2013/01/28

日本の面影 小泉 八雲






 宍道湖の夕日は美しい。

 日本で見る落日は、熱帯で見るそれとは違う.日本の陽光は夢のように穏やかで、そのなかには極彩色は見られない。はるか彼方の湖水の一番深い辺りは、言葉にできないほどやさしいスミレ色に染まり、松林の影に覆われる小島のシルエットが、その柔らかで甘美な色彩の海に浮かんでいるように見える。

 ラフカディオ ハーンは1890年(明治23年)アメリカから横浜につき、汽車に乗り神戸を通り、そこから4日かけて松江に到着した。
 松江の師範学校の英語教師として赴任。日本人の武家の娘、せつと結婚、翌年には武家屋敷に居を構え、明治の近代化によって消えゆく日本の面影を書き残した。
 この松江時代の「知られぬ日本の面影」は日本で出版した最初の作品集で 1894年(明治27年)ボストンとニューヨークで同時に発売された。日本の江戸時代から続く庶民の心の内の生活、日本人の宗教、思考様式、民間信仰、とりわけ仏教から派生した考え方めずらしい迷信をえがいた。そこには身分制度の元に貧困にあえぐ農民や庶民ではない、美徳を実践し、汚れない生活、信仰の儀礼において、キリスト教徒を遥かにしのいている日本人の姿を見出した。

 遊ぶ子供たちの童歌、柏手の音、楽しげな風の吹く橋の上の下駄の音。あるいは、日本海に沿って人力車で旅した時の、日本の自然の美しさを驚嘆の思いで描いている。
 「水田は小さな青田が、蛇のように曲がりくねったあぜにくぎられながら、いくつもいくつも並んで続いている。左手に青くうねる海の波、右手には青田の緑の波がひたすら続く、どの小さな漁村でも盆踊りがあり、盆明けにはいっせいに精霊流しの船が河にながされる。」

 
 お気に入りの日本庭園では、3つの日本庭園の作庭と蓮池の美しさ、庭の生き物 蛙、蛍、蝉,蝶、蜻蛉そして多くの鳥たちに囲まれた生活を描き、草も木も,また岩も石も、まさに一切涅槃に入るべしを奉じている宗教が生み出した芸術であると語っている。

 1904年(明治37年)には地方に伝わる古くからの布団の話、子捨ての伝説を聞き、これをもとにした文学作品集「怪談」を世に出した。「雪女」では、固く口止めされていた話をした途端、寒い雪の中、美しい女の姿が消えさるはかない物語りであり、仏教世界と平家物語を素材に描いた有名な「耳なし芳一」などがある。

 小泉八雲最後の文化人類学知見を集大成した「神国日本解明の一試論」は
彼の死後1ヶ月たった1904年(明治37年)10月に出版された。

 ハーンを魅了した日本人、どこにも、誰にも、見られる上品さ、微笑を見せながらもの静かしている群集、辛抱強く、働いているさま、惨めさも、またこせこせしたところも見られない姿。これを支える心性を文化人類学的方法で分析した。

 「神道は祖先崇拝から生まれる。死者に対する崇拝ならびに生者に対する義務感、両親にささげる子供の愛情,子供に対する親の愛情、夫婦相互の義務,養子、養女が家族全体にはたす義務,戸主に対する使用人の義務、扶養家族に対する一家の主のつとめ。日本の倫理体系はこの家の宗教から出ている。
 まだなお遠い昔の祭祀は全国土に残り、家族の掟、共同の生活地区の掟、江戸時代の旧藩の掟などで、これらは人々の生活の行動を支配している。」

 
 「自由競争のない社会が、あらゆる職業に見られ,人力車は力強い若者は決して,年老いた車夫を追いぬいたりしないし、建築の請負い,庭師の仕事あらゆる分野において仲間で組織を作り,単に個人だけの利益のためにおこなわれる競争を禁じている。あらゆる職種にわたってもうけられる不文律は特別の許可なくして、仲間を出し抜こうとしてはならないというものである。」

 神道の源流にさかのぼり分析し、神道は家の宗教,地域の氏神としての宗教で、さらに国家としての宗教があり、この神道の倫理、慣習への無条件な尊守、世間の圧力の下に人々は生活を送っていること。
 またその後に大陸より伝流した仏教の極楽浄土,焦熱と氷寒地獄や輪廻転成の思想や、仏教芸術がもたらされ、より世界をうまく解釈し,神道と共存した。これが日本文化の古層であり底流として庶民の生活の規範となっている。
 
 日本を理解し、世界に紹介したハーンは54才でこの世を去り、日本で今でも読み継がれている多くの文学作品、紀行文、論評を遺している。

2013/01/14

都市の思想


 Nature does not know how beautiful the sunset is.
自然は夕日のいかに美しいかを知らない。         ルイス カーン



 20世紀はル コルビジェが「偉大な時代がはじまった。」「自動車は走るための機械である。飛行機は、飛ぶための機械である。住居は住むための機械である。」といって、この時代精神を表現し、モダニズム理論を先導した。そして工業技術が発展し,世界の各地で都市に人々は集まり、建築は造形芸術として多大な影響力をもつようになった。
 ニューヨークなどの大都市にLess is more.の思想で、コンクリートとガラスの巨大建築を林立させたミースらは革新的技術を用いた時代の先端をいく巨大ビルを設計し、都市設計の中心となった。そして、東京など世界の多くの都市がよく似た高層ビルを林立させた。

 一方、ロシアの都市モスクワ市は典型的な旧い時代の歴史的建物を数多く残している。その中心にある要塞跡のクレムリンの赤の広場からは、聖ワシリー聖堂などの多くのロシア正教会の建物やスパースカヤ塔などの多くの尖塔がみられ、さらに国立クレムリン宮殿や武器庫、レーニン廟も要塞のなかに建てられています。これらの建物はかつて巨大な建物は宗教のための教会であり、権力者の要塞であり、宮殿であった歴史を物語っている。

  ソ連時代になると1947年、スターリンが世界の模範的となる首都をつくる計画を構想し,モスクワの7つの丘に7つの巨大建築を建て、地下鉄をめぐらせ,住居を造り新たな都市建設を試みた。建築はイデオロギー的で政治的な問題だとして、銀行の建物に多くみられたコリント式円柱を用い、クレムリンの城壁を借用してモスクワ大学など、壮大、巨大な建造物を建てた。その建築哲学は科学的、社会的文脈で語られた。
 モスクワ大学は高さ235mで尖塔の先には稲穂と星がつけられ、ロシアの伝統様式と古典様式に従って建てられたもので、他のホテルやアパートなどあわせて7つの巨大な建造物はスターリン様式と呼ばれ共通の構造を持っている。



 これらの宗教的建築、近代主義建築や社会主義建築と対極の思想のもとに建てられ建築が20世紀にあった。

 リチャードギア主演の アメリカ映画「心のままに 」は1983年の作品で、舞台となったのがソーク生物学研究所研究棟。明るい中庭から、光り輝く太平洋が広がり、まばゆいばかりのカルフォルニアの陽光がコンクリートの壁面にあたり、晴れた日には陽に映える床に光りと影の美しい模様を描き出す。これがルイス カーンを一躍有名にした建物で、その後インド経営大学の煉瓦つくりのアーチを用いた建築を設計し、キンベル美術館を建て、やがてバングラディシュの首都ダッカの広大な敷地に国会議事堂,最高裁判所、宿舎、学校、スタジアム、大使館、住宅、市場を建てる都市計画がかれの構想のもとに実現された。

 スターリンはモスクワの都市計画をたて,最初はルコルビジェにも依頼し,それは実現されることなく終わり、また カーンによる西パキスタンのイスラマバードの都市計画も実現しなかった。壮大な都市計画が現実のものとなったのはバングラディッシュの首都ダッカの国会議事堂を中心とする都市計画で、現在もその首都の建築群は20世紀を代表する建築として評価されている。
 これらの建物は洪水から守れるように池や湖をまわりに造りそれを盛り土とし、国会議事堂の巨大な建物の入り口にモスクを配置し、構造とは光によるデザインのことであるとして、光りを巧みに制御し光の陰影によって空間に表情を与え、機能的に美しく建設した。そしてこの都市計画全体を彼の哲学に基づいて建設していった。

 その考えは architecture comes from the making of a room. という建築は内から決まるとする概念から出発し、建築をつくるとは、空間を限定することであり、空間を限定することによって、人間と人間の関係を規定することである。住まいは、ルーム部屋であり、そのまわりにアーキテクチャー建築がある。そしてさらにその外側に、街がつくられ都市とな
る。

A city should be a place

where a little boy walking through its streets can sense what he some day would like to be.

 建築を元初から組み立て、思考し設計した。これは初期の住宅計画、フィラデルフィア都市計画の時代から個人住宅設計そして新しい首都の建設計画までかわることのない哲学で、 ルイス カーンの作品群は戦後の豊かなアメリカ精神の結晶ともいえる。


2013/01/04

 三島由紀夫 死への誘惑 その1



三島由紀夫と自刃

 三島由紀夫は1972年(昭和47年)1125日、市ヶ谷の自衛隊の駐屯地のバルコニーに立ち、ビラを配り演説をした。
『今こそ我々は生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。我々の愛する歴史と伝統の国日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬやつはいないのか。もしいれば、今からでもともに起ち、ともに死のう。』

 自衛隊員の野次と怒号の中、天皇陛下万歳を三唱して部屋に戻り、森田必勝とともに切腹した。

 三島由紀夫は戦後いち早く、常識を破る芸術至上主義の作家として売り出し、特異な行動する作家として注目された。しかし政治の舞台の常規を逸した行動は人々の理解を超えるものであった。 同じ年の228日には浅間山荘事件で赤軍派が逮捕され、機動隊員など3名の死者を出し、多くの仲間の死亡が明らかにされ過激な政治の季節は終わりをむかえた。

 大正の末期に生まれた三島由紀夫は本名平岡公威、エキセントリックで貴族趣味の病みがちな祖母のもとで,過保護に育てられた。

 戦前1941年(昭和16年)16才で「花ざかりの森」を文芸文化に連載し、平安時代から祖先のそれぞれの時代の異なった物語を洗練された古典的文体で描き、恐怖と憧れの心理を繊細な感受性で表現し当時の日本浪漫派に絶賛される。

 戦後1949年(昭和24年)「仮面の告白」で当時の日本社会の常識を打ち破り、精神分析的手法で自己分析し危険な美を告白し流行作家としてデビュウした。 そして,「ともすると私の心が死と夜と血潮へと向かってゆくのをさまたげることはできなかった。」と告白している。この暗闇の世界から、太陽の下での物語「潮騒」や、実在する事件を題材とした「金閣寺」などで広く人気を集め,映画化され流行作家になっていった。小説に飽き足らず肉体を改造し、映画に出演し、演劇を脚本し、映画もつくり小説以外のさまざまな芸術の世界で話題を巻き起こし、奇抜で危険な作家を演じつつあった。その後、行動はしだいに政治にも及ぶこととなった。

 1959年(昭和34年)鏡子の家で、右翼思想の人物を登場させ、自分が右翼集団に参加しているのは思想ではなく、死の陶酔だと想像するものとに触れたいという個人的な欲望からだと告白している。

 翌年1960年(昭和35年)に短編「憂国」を執筆。2 .26事件を題材に死を至福の物語として切腹の場面を延々と描写した。これをもとに5年後に映画化し、最初にフランスで公開された。この作品のなかの残虐描写と天皇崇拝、死への願望が描かれ、時代とともに政治化してゆくその後の三島由紀夫の行動、美学の原点となっている。

 思想的に天皇制擁護と愛国心を表に出した作品は1966年(昭和41年 )の「英霊の声」で『戦後日本の精神的退廃の原因は天皇の人間宣言であり、神風特攻隊の死は無意味になり、彼らの英霊が嘆き悲しむ。』として独自の天皇制復帰論を書き上げた。

 最後の大作となる「豊穣の海」では、第一部 春の雪、第二部 奔馬、第三部
暁の寺、第四部 天人五衰の4部構成になっていて、明治から現代までの六十年間の日本を舞台に各編の主人公が輪廻転生し登場する。この最後の長編作品の物語は美しい文体と三島的精神主義とともにやはり主人公の最後や神風連の描写は殉教する若者、切腹の美学があった。初期の作品から恐怖は憧れであり,美は危険な美、醜悪な美もあり、生の充実は死にあるとした思想が底流にあった。

 三島由紀夫にとって、死へのあこがれ、至上の美としての死があり、社会のためには天皇崇拝が必要であり、さらに自分の物語の実現のためには相手を必要とした。その相手が共産主義で政治行動の規範「反革命宣言」を発表し共産主義に反対し日本の美の伝統を体現すると宣言した。
 この時代の現実に即さない宣言は、幼い時に満たされなかった心の中の願望なのか、盾の会をつくり、自衛隊に入隊し、訓練を受け、日本は左翼に乗っ取られ危うくなる、これに対して我々は生命をかけ楯となり日本を守る覚悟を語り、全共闘に対話をいどみ、最後には切腹を実行にうつし自らの物語を完結させた。




 参考 ジェニフェール ルシュール著 三島 由紀夫