2013/08/17

日本的な庭


 庭は自然の一部であり、風土と感性、美意識を反映したものになる。日本で生まれ日本の風土にあった庭は日本的、和式庭園と呼ばれる。
 日本的なものの源流は足利義政に始まる。京都の戦乱をよそに、東山山荘を築き、連歌、茶の湯、生け花、畳のある家や庭園をつくり出した。
 彼の美意識は幽玄、枯淡にあり、禅寺の庭、枯れ山水を創り上げた。銀閣寺の砂の庭が広がり、すり鉢状の砂山に連なる。砂庭の向こうには、月待山があり、ここから月がのぼり、白砂に反射し幽玄の世界をつくる。月夜に輝く銀砂、この幽玄な一瞬が美学の中心にあった。日本的なものの構造の中心には、簡潔さや自然の素材を生かすことであり、現在まで残る龍安寺の石庭や西芳寺の苔寺の庭は日本的美的感覚の頂点に立つものであった。

 江戸時代の代表的建築と庭は桂離宮で17世紀智仁親王、智忠親王によってつくられ、切り石を使った飛び石、桂垣、簡素で直線的な書院や茶室は現在まで日本的庭園、建物の代表となっている。この世界的評価はブルーノタウトにおうところが多い。タウトは桂離宮は機能主義的でこの世で最も美しいものと評価し、一方、日光東照宮は中国明や清の趣味をまねた華麗で、過剰な装飾として評価しなかった。

 明治時代の和風庭園の担い手は山県有朋で、小川直治(次兵衛)の無隣庵に始まる。彼らは日本の西欧化を強力に推進した明治政府の指導者であり、同時に日本主義的な文化の愛好者であった。

 明治にはいり建築や建物、生活様式に至るまでドラスチックな変化を受け、西洋の文化を導入した。建築では、西洋建築を直輸入したものや、和洋折衷の様式、あるいは家の半分を西洋風もう片方を従来の日本式にした建物もあらわれた。庭もまた西洋風庭園と日本庭園を併設させる技法が流行した。
 無隣庵の庭は山県有朋が日清戦争から帰還して、京都東山を借景に自然を生かし、その山水の美を全うするとの考えのもと禅寺の庭ではない、近代的な日本庭園を造った。明治政府は膨大な土木建築事業により琵琶湖の水を運河とトンネルを造り疎水を造り上げた。小川直治はこの疎水から引き込まれた水を利用して瀧をつくり渓流や湖を庭に増設して、苔ではなく高麗芝で傾斜地を埋めた。岩石は横に寝かせ、湖に配置し、植栽は低く刈り込み広々とした空間を新たにつくり出した。その後豪商住友家の庭も小川直治(治兵衛)の手でつくられることとなった。彼の手による庭園は、実業家のステータスシンボルとしての庭となり全国に広まっていった。明治から昭和初期まで広大な日本庭園は彼の手によるものが多くを占めている。
 
 一方、この時期、一般の家庭にも庭は普及し、その洗練された典型例が室生犀星の軽井沢の庭にみることが出来る。軽井沢の雑木林の中に、日本的建物と日本的庭園を造り、コウロギ箱のいえと呼んで、多くの時間をこの庭つくりに費やした。

  きりふかき しなののくにに こほろぎの
  あそぶお庭を 我はつくるも

 室生犀星は芥川龍之介と並ぶ大正文壇の重鎮で、また庭をつくる人として有名だった。紅葉や朴の木などの木陰に苔と石を配置し、日々湿度を保つための水やりと雑草取りを楽しむ、戦後まで続いた日本の家の庭の典型だった。

 戦後になると、まがい物とほんものを区別できる目利きのパトロンはいなくなり、歴史に残る庭も新たにつくられにくくなってきた。 さらに日本的なものは古くおくれたものであるとしてしだいに廃れ、近代的、モダンなものとしてアメリカやイギリスの形式が庭園にも取入れられた。さらに京都の東山、比叡山、北山は京都市内からは見えなくなり、借景は近隣のマンションか電線にさえぎられ、不可能になってきた。さらに戦災をまぬがれた京都に東京オリッピックの開かれた1964年京都タワーが建てられ、1997年京都駅がモダン主義の設計家の手で建てられ街全体がフィレンチェやサンクト ペテルブルグやパリにはなり損ねた。ようやく最近になって、個々の建物、庭だけでなくランドスケープや都市景観が重要との意見が日本でもとりいれられるようになってきた。
 名古屋に白鳥公園が出来、景観設計家、造園家吉村氏による「都市に歴史をもった自然をとりもどす庭」がつくられはじめた。
 濃尾平野の木曽川、長良川、揖斐川の3河川が合流して海にそそぐ様を写した水の流れを河床の石を配置して岩場、水郷,海洋とみたて、流水を速く、ゆったり、狭く、広く流し、巧みな造園技術で、公園という名の新たな日本庭園を創り出した。