島根県安来市にある足立美術館は日本庭園で有名で、最高の日本庭園としてアメリカで評価されています。この庭園にある美術館は近代日本画が多く展示され、特に横山大観は初期の作品から、晩年まで約130点にのぼる膨大な数が集められています。
明治時代は徳川300年の鎖国が破られ、西欧の文明によって日本は文明開化し、亜細亜的な伝統と日本の文明にかわって欧米の社会システムをグローバルスタンダードとして受け入れることによって近代化した。一方、それに反発する国粋的ナショナリズムもおこった。
美術においても、日本画は古いものとされ,多くの水墨画、屏風絵、浮世絵などは海外に流失あるいは二足三文で売られていった。 これに対して、岡倉天心はフェノロサとともに日本の伝統的美術品である水墨画、仏像、陶磁器の復権とそれらを守る運動に奔走した。
1889年(明治22年)東京美術学校が設立され、日本画のみの学校で出発した。その後、黒田清輝を主任に招いて西洋画科が開設された。そして黒田清輝を中心にし、油絵による遠近法を用いた技法をフランスの印象派から学び.日本における西洋画を確立した。この西洋画がしだいに日本での主流となった。
岡倉天心は途中で東京美術学校の校長をやめざるを得なくなり、日本画の伝統をうけついだ美術を指導する日本美術院を起こした。そこで横山大観や菱田春草は学び、日本画の一潮流を形成して行った。
岡倉天心は東洋の理想で、「亜細亜は一つである。ニつの強力な文明、孔子の共同主義をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義を持つインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。雪を頂く障壁といえども、すべてアジアの民族にとっての共通の思想遺産ともいうべき究極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない。」として西欧文明に対するアジアの文化の優位性を主張した。
西欧から学び近代化した日本はアジアの大国となっていった。 大正から昭和時代になると西欧デモクラシーに変わってしだいに日本全体が国際主義から国粋主義的になり、軍国化していった。そしてこの反西欧、反資本主義の波は、横山大観の日本の風土や自然、富士山や大海原、桜をえがいた絵画を国家と民族を象徴するものとし、ついには時代精神と共鳴し、彼を第二次大戦時国家の推薦する日本画の代表に押し上げた。
イタリアでは1922年(大正11年)ムッソリーニが、第一次大戦後社会主義思想による社会の混乱を非共産主義,反資本主義を掲げ大衆の支持を勝ち取り政権の座についた。1930年(昭和5年)横山大観は速水御舟らとそのムッソリーニに会うとともにローマで、1ヶ月の日本美術展を開催し16万人以上の入場者を記録した。
また、ドイツでは1933年(昭和8年)にヒトラーが政権につき、1939年(昭和14年)スペインではフランコ独裁政権が樹立された。ヨーロッパ大陸はこれらの独裁国家が大きな力を持ちはじめた。このドイツのヒットラー総統に横山大観の画「旭日霊峰」が、また中国の汪兆銘に「昇龍」が日本の芸術の成果として贈呈された。
この大アジア主義は昭和に入りアジアでの支配、資源獲得へと方向をかえ、大東亜共栄圏の構想となり、その理論的根拠としての近代の超克が語られた。それは、ヨーロッパの帝国主義的原理からなる近代主義、機械主義の世界秩序を転換させアジアはアジアとして新たな道義的秩序からなる世界へ変更させる世界観であった。
その後,真珠湾攻撃から日米は開戦にいたる。
横山大観は1943年(昭和18年)には大日本美術報国会の会長になり、多くの戦時中の絵画,戦争絵画を生み出した。そのうちの「海山十題」は日本主義の精華として国民の圧倒的支持をうけた。
現在、横山大観の絵画に対する評価は定まっていない。
参考 絵筆のナショナリズム 柴崎信三 著