2021/02/12

山本栄蔵 良寛という生き方


 霞たつ ながき春日に 飯乞ふと 里にいゆけば 里子ども いまは春べと

うち群れて み寺の門に 手毬つく 飯は乞はずて そが中に うちも交りぬ

その中に 一二三四五六七 汝はうたひ 吾はつき 吾はうたひ 汝はつき


つきてうたひて 霞たつ 永き春日を 暮らしつるかも 

                                    手毬つき



 江戸時代徳川政権は古くからの共同体の上に、支配イデオロギーとしての儒教を用いた。

そして幕府の政権の下に、檀家制度で仏教寺院を支配した。その時代には、今の時代と全く別の、西欧の思想に影響される前、近代以前の、低地アジア、大陸に起源を持つ、仏教、儒教、老荘思想の世界があった。


 良寛は1758年(宝暦8年)越後の出雲崎に生まれる。その地の名主、廻船問屋山本新左衛門の惣領で、少年時代の名は山本栄蔵、豊かな生活に恵まれる。出雲崎は日本海の各地を行き来して、瀬戸内から上方に物資を運ぶ北前船の寄港地であり、佐渡金山の陸上げ港として栄えていた。7才になり、漢学塾に通い、論語、四書五経を学び、文選、唐詩選を好んで読んだ。


 家督を弟の由之に譲り、1780年22才の時、備中の曹洞宗の修行道場である円通寺に出家した。江戸時代、仏教のなかの禅宗は、臨済宗と曹洞宗そして江戸時代に新たに明から渡来した隠元の黄檗宗があった。この円通寺は、道元の曹洞宗でありながら、当時新興の隠元の影響を受け、坐禅とともに木魚をを叩き、鉦を鳴らしながら南無阿弥陀仏を唱える、自力と他力の混合した教義の寺であった。

 

 少年時代は、経済が栄えた田沼時代で、豊かな生活を送った。円通寺に出家した頃には天明の大飢饉に日本中が見舞われ、その後、寛政の改革の時代になり人々は倹約をせまられた。越後では浄土宗を国教化する動きがあり、その中で良寛は故郷に戻り、道元の禅宗を信奉し続け、やがて隠者、世捨て人となって、1796年(寛政8年)故郷越後の国上山、五合庵の古い庵に住んだ。


少年 父を捨てて他国に走り 

辛苦 虎を描いて 猫にもならず

人有りて若し箇中の意を問はば

只だ是れ従来の栄蔵生


 この住まいは真言宗国上寺の万元上人の隠居屋として建てられた古い庵であった。杉林の中の小さな草庵で、夏は涼しく、冬は雪に埋まる。この住まいを借りて一人住まい、里に降りて托鉢に回る。この托鉢に大勢の子供たちが一緒になって遊ぶ。寺の住職でない僧侶として布施行を20年に渡り、この地で行った。そして詩歌や書は江戸や各地の国学者や儒者の目にとまり、多くの文化人がその草庵を尋ねるようになった。


生涯身を立つるに懶く

騰騰天真に任す

嚢中三升の米

炉辺一束の薪

誰か問はん迷悟の跡

何ぞ知らん名利の塵

夜雨草庵の裏

双脚等閑に伸ばす

 

 1810年(文化7年)生家橘屋がつぶれる。


無能の生涯作す所なく

国上山嶺に此身を託す

他日交情如し相問わば

山田の僧都是れ同参


1812年(文化9年)詩集「草堂州貫華」歌集「ふるさと」を編集。


 この宮のもりの木下に 子どもらと 遊ぶ春日に なりにけらしも


 

 1816年(文化13年)59才の時、国上山の麓の乙子神社の草庵に移る。ここは村里に近く、子供たちがよく遊びにきていた。その神社の中の建物で、和歌や漢詩をつくり、書を書いた。 その評判を聞いて、長岡藩主 牧野 忠精がわざわざ乙子草庵を訪れて、長岡での仕官をすすめるも、「たくほどに風がもてくる落葉かな」の句を示し、ひとりで草庵暮らしを続けた。


 そして69才になり、島崎の木村家に移り、貞心にであう。二人の間の歌集「はちすの露」を貞心が編集した。ここには良寛との出会い、臨終を迎えるまでの二人の唱和の歌60首が収められている。


君にかく あい見ることの 嬉しさも まだ覚めやらぬ 夢かとぞ思ふ  貞心尼

夢の世に かつまどろみて 夢をまた 語るも夢も それがまにまに   良寛


やがて、この住まいは病身を介護してもらう場となり、晩年を過ごした。


 良寛のうたの新しさは、その悲哀あるいは歓びの表現が、単なる花鳥風月を超え、あるいは生死を超えた禅の悟りや老荘思想からうまれたうたではあるものの、多くの一般の作とは異なる響きを持っている。


 

 霞立つ 永き春日に 子どもらと 手毬つきつつ この日暮らしつ     春


 風は清し 月はさやけし いざともに をどり明かさむ 老いの名残に   夏

 

 秋もやや うら寂しくぞ なりにける 小笹に雨の 注ぐを聞けば     秋


 淡雪の 中に立てたる 三千大千世界 またその中に 泡雪ぞ降る     冬




 幼い頃から漢文を学び、四書五経の思想を身につけ、その後禅に目覚めた。それから後、長い托鉢生活の中から生まれた歌はもはや儒教でもない、禅の教えでもない、それを超えた日本の春夏秋冬、自然の中の生活から生まれた調べとなり、橘曙覧と共鳴する無心で素直なうたになる。そして晩年の貞心に看取られた病床のリアリズムは時代を超えた近代詩に近いものになる。


 

ぬばたまの 夜はすがらに くそまり明かし あからひく

昼は厠に 走りあへなくに 

この夜らの いつか明けなむ この夜らの 明けはなれなば

をみな来て 尿をあらはむ こいまろび 明かしかねけり

ながきこの夜を

                               「眠れぬ夜」


 うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ を最後に、74才でこの世を去る。