2023/09/18

新古今和歌集の時代

 


 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ           西行


 西行は平清盛と同じ年1118年に生まれ、17歳で白河院の警護に当たる北面の武士となる。豊かで、流鏑馬や蹴鞠の名手であり、歌に秀いで、容姿端麗な佐藤義清は22歳の若さで出家する。出家後郊外の京都嵯峨の小倉山、鞍馬山の草庵で生活し、やがて吉野山に移る。


 この時代朝廷の権力は、白河法皇から子供の堀河天皇、その子の鳥羽天皇、さらに崇徳天皇を即位させ、白河法皇が3代43年間にわたり実権を握り続けた。

 白河法皇は養女の待賢門院タマ子を慈円の父の藤原忠通との結婚をを予定したが、ことわられ自らの孫の鳥羽天皇の中宮とした。結婚後の第一子の崇徳天皇の父親は白河院であった。

 その後鳥羽法皇が権力を握るもその死後,崇徳上皇と後白河天皇の間で、保元の乱が起きて、崇徳上皇は讃岐に流され、これに続く平治の乱で平清盛が権力を握り始める。


 西行は高野山で修行した後、伊勢に居を移し、二見ヶ浦に居を構え、源平合戦から、平家滅亡する日を過ごす。12世紀は摂関貴族が崩壊し、武士階級が台頭、きのうまで権勢と栄華を極めた権力は没落し、蔑視されていた勢力が今日は広大な権勢を振るっている。仏教の末法思想が世間に広がっていた。初回の陸奥旅行から40年経ち、69歳の年、新しい時代の武士の統領となった源頼朝に鎌倉で会い、奥州平泉に向かう。その後、義経の逃れた奥州藤原氏は1189年頼朝に滅ぼされた。その5ヶ月、西行なくなる。


 木のもとの花に今宵は埋もれてあかぬ梢を思ひあかさん            西行



 慈円1155年生まれる。その翌年保元の乱が起こる。慈円は摂政藤原忠通の子であり、父が死亡した後、13歳で出家。1192年頼朝が鎌倉幕府を開いた年、38歳で天台座主となる。鎌倉幕府は頼朝が政権を担い、京都では慈円の兄の兼実が後鳥羽天皇の院政下に政権を担う。慈円はその後も後鳥羽院との親交を結び、天下安泰を祈る仏法界の頂点に立つ。愚管抄を書き、天台宗の座主を務めた。


その慈円が西行に、真言教の教えについて尋ねたとき、西行は「まず和歌を稽古してください。和歌の心得が無ければ、真言の大事は心得ることができない。」と答えている。西行にとって和歌は一首をつくることは、観想であり、それとつながる言葉の発声は真言であった。心で観じ、口で詠み、手で書く詠歌の作業は、菩薩心に近ずく修業と同じであった。

 


愚管抄で慈円は院政も武家政治の出現も、それぞれ末世の兆候である。しかし摂関政治の堕落から院政が生まれ、古代天皇制の政治原則、輔弼する摂関的制度をなくして、院政という皇室の独裁政治が生まれる。その院政に対して、否定する武士が台頭してきたと慈円は書いている。そして武士の猜疑心を取り除いて協力させ、摂関家と武士の公武合体で君を貢献するのが最もよいと説いた。そして後鳥羽上皇の幕府政権討伐に反対を説いた。後鳥羽上皇は、慈円らの諌めにも関わらず、承久の乱で鎌倉幕府に戦いを挑み、敗北し隠岐の島に流罪となった。


後鳥羽上皇の指示によって藤原定家たちは、技巧的、構成主義の美学から、新古今和歌集を編纂した。後鳥羽上皇の西行の評価は非常に高く、生得の歌人であると賛嘆していた。この新古今和歌集には西行は94首、慈円の92首が次に多かった。そして多くの女流歌人 式子内親王、和泉式部の歌を推薦した。これらの女性は明治時代の、我とか、君が名をよびて死なん、とうたった与謝野晶子たちの明星の短歌を思わせる和歌もあった。


 わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋のゆふぐれ        慈円


 忘れてはうち嘆かるる夕かな我のみ知りて過ぐる月日を       式子内親王


 枕だに知らねば言はじみ見しままに君語るなよ春の世の夢      和泉式部


 平安時代の宗教は国土の安全を図り、国家を安定させるもので、仏を仰ぎ、これに祈祷を捧げ、祈願する、この世の利益を願い、悪鬼を退け無病息災を、極楽往生を祈願した。西行は空海に傾倒し、その神仏の心を和歌に込めた。慈円もまた天台宗筆頭で、時の政権王法を仏法で支えた。

 平安の末期は、地震洪水飢饉など天変地異が日本の国土で次々起こり、僧兵の武力行使、強盗の横行、都の大火で京の町は死体が散乱し、地方では無秩序でアナーキーな世界になってきた。そしてこの崩壊の感覚を受けて末法思想が日本を覆った。仏法、王法の秩序が崩れ、それに対して、仏教を政治的から離れて、宗教としての独立を目指した鎌倉新仏教の出現、宗教改革が起った。


 親鸞は1173年に生まれ、9歳で出家し慈円のもとで得度し、比叡山で修行をした。呪術を否定し、神仏の習合を否定した。「仏に帰依する者は終に更に其余の諸天神に帰依せず。」「かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、天神地 をあがめつつ、ト占祭祀をつとめとす」「かなしきかなやこのごろの、和国の道俗みなともに、仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す」 こうして親鸞の浄土真宗は生まれた。 最後まで、絶対他力へ帰依する、生活をすべてそれにかける、一向宗の思想で、現生利益ではなく、万人の彼岸における救済を庶民に説いていった。


 呪術的祈祷の仏教からの脱却、親鸞の新宗教は既存の仏教や時の支配層からの弾圧を招いた。この鎌倉新宗教の台頭に対して、後鳥羽院は法然や親鸞に流刑を命じた。しかし庶民階級を中心にこの我が身の業を見つめ、阿弥陀仏の教えに帰依するという、他力本願、念仏信仰の思想は広がっていった。


明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは            親鸞

2023/09/12

プーチン大統領 独裁への道


「 
我々はギャングではない。マフィアでもない。ゴッドファーザーのように復讐を企てたりもしない。我々は国家、しかも法治国家だ。」




ウラジミール プーチン氏1990年代、サンクトペテルブルグ市の副市長となる。

地元の犯罪組織との関係を築いた。その中に10以上服役したプリゴジン氏も含まれる。

KGBのちのFSB(連邦保安庁)というロシアの情報機関は、密輸、資金浄化、殺人などの知識を持つ犯罪組織と常に関係を維持している。そしてロシア政府は国内や欧州各地で政権に逆らった人々の暗殺を指示し実行していると疑われている。このサンクトペテルブルグでプーチンの反対派のユーリーシュトフは投獄され、スタロヴオイトワ、民主活動家は誰かに銃殺された。こうして、サンクトペテルブルグ時代の目障りな人間、活動しすぎる人間は刑事事件で投獄されたり、何者かに暗殺された。


 1991年ソ連の保守派のクーデター未遂に反対したボリスエリチェンは政権を握った。そしてその富はオルガルヒに簒奪され、支配された。ウラジミール プーチンは1996年サンクトペテルブルグから大統領府の在外資産管理局のトップに抜擢されモスクワに移る。そこで大統領府第一副長官に昇進し、クレムリンにおけるナンバー3の役職から、さらにFSBの長官に任命された。1990年代、エリチェン政権は経済改革に失敗しロシア国家は破産状態におちり、体調の不調もあり、1999年12月31日テレビで突然の辞任を発表し、大統領代行にウラジミール プーチン氏がなる。2000年3月に大統領選挙が行われ、圧勝する。このロシアの混乱を乗り切るために、西欧の民主主義とは違った、ロシア型民主主義の政策を進めていく、すなわちロシアの近代化や自立した市民の代わりに、大統領権限の強化が進められた。オルガルヒをつぶし、マスコミを支配し、選挙を操作し法治国家はしだいに専制国家に変化していった。


 プーチン大統領の時代に、マスコミの支配を始めた。その方法は、メディア王のオルガルヒ、グシンスキーやベレゾフスキーの支配する独立系メディアは検察当局が横領容疑で、二人とも召喚する作業を進めていった。そして独立系メディアをつぶして経営権を取り上げた。 グシンスキーもべゾフスキーも国外に逃れた。その後、反政府的キャスターの解雇や、政府の圧力を恐れたメディアの自主規制によって政府の批判はできなくなった。テレビ司会者はたとえ偽の情報であっても、真実と言いくるめる。国営の放送局は、90%、民営のNTVでも70%以上は国家の情報を報道し、国民はそれに対して口を閉ざしている。

そしてエネルギーの支配権もオルガルヒから取り戻した。2003年石油王のボドルゴフスキーを脱税事件で投獄して、シベリアに収監しユコス社の彼の持分を没収した。こうして石油会社は国家のものとなった。その後知事も公選制は廃止され、政府の任命制になった。



2004年のロシア大統領選挙では、対立候補のルイプキンが何者かに誘拐され、「SP117」という自白剤を飲まされる事件が起きる。そして、プーチン大統領の再選は達成される。当時アメリカのブッシュ大統領は、2001年9月のアメリカ国内のテロ攻撃に対して、世界戦略を変更し、対テロの国家戦略を立て、2001年アフガニスタンでタリバン政権を倒し、2003年3月にはイラク戦争を起こし、フセイン政権を倒した。それらに対すて、プーチン政権は、アフガン侵攻にはむしろ協力的で反対せず、またイラク戦争にも関与しなかった。その後次第にプーチン政権の独裁化に対してアメリカは懐疑的になり、一方、ロシアはNATOの拡大を警戒し始めた。


2004年ブルガリア、ルーマニアとバルト3国のNATO加盟そして、同じ年、ウクライナでオレンジ革命が起こった。親ロシア派のヤヌコヴィッチに対して親西欧のユーシェンコの戦いになり、ユーシェンコは途中ダイオキシン中毒の毒殺未遂事件が起こり、1回目の開票はヤヌコヴィッチが勝利したものの不正選挙が疑われ、2回目の投票でユーシェンコが勝利した。前年のジョージアでの西側の政権誕生に引き続く西側の勝利であった。


ロシア国内では、2006年反政府的ジャーナリストのアンナ ポリトスカヤはアパートの前で何者かによって暗殺され、2007年イギリスに亡命したアレクサンドル リトヴィネンコはポロニウムによって殺害された。反政府のジャーナリストや政治家、あるいは亡命者たちは生命の危険にさらされることになる。これらはFSBあるいは他の組織の犯行か未だ明らかではない。現在ロシアでは、KGBの後継組織FSBの職員や協力者は多くの国家組織、企業、大学あるいは多くのNGOに浸透している。そして警察と検察、裁判所は政治的ライバルを排除する装置となった。


2008年プーチン大統領からメドヴェージェフに大統領は交代した。ロシア国外ではアラブの春で北アフリカの独裁政権、エジプトのムラバク大統領やリビアのカダフィー大佐は失脚した。2008年にはロシアはジョージアに侵攻した。


 2012年2期目のプーチン政権が発足した。このころから、プーチン大統領は外交政策でも国内政策でも反対派のご機嫌を取っても、何もうるものはないと確信した。政治の自由はソ連時代並みとなり、リベラル派は排除していった。政治的に独裁体制を固めると、次はロシア愛国主義の思想を固めていった。「ロシアは、ロシア人とロシア語と、ロシア文化のより結びつけられた文明的な国家であり、ロシア文化が我々を結びつけ、多様な世界に解体するのを防ぐ。」そして、文化防衛論的ロシア思想のもとに強国ロシアは対外行動を活発化させていく。


 2014年のソチオリンピック終了後、ウクライナのクリミア半島はロシアのハイブリッド戦争で、無血で征服された。住民投票を行い、住民の支持によりロシアに併合されたことにした。またウクライナ東部のロシア人住民の多い、地域では親ロシアの分離主義者が活動を活発化させ、マレーシア航空機を撃墜した。

 さらにシリアでアサド政権と反対勢力の内戦では、アサド政権が化学兵器を使ったことに対して、アメリカやイギリス、フランスはレッドラインを超えたとして空爆を実行する方針を固めた、その寸前で、ロシアは交渉に持ち込んだ。さらに、ロシアは空母を派遣し、ミサイルを発射し、シリア内のロシア空軍基地から戦闘爆撃機を使って、反対派の都市を無差別に空爆した。その結果、リビアやイラクと違ってアサド政権は権力を維持した。この時ワグネルの傭兵を使った。このワグネルの指導者エフゲーネ プリゴジンは当時プーチンのシェフと呼ばれていた。


 2015年には、「個人の自由が絶対視されている。なんでも許す、不道徳性と利己性が、積極的に広められている。暴力、消費、快楽のカルトが植え込まれている。ドラッグ使用が合法化され、生命の自然な継続を否定するLGBTコミュニティーが形成されている。伝統的なロシアの精神的、道徳的、文化的、歴史的価値観はアメリカとその仲間により情報と心理的サボタージュと西欧化を通じて積極的に攻撃されている。」とプーチン大統領はイギリスの記者に語っている。これは権力を支えているシロヴィキや保守派そしてロシア国民に支持された。


2018年大統領選挙で前回より13%高い77%の支持率で当選した。共産党は12%、右派ジリノフスキーは6%の支持率であった。その後、西欧民主主義国家に対抗して、解体したソ連の復活、ロシア帝国の復権を目指して、対外活動を活発化していった。

2020年8月神経剤ノヴィチョクによるナワリヌイ氏暗殺未遂。2022年2月24日プーチン政権はウクライナ侵攻を開始。このプリゴジン氏率いるワグネルは民間企業であり、犯罪組織であり、ロシア政府の裏の活動を担っていた。プリゴジン氏は特別軍事作戦でウクライナ東部バフムトで戦闘を担い、裏社会から、ロシアの表の世界に現れ、世界で知られる存在になった。そして、2023年6月24日武装反乱を起こしモスクワに向かった。2023年8月サンクトペテルブルグに向けてモスクワをたったジェット機が爆発墜落し、ワグネルの指導者とともにプリゴジン氏は死亡した。



If anything in this life is certain.If history has taught us anything. It's that you can  …                                                                 

                                                                                                             

                                                                                                                        Don Corleone