江戸時代は、漢医すなわち中国医学で、医師は幕府奥医師、大名お抱え医師、町医者にわけられていた。
疝気と疫病が、有名で、腹部に激しいいたみが襲う疝気は、主に,鍼灸治療がなされていた。
疫病は定期的に流行し、漢方薬の治療がなされ、麻疹や痘瘡も流行した。
小石川に40人収容の,養生所がつくられたくらいで入院施設はほとんどなく、各家庭に漢方薬が置き薬としてあった。
この時代の、精神は儒教で、幕府がその1つである朱子学を官学とした。儒学の慈仁を根本とする、儒者であり医師でもある
儒医も多く生まれた。
一方、西洋医学は16世紀の南蛮医学に始まり、長崎の出島にオランダ人医師が常駐し徐々に
国内にも、広まって行った。1827年シーボルトが来日し、長崎に鳴滝塾を開き、西洋医学
教育を始めた。
明治になると、政府は西欧医学による医療の近代化をめざし、東京大学にお雇い外国人医師のベルツを招き、その後、各地に
帝国大学の医学部をつくった。また、地方にも公立病院を建て医学校が併設され西洋医学の教育、普及がはかられ、私立
病院もつくられ、1882年頃全国に626の病院ができた。
1874年に,文部省は医制を公布し、西洋医学基ずく医学教育と医師開業免許制度
、医薬分業や衛生行政制度の確立をはかった。そして、1875年文部省医務局は内務省衛生局に移管された。
これは、コレラなどの伝染病の蔓延と社会的混乱を防ぐためで、地方の公衆衛生委員制度も一度つくられたものの
全廃され、地方衛生は警察に移管された。その翌年、1893年日清戦争がはじまり、富国強兵のための衛生行政になった。
そのころの、一般の人々は、売薬で病気の治療を行っていた。病院や医師とは無縁の生活を送っていた。
その後、上下水道はしだいに完備され、海港検疫体制も整備され、コレラ、ペストなどの防疫体制は海外でも高く評価され、
1926年日本では、コレラは完全に撃退したと、内務省衛生局の国際連盟主催各国衛生技術官交換視察会議報告に記されている。
1930年の日中戦争までは、医療が漢方から、しだいに西欧医学に変換してきた時期といえる。すべての分野で西欧化
し、列強に追いつくことこそ目標になっていた。
このころから、西欧化にむけて、走ってきた日本が西欧資本主義や社会主義に対抗する、東洋の理想を掲げ,超国家主義
が、力を持ち始めた。1931年、昭和6年に日中戦争がはじまり、1932年には、満州国が建国された。
医療は1938年に厚生省が出来て、国営医療を推進した。国民体力法で満20歳未満の国民すべてに、体力検査を行い、
この検査で、体力のないと認定されたものは、1週間の体力向上修練会に参加しなければならなかった。また同時期に
国民優生法も成立した。
1945年、昭和20年、敗戦とともにアメリカをモデルとした、医療体制の改革がはじまり、戦後民主主義の時代となった。
しかし,医療もサムス准将の去った6年後、大学医局体制は残り、公的医療システムも完備せず、医薬分業は幻となり、
医師会主導の医療がはじまった。
1970年代には、大衆化社会となり、高度経済成長で、経済の発展とともに医療器械、薬剤は急速に増え、病院も増えた。
医療システムはこの間、ほとんど変わることはなく,量的に日本全国に医療は充実していった。
そして,1980年代より、医療費抑制の時代になり、パターナリズム医療から、インフォムド コンセントの必要なまたセカンドオピニオンを利用した医療。あるいは、エビデンスに基ずく、診療ガイドラインができ、医師の自由裁量の範囲は狭くなり、アメリカ型の
訴訟社会に似てきています。
2008/01/01
厚生省の公衆衛生路線
20世紀、急性の伝染病の制圧は,近代国家共通の課題で、第一次大戦後は、これに加えて民族衛生という考えが、アメリカやヨーロッパで広がり始めた。日本でも健康であることは国家のためであり、民族のためであると考えが強くなり、統制主義の強まるなかで、厚生省が設立され、予防局、衛生局での公衆衛生行政だけでなく、体力局をつくり、国民の体力の向上をめざした。そして1938年昭和13年に厚生省は内務省から独立した。体力局、衛生局、予防局、社会局、労働局と臨時軍事援護局、それに外局として保険院が設置された。
厚生省にとって、公衆衛生のモデルは、内務省から受け継いだ、家父長的伝統にもとずく、戦前からの伝染病対策が、
主な目的でした。,この目的を達成したのが、戦争中で、当時の医師のほぼ大半は大日本医師会の統制下におかれ、
また,主だった病院も昭和17年1942に設立された、日本医療団に統合された。
戦後も、この発想のもとで、治療よりも予防や検診に重点をおき、国や地方自治体の定めた医療計画にもとずいて,公的
病院や、保健所を中心に医療が提供される形態を理想と考えた。
1945年占領軍の1員としてサムス准将が来日。1952年までの7年間の占領時代,アメリカをモデルに多くの医療改革を断行
している。
アメリカ医学の導入、当時の日本医事新報の記事に、“ペニシリン,ストレプトマイシン等を尖兵として,
光輝燦然たるアメリカ医学が出現した。日本の医学者の新しい任務はアメリカ医学を分解し、
摂取することにある。”と記された。
そして、医薬分業制度を導入し、薬価の差益にたよらない医療技術料を高く評価しようとした。
1940年代アメリカで行われた医療政策をならって,800から1000ベッドの病院を国や州が建設し、
病院の周りにクリニックを配置し、ドクターズ フィーとして医師技術料を評価するというものであった.
これに対して、国内の医師会を中心に反対が強く、一部修正され、法案は出来たものの当時ほとんど実行されなかった。
さらに、警察や区役所がもっていた衛生行政を保険所に移し,機能を拡張した。当時の日本の公衆衛生は中世的であり、
世界から30年遅れている、として以前の衛生警察から、保健婦を中心にした新しいモデル保健所を作り全国にひろめた。
感染症には、DDTや発疹チフスのワクチンを取り寄せ,種痘をおこない、災害時には大量の消毒用クレゾールや
サルファチアゾール,抗生剤を本国から取り寄せ防疫を行った。そして、なつかしい脱脂粉乳を使った給食をはじめ、
子供の栄養失調を改善した。
1981年昭和56年老人保健法案で老人医療費に一部負担をもうけ,それと同時に検診の対象を40歳以上の国民
全員に拡大する処置が盛り込まれた。がん検診もその一部として行われ、そして,平成20年2008年4月からは、
特定健康診査、特定保険指導がはじまります。
健康日本21とともに、厚生省的公衆衛生路線が実行にうつされます。
厚生省にとって、公衆衛生のモデルは、内務省から受け継いだ、家父長的伝統にもとずく、戦前からの伝染病対策が、
主な目的でした。,この目的を達成したのが、戦争中で、当時の医師のほぼ大半は大日本医師会の統制下におかれ、
また,主だった病院も昭和17年1942に設立された、日本医療団に統合された。
戦後も、この発想のもとで、治療よりも予防や検診に重点をおき、国や地方自治体の定めた医療計画にもとずいて,公的
病院や、保健所を中心に医療が提供される形態を理想と考えた。
1945年占領軍の1員としてサムス准将が来日。1952年までの7年間の占領時代,アメリカをモデルに多くの医療改革を断行
している。
アメリカ医学の導入、当時の日本医事新報の記事に、“ペニシリン,ストレプトマイシン等を尖兵として,
光輝燦然たるアメリカ医学が出現した。日本の医学者の新しい任務はアメリカ医学を分解し、
摂取することにある。”と記された。
そして、医薬分業制度を導入し、薬価の差益にたよらない医療技術料を高く評価しようとした。
1940年代アメリカで行われた医療政策をならって,800から1000ベッドの病院を国や州が建設し、
病院の周りにクリニックを配置し、ドクターズ フィーとして医師技術料を評価するというものであった.
これに対して、国内の医師会を中心に反対が強く、一部修正され、法案は出来たものの当時ほとんど実行されなかった。
さらに、警察や区役所がもっていた衛生行政を保険所に移し,機能を拡張した。当時の日本の公衆衛生は中世的であり、
世界から30年遅れている、として以前の衛生警察から、保健婦を中心にした新しいモデル保健所を作り全国にひろめた。
感染症には、DDTや発疹チフスのワクチンを取り寄せ,種痘をおこない、災害時には大量の消毒用クレゾールや
サルファチアゾール,抗生剤を本国から取り寄せ防疫を行った。そして、なつかしい脱脂粉乳を使った給食をはじめ、
子供の栄養失調を改善した。
1981年昭和56年老人保健法案で老人医療費に一部負担をもうけ,それと同時に検診の対象を40歳以上の国民
全員に拡大する処置が盛り込まれた。がん検診もその一部として行われ、そして,平成20年2008年4月からは、
特定健康診査、特定保険指導がはじまります。
健康日本21とともに、厚生省的公衆衛生路線が実行にうつされます。
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