2015/11/17

パリの異邦人 高村 光太郎


秋は喨喨と空に鳴り
空は水色、鳥が飛び
魂いななき
清浄の水心に流れ
こころ眼をあけ
童子となる

多端粉雑の過去は眼の前に横はり
血脈をわれに送る
秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
地中の営みをみづから祝福し
わが一生の道程を胸せまって思ひながめ
奮然としていのる
いのる言葉を知らず
涙いでて
光にうたれ
木の葉の散りしくを見
獣の嬉々として奔るを見
飛ぶ雲と風に吹かれる庭前の草とを見
かくの如き因果歴々の律を見て
こころは強い恩愛を感じ
又止みがたい責を思い
堪へがたく
よろこびとさびしさとおそろしさに跪く
いのる言葉を知らず
ただわれは空を仰いでいのる
空は水色
秋は喨喨と空に鳴る

         
秋の祈り 高村光太郎


  高村光太郎は、1883年(明治16年)江戸下町の庶民、彫もの師高村光雲の長男として東京に生まれる。24才で、アメリカに旅立ち、そしてフランスに留学し27才で帰国。西欧の詩や絵画、彫刻を学び、とりわけロダンの作品に響鳴しロダン的西欧彫刻を目ざした。「彫刻には独創はいらない、生命がいる。そこには理想主義はありません。メチエ(手仕事)しかありません。メチエがすべてです。」

 留学で芸術の世界性の感覚を学ぶと同時にこころの中に超えがたい人種の壁が刻みこまれた。

 ロダンの彫刻は日本では白樺派の自然調和の芸術運動に影響を与えていた。高村光太郎もパンの会の仲間たちとふるくさい日本を打破し、芸術界に反旗をかかげ、日本的なもの、盆栽的技巧の芸を否定し、江戸時代から続く彫りもの師から脱出し「根付けの国」の文化も否定し、本物の芸術をめざした。

 そして「道程」などの詩を発表し、その後「智恵子抄」を生み出した。世間を省みず世間に反発し、心のおもむくままに2人の孤立した生活送り続けた。
 
   高村光太郎の父、高村光雲は「幕末維新懐古談」でその時代を語っている。
1852年江戸時代の生まれの江戸育ち。江戸下町の庶民、木彫師であった。その江戸時代には木彫は決まりきった種類の小さい作品ばかりになっていたものが、明治時代になり、国外からの注文もあり、しだいに大型の彫り物そして仏像をつくるようになり彫刻を家業としていた。明治10年頃の排仏棄しゃくの運動で仏師は苦境にたたされた。
 1887年(明治20年)になり東京美術学校ができ、彫刻科は木彫が主流で光雲はその教師となる。その後楠公像西郷隆盛像の木型製作主任となり、銅像制作に加わる。木彫の狆や矮鶏、老猿は代表作として現在も残っている。




 
 大正から昭和にかけ、人生そのものが平均的日本庶民を代表し、その気持ちを先取りして、実行した人物がいる。平凡社の下中弥三郎で、1878年(明治11年)生まれ,教育者として人生をスタートし、1914年(大正3年)出版社平凡をつくり、その後雑誌「平凡」を発刊する。
 下中の主張は次々と変遷していく。初期は教育者として子供至上主義、女性礼賛を主張し、大正自由主義として大正デモクラシー、労働運動にかかわり活躍する。さらに昭和にはいり農本主義から国家社会主義、戦時にはアジア主義者として、1933年(昭和8年)には大亜細亜協会を設立し、超国家主義へと変貌を遂げていく。日本の大正から昭和にかけての流行思想そのものを体現したかのような人生をおくった。


 高村光太郎は彫刻を作り、絵を画き、詩を書いた。やがて、父親が亡くなり智恵子と死別し、時代は戦争に進みつつあった。1938年(昭和13年)生活そのものが芸術作品のような人の生活が終わり、日本の社会に直面した高村光太郎の近代意識、個人の確立に辛苦し到達した芸術家としての矜持は、一気に崩れ去った。芸術の世界性は忘れ去られ、下中流庶民的流行主義者と同じ地点、古い日本の村落共同体を支えていた昔を思い出しその心情にもどった。留学時代の西欧に憧れつつ同化できない東洋の異邦人、極東の日本人に回帰した。

日支事変について

 長い間支那南北を争わせて
 漁夫の利をせしめていたのは誰だ
 今又日本と支那とを喧嘩させて
 同じ利をせしめようとしたのは誰だ

 わが日本は先生の国を滅ぼすにあらず、
 ただ抗日の思想をほろぼすのみだ。

と書いて中国大陸における事変は米英とそれに後押しされた南京政府との戦いであり、アジアでの戦いは、主観的には西欧に対するアジアの解放、反撃の戦いと描きアジア主義者と同じ地点にいた。

そして「天皇あやふし。ただこの一語が 私の一切を決定した。」と多くのモダニズム作家やプロレタリア作家と同様に庶民的天皇主義と共鳴しあう地点へと収斂していく。

 記憶せよ、12月8日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジャパン、
 眇たる東海の国にして、
 また神の国たる日本なり。
 そを治しめしたまふ明津御神なり。
 世界の富を襲断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。

 敗戦後、下中は公職を追放。その解除後,平凡社の世界大百科事典など多くの事典の出版を続けながらふたたび社会運動にのりだしていく。世界国家運動で、軍備を放棄し、世界国家をつくろうとするものだった。
 
 高村光太郎は岩手県花巻市の郊外の山小屋で、一人で自給自足の生活を始めた。人間社会から隔絶し自然のなかの独居生活を送った。その痛恨の心情を「暗愚小伝」や「脱却の歌」に吐露し、「この特殊国の特殊な雰囲気の中にあって、いかに自己が埋没され、いかに自己の魂がへし折られていたかをみた。」と自責。人とのかかわりを拒否し、自然の偉容を感じ、自然と一体化し宗教家のような生活を送り、美の、芸術の製作に再び没頭した。

 生命の大河ながれてやまず、
 一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて
 ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ。
 時間の果つるところ即ちねはん
 ねはんは無窮の奥にあり、
 またここに在り
 生命の大河この世に二なく美しく、
 一切の物ことごとく光る。

とうたいこの世を去った。