役人の子はにぎにぎをよく覚へ
役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ ( 猪牙とは吉原に行く猪牙船のこと)
江戸時代最も人気のあった文芸は俳句だった。 芭蕉の句は天才的ひらめきによる高踏的境地を詠み、一茶は崇高さとか敬虔な高みを目指すより平易で世俗に近い世界をよんだ。
この時代さらに庶民に人気を呼んだものが川柳で、俳句から季語をなくし、より庶民的、遊戯的な川柳が生まれる。1765年(明和二年)に柄井川柳による俳風柳多留が大流行し、川柳と呼ばれるようになり、現在もこの人気が続いている。
同じように朝廷の伝統を受け継いだ和歌をパロディー化したのが狂歌で、漢詩をパロディー化した狂詩も田沼時代流行し、人々は川柳や狂詩、狂歌で、短い文字の中に権威を笑い偽善を暴いて言葉の遊戯をたのしんだ。
最初狂歌は、上方で流行し、その後1769年(明和6年)には大田南畝(四方赤良)を中心にして、狂歌会というサロンをつくり、江戸で大流行した。狂歌師たちは、宿屋飯盛、朱楽菅江(あっけらかんこう)などの狂名で集まり、武士も町人も、職人も階級に関係なく参加した。この狂歌の仲間に北尾政演(山東京伝)や歌麿がいた。彼らが黄表紙、浮世絵、洒落本の中心で活躍することになる。
世の中は 疝気に頭痛雨に風 花見の幕をはるぞすくなき 大田南畝
いたづらに 過ぐる月日はおもしろし 花見てばかりくらされぬ世は 大田南畝
いたづらに 過ぐる月日はおもほえで 花見てくらす 春ぞすくなき 藤原興風
わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治 大田南畝
わが庵は都のたつみしかぞ住む 世を宇治山と人はいふなり 喜撰法師
大田南畝は1749年(寛延2年)生まれる。下級武士の出身で、子供の頃から漢詩を学ぶ。1767年(宝暦4年)19才の時「寝惚先生文集」を平賀源内の序文で出版する。古文辞派の漢詩を明るいタッチでパロディー化した。その後安政期には戯作をつくり天明期には黄表紙に没頭する。四方山人赤良の名で当世風の新しみをうりにした作品を書いた。
1783年(天明3年)「通詩選笑知」で唐詩選のパロディー狂詩を、そして狂歌をつくり狂歌会の中心となる。狂歌の仲間たちと集まって、和歌の連句と同じように、次々と句をつくり遊んだ。そして、30代前半の若さで天明狂歌の寵児になる。
これが江戸と上方を席巻した狂歌の最盛期であった。
ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里 四方赤良(大田南畝)
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里 藤原利成
徳川時代中期、田沼意次の時代(1767年から1787年)の財政政策で経済は活発化し、豊かな庶民を生み出した。 江戸には各地方より人びとが集まり、俳諧師、剣術士、役人、浪人、坊主、船頭、駕籠かきなど が多くの庶民が生活を楽しんだ。当時両国橋のにぎわいの様子を平賀源内は書いた。「僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めける、町もの当世姿、長櫛短羽織 、若殿の供はびいどろの金魚をたずさへ、奥方の附びとは今織のきせる筒をさげ、 」
またその頃、権威的な学問を、 政治や宗教と関係のない現実的学問に変えていった。
古文辞学は儒教を変え、国学はやまと心をうたい、蘭学は科学的方法を教え 、現世的文学の黄表紙や狂歌 、狂詩が流行した 。田沼意次の政策で士農工商の差なき人材の登用や自由な気風で商業も栄え、文芸も栄え絵も本も数多く出版され、宝暦天明期文化として多くの江戸町人文化が生まれた。
黄表紙と呼ばれる絵付きの小説もこの時代に流行した。1775年(安永4年)恋川春町による作品「金々先生栄花夢」が人気を博した。邯鄲の夢と同じよう一夜のうちに豊かになり贅を尽くして遊蕩するさまを絵つきの物語で、田舎者の貧乏人金村屋金兵衛が江戸にでて豊かになり豪遊する姿を、着物は黒羽二重にビロードの帯といった金持ちの若者のいでたちを絵に描いた。
しかし、天明期には飢饉や百姓一揆が頻発し、1787年(天明7年)田沼意次が失脚し翌年、松平定信が老中の筆頭になる。そして、松平定信による寛政の改革が行われた。農村の復興させ、贅沢をやめ、儒教とりわけ朱子学を重視し、文武両道質実剛健を政府が推進した。
黄表紙で、幕府のこの政策を強烈に皮肉ったのが山東京伝。「孔子縞ま時藍染」1789年(寛政元年)で人々の物欲や金銭欲がなくなる様を描いた。
例えば、おいはぎはぎ服を取らずに服を与え 、摺はお金を取らずに分け与える。そして人々は年貢を多くしてくださいと請願する。これは儒教精神が行き渡ったためである、と茶化した。幕府の期待される大衆像を逆手にとって、最後には人間はお金を欲しくはないのに、小判を降らせる天があると絵に描いた。
しかし、幕府はこの反幕府の雑誌を取り締まり、1789年(寛政元年)恋川春町は「鸚鵡返文武二道」で松平定信に咎めを受け、山東京伝も罰金刑を受ける。出版の弾圧が始まり、太田南畝は狂歌の世界から身を引く。
大田南畝は狂歌の世界から、松平定信の政権が用意した登用試験を受けて官吏になる。官吏として大阪や長崎で仕事を務め、紀行文やその土地の見聞記を多く書き残している。それらは古文辞派の事実を重視した記録になっていた。70才近くになり、再び狂詩、狂歌、狂文を書き始め75才の天寿を全うした。
田沼意次の時代、経済は栄え、豊かな庶民が生まれ、文芸は花開いた。また蘭学、古文辞学、国学そして経世済民の考えなど多くの文化の活動も活発になった。一方賄賂は横行し、風紀は乱れた。そこに、天明の大飢饉が起こり餓死者も出て、農村は立て直しを迫られた。寛政の改革により、農村の復興が図られ、贅沢は禁止され、黄表紙などの風俗に抵触する本は取り締まられ、幕府の批判は禁止された。狂歌や黄表紙の饗宴ははかなく消えた。その後、教訓じみた、政治臭のない笑い、東海道中膝栗毛などの滑稽本は生き残った。
白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき