心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
西行は平清盛と同じ年1118年に生まれ、17歳で白河院の警護に当たる北面の武士となる。豊かで、流鏑馬や蹴鞠の名手であり、歌に秀いで、容姿端麗な佐藤義清は22歳の若さで出家する。出家後郊外の京都嵯峨の小倉山、鞍馬山の草庵で生活し、やがて吉野山に移る。
この時代朝廷の権力は、白河法皇から子供の堀河天皇、その子の鳥羽天皇、さらに崇徳天皇を即位させ、白河法皇が3代43年間にわたり実権を握り続けた。
白河法皇は養女の待賢門院タマ子を慈円の父の藤原忠通との結婚をを予定したが、ことわられ自らの孫の鳥羽天皇の中宮とした。結婚後の第一子の崇徳天皇の父親は白河院であった。
その後鳥羽法皇が権力を握るもその死後,崇徳上皇と後白河天皇の間で、保元の乱が起きて、崇徳上皇は讃岐に流され、これに続く平治の乱で平清盛が権力を握り始める。
西行は高野山で修行した後、伊勢に居を移し、二見ヶ浦に居を構え、源平合戦から、平家滅亡する日を過ごす。12世紀は摂関貴族が崩壊し、武士階級が台頭、きのうまで権勢と栄華を極めた権力は没落し、蔑視されていた勢力が今日は広大な権勢を振るっている。仏教の末法思想が世間に広がっていた。初回の陸奥旅行から40年経ち、69歳の年、新しい時代の武士の統領となった源頼朝に鎌倉で会い、奥州平泉に向かう。その後、義経の逃れた奥州藤原氏は1189年頼朝に滅ぼされた。その5ヶ月、西行なくなる。
木のもとの花に今宵は埋もれてあかぬ梢を思ひあかさん 西行
慈円1155年生まれる。その翌年保元の乱が起こる。慈円は摂政藤原忠通の子であり、父が死亡した後、13歳で出家。1192年頼朝が鎌倉幕府を開いた年、38歳で天台座主となる。鎌倉幕府は頼朝が政権を担い、京都では慈円の兄の兼実が後鳥羽天皇の院政下に政権を担う。慈円はその後も後鳥羽院との親交を結び、天下安泰を祈る仏法界の頂点に立つ。愚管抄を書き、天台宗の座主を務めた。
その慈円が西行に、真言教の教えについて尋ねたとき、西行は「まず和歌を稽古してください。和歌の心得が無ければ、真言の大事は心得ることができない。」と答えている。西行にとって和歌は一首をつくることは、観想であり、それとつながる言葉の発声は真言であった。心で観じ、口で詠み、手で書く詠歌の作業は、菩薩心に近ずく修業と同じであった。
愚管抄で慈円は院政も武家政治の出現も、それぞれ末世の兆候である。しかし摂関政治の堕落から院政が生まれ、古代天皇制の政治原則、輔弼する摂関的制度をなくして、院政という皇室の独裁政治が生まれる。その院政に対して、否定する武士が台頭してきたと慈円は書いている。そして武士の猜疑心を取り除いて協力させ、摂関家と武士の公武合体で君を貢献するのが最もよいと説いた。そして後鳥羽上皇の幕府政権討伐に反対を説いた。後鳥羽上皇は、慈円らの諌めにも関わらず、承久の乱で鎌倉幕府に戦いを挑み、敗北し隠岐の島に流罪となった。
後鳥羽上皇の指示によって藤原定家たちは、技巧的、構成主義の美学から、新古今和歌集を編纂した。後鳥羽上皇の西行の評価は非常に高く、生得の歌人であると賛嘆していた。この新古今和歌集には西行は94首、慈円の92首が次に多かった。そして多くの女流歌人 式子内親王、和泉式部の歌を推薦した。これらの女性は明治時代の、我とか、君が名をよびて死なん、とうたった与謝野晶子たちの明星の短歌を思わせる和歌もあった。
わが恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋のゆふぐれ 慈円
忘れてはうち嘆かるる夕かな我のみ知りて過ぐる月日を 式子内親王
枕だに知らねば言はじみ見しままに君語るなよ春の世の夢 和泉式部
平安時代の宗教は国土の安全を図り、国家を安定させるもので、仏を仰ぎ、これに祈祷を捧げ、祈願する、この世の利益を願い、悪鬼を退け無病息災を、極楽往生を祈願した。西行は空海に傾倒し、その神仏の心を和歌に込めた。慈円もまた天台宗筆頭で、時の政権王法を仏法で支えた。
平安の末期は、地震洪水飢饉など天変地異が日本の国土で次々起こり、僧兵の武力行使、強盗の横行、都の大火で京の町は死体が散乱し、地方では無秩序でアナーキーな世界になってきた。そしてこの崩壊の感覚を受けて末法思想が日本を覆った。仏法、王法の秩序が崩れ、それに対して、仏教を政治的から離れて、宗教としての独立を目指した鎌倉新仏教の出現、宗教改革が起った。
親鸞は1173年に生まれ、9歳で出家し慈円のもとで得度し、比叡山で修行をした。呪術を否定し、神仏の習合を否定した。「仏に帰依する者は終に更に其余の諸天神に帰依せず。」「かなしきかなや道俗の、良時吉日えらばしめ、天神地 をあがめつつ、ト占祭祀をつとめとす」「かなしきかなやこのごろの、和国の道俗みなともに、仏教の威儀をもととして、天地の鬼神を尊敬す」 こうして親鸞の浄土真宗は生まれた。 最後まで、絶対他力へ帰依する、生活をすべてそれにかける、一向宗の思想で、現生利益ではなく、万人の彼岸における救済を庶民に説いていった。
呪術的祈祷の仏教からの脱却、親鸞の新宗教は既存の仏教や時の支配層からの弾圧を招いた。この鎌倉新宗教の台頭に対して、後鳥羽院は法然や親鸞に流刑を命じた。しかし庶民階級を中心にこの我が身の業を見つめ、阿弥陀仏の教えに帰依するという、他力本願、念仏信仰の思想は広がっていった。
明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かぬものかは 親鸞