2018/12/22

江戸時代パロディー作家 大田南畝


   役人の子はにぎにぎをよく覚へ

  役人の骨っぽいのは猪牙に乗せ    (  猪牙とは吉原に行く猪牙船のこと)


 江戸時代最も人気のあった文芸は俳句だった。 芭蕉の句は天才的ひらめきによる高踏的境地を詠み、一茶は崇高さとか敬虔な高みを目指すより平易で世俗に近い世界をよんだ。
 この時代さらに庶民に人気を呼んだものが川柳で、俳句から季語をなくし、より庶民的、遊戯的な川柳が生まれる。1765年(明和二年)に柄井川柳による俳風柳多留が大流行し、川柳と呼ばれるようになり、現在もこの人気が続いている。

 同じように朝廷の伝統を受け継いだ和歌をパロディー化したのが狂歌で、漢詩をパロディー化した狂詩も田沼時代流行し、人々は川柳や狂詩、狂歌で、短い文字の中に権威を笑い偽善を暴いて言葉の遊戯をたのしんだ。
 最初狂歌は、上方で流行し、その後1769年(明和6年)には大田南畝(四方赤良)を中心にして、狂歌会というサロンをつくり、江戸で大流行した。狂歌師たちは、宿屋飯盛、朱楽菅江(あっけらかんこう)などの狂名で集まり、武士も町人も、職人も階級に関係なく参加した。この狂歌の仲間に北尾政演(山東京伝)や歌麿がいた。彼らが黄表紙、浮世絵、洒落本の中心で活躍することになる。

 
 世の中は 疝気に頭痛雨に風 花見の幕をはるぞすくなき       大田南畝

 
 いたづらに 過ぐる月日はおもしろし 花見てばかりくらされぬ世は  大田南畝



 いたづらに 過ぐる月日はおもほえで 花見てくらす 春ぞすくなき   藤原興風


 わが庵は都の辰巳午ひつじ申酉戌亥子丑寅う治              大田南畝


わが庵は都のたつみしかぞ住む 世を宇治山と人はいふなり       喜撰法師




 大田南畝は1749年(寛延2年)生まれる。下級武士の出身で、子供の頃から漢詩を学ぶ。1767年(宝暦4年)19才の時「寝惚先生文集」を平賀源内の序文で出版する。古文辞派の漢詩を明るいタッチでパロディー化した。その後安政期には戯作をつくり天明期には黄表紙に没頭する。四方山人赤良の名で当世風の新しみをうりにした作品を書いた。
 1783年(天明3年)「通詩選笑知」で唐詩選のパロディー狂詩を、そして狂歌をつくり狂歌会の中心となる。狂歌の仲間たちと集まって、和歌の連句と同じように、次々と句をつくり遊んだ。そして、30代前半の若さで天明狂歌の寵児になる。
 これが江戸と上方を席巻した狂歌の最盛期であった。

ひとつとりふたつとりては焼いて食ふ鶉なくなる深草の里    四方赤良(大田南畝)

夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里       藤原利成



 徳川時代中期、田沼意次の時代(1767年から1787年)の財政政策で経済は活発化し、豊かな庶民を生み出した。 江戸には各地方より人びとが集まり、俳諧師、剣術士、役人、浪人、坊主、船頭、駕籠かきなど が多くの庶民が生活を楽しんだ。当時両国橋のにぎわいの様子を平賀源内は書いた。「僧あれば俗あり、男あれば女あり、屋敷侍の田舎めける、町もの当世姿、長櫛短羽織 、若殿の供はびいどろの金魚をたずさへ、奥方の附びとは今織のきせる筒をさげ、  」
 またその頃、権威的な学問を、 政治や宗教と関係のない現実的学問に変えていった。
古文辞学は儒教を変え、国学はやまと心をうたい、蘭学は科学的方法を教え  、現世的文学の黄表紙や狂歌 、狂詩が流行した 。田沼意次の政策で士農工商の差なき人材の登用や自由な気風で商業も栄え、文芸も栄え絵も本も数多く出版され、宝暦天明期文化として多くの江戸町人文化が生まれた。



 黄表紙と呼ばれる絵付きの小説もこの時代に流行した。1775年(安永4年)恋川春町による作品「金々先生栄花夢」が人気を博した。邯鄲の夢と同じよう一夜のうちに豊かになり贅を尽くして遊蕩するさまを絵つきの物語で、田舎者の貧乏人金村屋金兵衛が江戸にでて豊かになり豪遊する姿を、着物は黒羽二重にビロードの帯といった金持ちの若者のいでたちを絵に描いた。

 しかし、天明期には飢饉や百姓一揆が頻発し、1787年(天明7年)田沼意次が失脚し翌年、松平定信が老中の筆頭になる。そして、松平定信による寛政の改革が行われた。農村の復興させ、贅沢をやめ、儒教とりわけ朱子学を重視し、文武両道質実剛健を政府が推進した。

 黄表紙で、幕府のこの政策を強烈に皮肉ったのが山東京伝。「孔子縞ま時藍染」1789年(寛政元年)で人々の物欲や金銭欲がなくなる様を描いた。
 例えば、おいはぎはぎ服を取らずに服を与え 、摺はお金を取らずに分け与える。そして人々は年貢を多くしてくださいと請願する。これは儒教精神が行き渡ったためである、と茶化した。幕府の期待される大衆像を逆手にとって、最後には人間はお金を欲しくはないのに、小判を降らせる天があると絵に描いた。
  しかし、幕府はこの反幕府の雑誌を取り締まり、1789年(寛政元年)恋川春町は「鸚鵡返文武二道」で松平定信に咎めを受け、山東京伝も罰金刑を受ける。出版の弾圧が始まり、太田南畝は狂歌の世界から身を引く。


 大田南畝は狂歌の世界から、松平定信の政権が用意した登用試験を受けて官吏になる。官吏として大阪や長崎で仕事を務め、紀行文やその土地の見聞記を多く書き残している。それらは古文辞派の事実を重視した記録になっていた。70才近くになり、再び狂詩、狂歌、狂文を書き始め75才の天寿を全うした。

 田沼意次の時代、経済は栄え、豊かな庶民が生まれ、文芸は花開いた。また蘭学、古文辞学、国学そして経世済民の考えなど多くの文化の活動も活発になった。一方賄賂は横行し、風紀は乱れた。そこに、天明の大飢饉が起こり餓死者も出て、農村は立て直しを迫られた。寛政の改革により、農村の復興が図られ、贅沢は禁止され、黄表紙などの風俗に抵触する本は取り締まられ、幕府の批判は禁止された。狂歌や黄表紙の饗宴ははかなく消えた。その後、教訓じみた、政治臭のない笑い、東海道中膝栗毛などの滑稽本は生き残った。
 


       白河の清きに魚も住みかねてもとの濁りの田沼恋しき

2018/12/06

小林一茶 おらが春の世界


    祇園精舎の鐘の音
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹の花の色、
   盛者必衰の    ことわりをことわりをあらわす


 平家物語は、日本を代表する抒情詩で、琵琶法師が読み上げた。 日本の文学は平安時代から、仏教思想の影響を受けた多くの文学作品が生まれている。同じ頃、西行が仏教的無常観を短歌につづり、江戸時代に芭蕉の俳句になり、世界的に高く評価された。


 旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

  Sicken on a journey,

    My dreams go wondering round

    Withered field.



  芭蕉は、禅宗特に臨済禅の思想から、高みを目指した句を作った。それは英語やその他の言語に翻訳され、世界に広がった。


  此の道や行く人なしに秋の暮

  Along this road

        Goes no one,

        This autumn eve.




 人々は言葉を話し、文章を書いて、物事を伝え、言語によって世界を組み立て、秩序づけ、時間と空間の中に意味ある世界をつくった。感情は歌や絵画や詩で表現された。詩から、字数を少なくした短歌へ、さらに極限まで言葉を縮めることによって俳句が生まれた。31文字から17文字にした時、その文字と空白が、共鳴し、鐘を鳴らしたように、部分が全体と響きあう悟りの世界になる。文字は圧縮され、論理ではなく、心の奥深いところにある、意識を超越したもの、禅の公案になる。説明的な和歌にくらべて、さらに圧縮した俳句の文字がある時、単なる諧謔から特異点で一変する。

        古池や蛙飛びこむ水のおと


  ルイス カーンが、「空間とは、自己の身体を包み、四方に広がっているものでである。それに限定を与えるものが、建築である。」とした。さらにこの空間を縮め、神聖な禅的な世界にしたのが千利休の茶の湯だった。

 プライスは、俳句は全東洋文化の精華である。俳句は禅の視点から理解すべきものである。言葉では述べることができない不立文字であり、禅を体現したものと捉えた。
 空間を極小まで縮めた茶室と同様に言葉を極小まで縮めたものが俳句であり、禅であるとした。これが、アメリカの作家サリンジャーなどの カウンターカルチャーに影響を与えた。

                                 雲の峰幾つ崩れて月の山


        静かさや岩にしみいる蝉の声                                                    

                                 芭蕉

        静かさや湖水の底の雲の峰

                                                                                           一茶   

 小林一茶は1763年信州に生まれる。15才になり江戸に奉公に出され、20代にして葛飾派3代目素丸の執筆となる。27才の時江戸を離れて、東北の旅に出る。30才になり、足掛け6年四国九州など西国の旅に出て、「寛政三年紀行」を世に送り出す。

      
        青梅に手をかけて寝る蛙かな


        かたつぶりそろそろ登れ富士の山
                       一茶

 動物が蛙やかたつむりあるいは、虫や草木が人となり、感じとり、宇宙をみる。
俳句と禅と大乗仏教の授業をしている、シーモア(サリンジャー)の愛唱した俳句が、かたつぶりそろそろ登れ富士の山だった。


        ゆうぜんとして山を見る蛙かな

        むきむきに蛙のいとこはとこかな

           秋の夜やせうじの穴が笛を吹く


                                 雷のごろつく中を行 々



 松尾芭蕉は禅の思想、臨済禅の影響を受け、一方小林一茶は親鸞の教えを信じていた。
また、芭蕉が武士の出であったのに対して、一茶は農民出身。一茶はあらゆる人々の中に仏性を見、蛙や虫だけでなく、ありとあらゆる生き物に、雛のさえずりのように、さえずり、うたわせた。

 宝暦から天明にかけて、江戸の文化は栄え、俳諧師も多く、武士、農民、商人の階級を超えた文化の世界がつくられた。1806年(文化3年)一茶45才の時、寛政異学の禁が出された。儒教のうちの朱子学を正統として、陽明学や古文辞学は異端とされ、幕府の教育では、禁止され、農民は都市から生まれた土地に帰農させられた。その後この朱子学の影響で、士農工商以外の定職のない人々、文化を担う高等遊民は、肩身の狭い世界になりつつあった。

1814年(文化11年)52才で菊と結婚。3男1女をもうけるも幼くして亡くなる。

        名月をとってくれろとなく子かな
                                

文政元年以後、江戸から信州柏原に定住する。
1818年(文政2年)に「おらが春」をまとめた。これは一茶の死後出版された。

        目出度さも 中くらい也おらが春

        這へ笑へ二つになるぞけさからは


阿弥陀如来の信仰を深め 其身を如来の御前に投げ出して 地獄なりとも極楽なりとも あなた様の御はからひ次第 あそばせくださりませと御頼み申すばかり也



       ともかくもあなた任せのとしの暮

おらが春の一茶は、覚醒者の高みからでなく、平凡な人、親鸞の他力本願の信者として、妻帯し生活する一人の生活者として、信濃の柏原で暮らした。若い時の荒凡夫であった一茶は52才で結婚し、妻子と死に別れ61才で一人の暮らしに戻った。

       春立つや愚の上に又愚にかへる

その後再婚し、1827年(文政10年)65才の時、柏原の大火で家を焼失、その土蔵で死亡。

       やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ