴史変化の断層を乗り越える必要がある。ひとつは戦後民主主義の世界観で、第二次世界大戦の敗北による民主主義と人権思想の定着と、家制度と天皇制国家主義の否定。もう一つの層は、明治維新による儒教を否定し仏教の扱いを変えた断層で、その二層の奥に江戸時代の精神世界が広がる。仏教の輪廻転生と儒教の仁義忠孝の世界で、妖怪の住む世界である。
 言葉の壁と文化の断層を乗り越えた時、そこには新鮮な文学の世界が広がっていた。それらの作品はのちに、多くの作家に影響を及ぼした。