2014/03/23

日本浪漫派 保田與重郎、亀井勝一郎、太宰治


美しい国日本と日本浪漫派

 
幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこに一つのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて 汚れた木綿の屋根のもと ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が 安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻とゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真ッ暗 暗くらの暗 夜は劫々と更けまする落下傘奴のノスタルジアと  

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
中原中也は明治40年(1907年)生まれる。

「いったい私たちの年代の者は,過去20年間、ひでえめにばかり遭ってきた。それこそ怒濤の葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に,既に私たちの殆ど全部が、れいの階級戦争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。曰くフネノフネ。曰くクロネコ、曰く美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあ賑わい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満州事変。五 十五だの二 二十六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、」と太宰治が描いた。

 太宰治は明治42年(1909年)生まれで、東京帝大を中退し、同年代に明治40年(1907年)生まれの親友亀井勝一郎がいる。彼は治安維持法違反により検挙され投獄、東京帝大は退学処分になる。その後古代、中世の仏教を研究し日本人の精神史を出版,日本の文明論を数多く発表している。戦後も、多くの人生論や、恋愛論がベストセラーとなり、無頼派の祈りで太宰治をとりあげ、昭和41年(1966年)まで活躍し多くの愛読者を持っていた。渡辺淳一は「訪れ」で晩年の亀井勝一郎の闘病生活を題材にした小説を描いている。 

 日本浪漫派の代表保田與重郎も同じ頃明治43年(1910年)生まれで、東京帝大卒業。ドイツ浪漫派の影響下に日本の古典文学や古美術を学び亀井勝一郎らとともに日本浪漫派を創刊し、その中心として思想的影響を当時の若者たちに与えた。後に、太宰治も中原中也とともに、この日本浪漫派に加わることとなる。3人とも同じ時期に在学しその後の日本文壇で活躍した。

 彼らの生きた時代は、幕末以来の西欧文明の圧力の下に東アジアで一等国をめざした明治時代の後半に生まれた。大正から昭和初期に成長し幼いころから自由主義的西欧文化にふれ、青年期にマルクス主義に出会った。青春期以降になると経済の破綻から農村を中心に郷土喪失状態となり、思想は抑圧され、軍が国を動かしはじめ、その一部は閉塞を打破する昭和維新を決行した。

 雑誌『日本浪漫派』は保田與重郎,亀井勝一郎らによって昭和10年(1935年)に発刊された。 「満州事変がその世界観的純潔さを以てゆさぶった対象は、我々の同時代の青年たちの一部だった。その時代の一等最後のようなマルクス主義的だった學生は、転向といった形でなく、政治的なもののどんな汚れもうけない形で、もっと素直にこの新しい世界観の表現にうたれた。即ち『満州国』は今なお、フランス共和国、ソヴィエート連邦以降初めての、別個に新しい果敢な文明理想とその世界観の表現である。」と保田は述べ、

「日本は今未曾有の偉大な時期に望んでいる。それは伝統と変革が共存し同一である稀有の瞬間である。
 蒙彊や満州支那の大陸にいる我らの若者は新しい精神を、現実を、倫理を、発想を、感覚を,未形の形式でつくりつつ、その偉大な混沌の中に日常を生きている。

 彼らは剣と詩によって知識と秩序の変革をはじめたのである。生と死が互いのその肌をふれあっている瞬間が彼らの精神の教育であり倫理の生理である。この広大にして深遠な事件の意味は、選ばれた一国の青年大衆を変革しつつあることである。

 戦争は一個の叙事詩である。恋愛は叙事詩でなく叙情詩の一つである。この時期に我らは物語小説と詩文学を区別する。今は英雄が各個人の心に蘇り,個人が国民と英雄を意識し,己の中にみいだす日である。」ドイツロマン主義に日本の古典文学を織り込み熱烈な天皇主義者、国粋主義者として当時の青年たちに強烈な影響をあたえた。

 保田の日本主義、農本主義的神政理論が、なぜ当時の人々を魅了し,青年達は共鳴したのか。国内では、経済は悪化しマルクス思想は取り締まられ、自由主義思想も衰退した。我が国の農村は疲弊し、若者は都会に憧れ、出かけていってしまう。時代は閉塞し、満州国建国は希望となった。古典を復活させ喪失した故郷を回復し、この自然村落共同体からなる美しい日本を復活させようとするものが日本浪漫派の主張にあった。

 太宰治は鎌倉での自殺を題材にした『狂言の神』で「今の私の豊沃をいったい,誰におしへてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮かべなんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のその後ろ姿を思ヘば,こんどは私が泣きたくなって、   だんだん小説がむづかしくなって来て困ります。」と2人のこころの通い合う場面が描かれている。

 気質も天びんもことなる保田と太宰の間の共通点は同じ時代に同じ世界で学び、時代の風をうけた滅びの感覚であり,自暴自棄的な心情であった。いいかえれれば、日本浪漫派が当時の日本人の気持の代表であった。