戦後、写生を乗り越え、新たな時代精神をになった俳句、短歌の革新派寺山修司が現れた。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
草餅や故郷出し友の噂もなし
なまぐさき血縁断たん日あたりにさかさに立ててある冬の斧
若き日の俳句や短歌から決別し、1967年には芸術の最先端、アヴァンギャルドとしてのアングラ演劇天井桟敷をつくり、見せ物劇「青森県のせむし男」からはじまり「書をすてよ、町へ出よう」であらたな演劇の地平を切り開き「時には母のない子のように」で一躍ミリオンセラーの作詞家となった。この歌の流行は時代そのものを写し出している、しかもこの歌詞の内容は寺山修司の、屈折した母親との心情をあらわし、短歌にも、劇にも,写真にも複雑な親子の葛藤を表出させている。
その後、劇をこわす劇「邪宗門」は海外で評価され、田中角栄首相の後援をえてミュンヘンでの「走れメロス」の海外公演にこぎつけ、映画、あるいは小説や作詞家として世界的に有名になり、1960年代後半から1970年代の芸能界でももてはやされた。
その後、劇をこわす劇「邪宗門」は海外で評価され、田中角栄首相の後援をえてミュンヘンでの「走れメロス」の海外公演にこぎつけ、映画、あるいは小説や作詞家として世界的に有名になり、1960年代後半から1970年代の芸能界でももてはやされた。
戦後、天皇制家族国家は解体され、家父長制の家制度を廃止した。憲法で,アメリカよりはるかに広範な人権が保証された。家族制度が解体されるとともにそれを支える倫理,文化も消滅していった。国家、家族制度がなくなった後、郷里や家族の間にも確固とした枠組みはなく、自由な個人の生き方が最重要となり、個性の発揮のためには何でも許される、反権力,反倫理が時代の先端となっていく。
この時代の風を受け斬新な寺山作品の短歌や俳句、前衛的な演劇があらわれた。しかし「私はヒトラーに、きわめて愛すべき純粋な芸術青年の一生を見ると」書いてヒットラーを讃え、連合赤軍を讃え、森恒夫の自殺を賛美する稚拙な社会評論や時の首相の援助を求めた行動は評価にとまどう。
この時代の風を受け斬新な寺山作品の短歌や俳句、前衛的な演劇があらわれた。しかし「私はヒトラーに、きわめて愛すべき純粋な芸術青年の一生を見ると」書いてヒットラーを讃え、連合赤軍を讃え、森恒夫の自殺を賛美する稚拙な社会評論や時の首相の援助を求めた行動は評価にとまどう。
寺山修司は意識下のエネルギー、情念を噴出させ、多くの詩、短歌,俳句、演劇,映画などの手段で表現した。言葉の断片は鮮烈だった。しかしそれらを統合する事なく、多重人格者の告白のような言葉を残して47才の若さで亡くなった。
「実在と影とは,同一人のなかで互いに互いを呪縛し合うもののように思える。
自らに終生つきまとう影とは一体何物なのか?」「私はもうひとつの声を聞く他人の口にのりうつった私の声だ。」「人は誰もが彼自身の分身にほかならない」「じぶん,というどくりつした存在がどこにもなく、じぶんはたにんのぶぶんにすぎなくなってしまっているのです。」
ダリアの蟻灰皿にたどりつくまでをうつくしき嘘まとめつついき
一方、明治俳句の改革者である正岡子規もまた父と早く死に別れ夭折した。家族観、故郷、世界観の違いは大きい。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
一方、明治俳句の改革者である正岡子規もまた父と早く死に別れ夭折した。家族観、故郷、世界観の違いは大きい。
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひの糸瓜の水も取らざりき
正岡子規は父親と幼くして死別し、松山から上京し24才で東京帝国大学文学部国文学科に転科進学する。その後、中退して「日本」新聞社に入社した。「日本」は明治政府のすすめる急速な欧化政策に対して、日本固有の伝統文化を重視する立場から反政府的色彩の強い主張を掲げていた。翌年には、松山から母親八重と妹律を呼び,同居することとなる。
子規の生きた時代、明治政府は、近代化路線を突き進み産業、軍事、経済、教育、文化あらゆる領域で急速な変換を成し遂げた。そして,明治22年(1989年)子規22才の時大日本帝国憲法が発布された。
この時期の知識人を含めた,国民に共通する考えを子規も記述している。
小日本の巻頭論文で、「日本は上は仁君たる天皇からその臣下、親、兄弟、夫婦まで,日本人は家族のようにお互いがお互いを慈しみ合う事で皇国を創り上げ,数千年もの長きにわたって、その伝統を保ち続けてきた。それを可能にしたのは、世界に優れた、日本魂である。隣国の中国が儒教の仁義を国家の旨としながら,仁義に欠け、西欧の国々がキリスト教の博愛を国家の理念として掲げながら現実の振る舞いにおいて博愛を欠いているなか、真に仁義と博愛の精神を体現しているのは、天皇を頂点に仰ぐ日本の家族主義的国家とそれを支える日本魂だけである。」
明治になり、江戸時代からの人形文楽や歌舞伎、花鳥風月をよんだ凡庸な和歌や俳句は、古い時代のものとなり、社会的にはそれほど影響力もなく、重要視もされていなかった。日清戦争後、漢文は衰退し、日本語重視が文芸にもおよび、小説では言文一致体へ転換ししだいに社会的地位を高めていった。時代遅れでほろびつつあった俳句も正岡子規により写生という言文一致へ改革されていった。
その後、正岡子規は結核のため病床にふし有名な「歌よみに与ふる書」や「病床六尺」を出している。生活は妹、律の看病に支えられ数え36歳の早逝だった。家族に囲まれ、郷里松山の地域共同体に生き,日本という国家に帰属することに精神の安らぎを見いだし、短歌や俳句をつくり添削し言語革命を最後まで続けた。
故郷はいとこの多し桃の花