国際政治と小国の運命
カンボジアの気候は、雨季と乾期にわかれ11月から半年が乾期で,5月から10月までが雨期で、この雨期には毎日湿気と熱気で熱帯の熱さに包まれ,川は増水しトレンサップ湖はまんまんと水をためる。今回のタイ,カンボジアの洪水も雨季に大量に降った雨が,国土の広大な地域に洪水をもたらしたものです。
雨季には道路はぬかるみとなり,乾期にはラテライトの赤い土埃を舞い上げるカンボジアとタイの国境地帯では,一部の地域はジャングルを思わせる樹林が生い茂るが,ほとんどの地域は乾期にはまったく雨が降ってこないため,植物は落葉し,枯れるものも多く見られ、灌木の平地が連なる。
1979年この国境地帯の平地を追い詰められ、難民となった人々に混じってカンボジアのタイ国境近辺にポルポト政権指導部は居住地を確保した。また難民は100万人を超え国境を超えタイ領内にキャンプを作り、水、食糧、医療などの援助をタイ政府の管理のもとでうけいれた。日本からも1979年12月から1982年の12月まで医療チームがカンボジア難民の治療にあたった。
1930年頃のフランス植民地下のプノンペンは、支配者のフランス人の他ベトナム人、中国人、マレー人も多く生活をしていた。
第二次大戦後の1954年、シアヌーク国王のもとに,カンボジア王国をつくり独立した。1960年代前半にはカンボジアの黄金時代とよばれ、治安はよく平和は続いていた。ところが、ベトナム戦争の最中、1970年にアメリカに近いロンノルらが、シアヌークの海外滞在中にクーデターがおこし政権をとった。
その後1975年にベトナムのサイゴンが陥落、同じ年の4月にカンボジアでは,ポルポトらのクメールルージュがロンノル派の政権をうちやぶり政権についた。ポルポト政権は原始共産主義ともいえる極端な政策を実効し、都市から地方に人々を追い出し、農業に従事させた。現実を無視した極端な社会主義が全国土で実行され、カンボジアの経済も農業もすべてを破壊した。
クメールルージュほとんどが貧農出身の若者で構成され,教育程度も低く粗野で,実用的技能を持たない無能な支配者たちで、彼らの命令に従わないものは、逮捕や処刑が待っていた。
ポルポトの理想や思想は情念の奴隷となり自らの猜疑心から、党派闘争で内部の敵をつくり粛正をくり返していた。この猜疑心と恐怖の連鎖に歯止めはなかった。そして、国民に対しても、無謀な政策を実力で強制し、国土全体が強制労働キャンプと化し,700万人の人口のうち150万以上の人々が犠牲になった。
1977年以降ポルポト政権は民族主義的色彩を強めるとともに、ベトナムに戦争を仕掛け、そのため中国の力をたよった。これに対してベトナムで訓練をうけたヘン サムリンらカンボジア人グループはベトナム軍の支援のもとにポルポト政権下のカンボジア軍を打ち破り政権を樹立した。その結果、1979年1月にポルポト政権は崩壊し、追いつめられたポルポトらはタイ国境近くの山岳平地に撤退した。このとき多くの難民となったカンボジア人が国境地帯に居住した。
カンボジアのポルポト政権は中国に援助を求め、タイを通じて武器を手にいれた。さらに,中国はベトナムを撤退させる為、1979年2月、20万人以上の軍隊で中越国境を超え南下させ、北部の都市を占拠した。アメリカは、ベトナムが戦争の長期化で、軍事同盟をむすんだソ連が疲弊することを期待してこれを黙認した。タイもまた東南アジアにおけるベトナムの強大化をきらい、ポルポトを支えた。
国際政治に翻弄された小国カンボジアは1991年ようやくパリ協定が結ばれ戦乱に終止符をうった。
参考 ポルポト 著者 フィリップ ショート