2015/06/07

古田織部の忠誠と千利休の謀反


 美濃の国の輪中地帯は、豪雨に見舞われると水は堤防を超えて、田畑や住居にまで浸水する。それが稲作にとっては、豊かな実りをもたらすこととなる。
 西から揖斐川、長良川、木曽川の3つの河川に囲まれ,さらに西方には関ヶ原,長良川の中流には岐阜城がある。この濃尾平野の輪中地帯の北方、現在の本巣市に古田織部は生まれた。
 1543年(天文12年)古田家の家督を継ぎ山口城主として、戦国領主となる。1567年信長の美濃進駐のとき,織田家の家臣となり,播磨攻めなど各地を転戦し,武将として活躍する。

 一方、堺の商人の子として1522年(大永2年)に生まれた利休は堺を信長が直轄地して支配したときに,茶頭として雇われる。
  利休は茶の湯をとおして、新しい日本文化をつくり出すことになる。
 利休の美意識は自然に、さりげなく、素朴なものをよいとする。無駄を削ぎ、華美を排した、わびの空間、わびの思想であった。茶室を三畳や二畳半という狭小な空間にし、露地を通路ではなく,茶の道への空間とし、さらに茶の湯は禅なりとして、わび茶を完成させた。唐の品、宋の画などの中国文化を否定し、しだいに日本独自の茶道具や装飾品を尊重していくことになる。
 
 1582年(天正10年)本能寺の変で信長亡き後、秀吉につかえる。天下人となった秀吉の生活を利休の美意識によって助言する文化人になった。
 しだいにその地位は比類のないものとなり 『ないないの儀は利休。公儀の事は秀長』といわれるほどの側近中の側近として秀吉とともに日本を動かすことになった。 
 そして、文化の指南役にとどまらず政治に関しても多大な影響力を持ち、九州平定の際には、秀吉の手紙とともに利休の手紙も副書として出されていた。

 小田原攻めには,秀吉とともに従軍し、織部もまた関東に軍をすすめた。 この頃から、「赤は雑なる心なり,黒は古き心なり」として利休は黒茶碗を偏愛し、2人の間の美意識に微妙な違いを生じた。
 そして、秀吉の北条攻めのさい、「お耳にあたること申して、その罪に耳鼻をそがれ」と利休の20年来の弟子の山上宗二が秀吉に処罰されている。
 朝鮮出兵を前にして、2人の間には、政における考えもしだいに溝ができ、
1591年(天正19年)秀吉は利休に切腹を命じた。

 この時代、封建的忠誠心、主従の関係は絶対的で決して破ってはいけないものであった。この個人的忠誠心は「御恩に対する奉公」であり、忠臣は主人の非に対しては、命をかけて諫言するしか方法がなかった。利休は諌言し秀吉はこれを受け入れなかったと推測される。


 利休亡き後の茶の湯、茶室、庭園の文化は古田織部が引き継いだ。
 織部の茶の湯は「無一物の道理」といわれる道理、すなわち合理的である仕方が大切であるとした。
 また茶室は利休の2畳半からひろげ、採光様の窓を用い、茶室を草庵から書院に切り替えた。そして,禅的で,抑制的な茶道をより開放的なものにした。 形のいびつな茶器をつくり、この瀬戸(美濃)で焼いたひずみのある茶碗、幾何学模様、ハイフォン グリーンを使った緑の茶碗は「ひょうげもの」の綾部焼きとして有名になった。


 大坂夏の陣の前、織部家の家臣木村宗喜が京都を焼き払う計画を立て、家康の本陣を挟み撃ちにした襲う予定であった。この計画は未遂におわり、織部は1615年(慶長20年)自刃に追い込まれた。
 秀吉の死に際して、実父の古田重定は殉死した。織部は徳川秀忠の茶の指南役となり、関ヶ原の戦いでは石田光成には味方しなかった。しかし古田織部は豊臣家の滅亡をまえにして、父親と同様に秀吉にたいする忠誠心を全うしたのかもしれない。