2009/09/27

ベトナム戦争と開高 健


開高 健のベトナム戦争

 “それぞれの国には、それぞれの土の匂いがする、 ベトナムの匂いはすべてニョク マム”で始まる ベトナム戦記を開高 健が1965年に発表。

 

 サイゴンの北にある森林地帯の共産軍(ベトコン)連帯司令部の破壊の作戦はベン キャットの名で呼ばれ、その南ベトナム軍による掃討作戦に同行し、ベトコン側の猛攻をうけ、200人の南ベトナム軍の第一大隊のうち生き残ったのは作者の開高健と秋元カメラマンを含め17人だった。

 

 この従軍体験を描き当時話題になった“ベトナム戦記”は、1964年から65年にかけて週刊朝日に連載されたルポをまとめたもので,当時のサイゴンの状況を報告しています。

 彼は多くの庶民、軍人、政府高官,アメリカ兵の話を聞き、混沌とした状況から真実をつかみ取ろうとしたルポルタージュを連載、今さらながら的確に未来を正しく予感していることに驚かされます。

 その時期、ベトナム戦争はまだ南ベトナムの小規模な内戦でした。その後、北ベトナム共産勢力対アメリカの戦争になり、やがて南ベトナム政府軍は解放戦線に破れることになります。すでにこのルポの中にその予想が書かれています。このベトナムの戦場の体験を題材に“輝ける闇”と“夏の闇”を小説化し戦場の現実、虚構でない人々の真実を描きました。

 ベトナムの歴史は被支配者との戦いの歴史で,1000年以上前から中国の圧力をうけ、19世紀にはいってからは、イギリスとのインド植民地化に対抗してフランスが1887年フランス領インドシナ連邦をつくり現在のラオス、カンボジアとともにベトナムは植民地化されました。

 1940年に日本軍が仏印に駐留しフランス軍を武装解除し。その日本軍が撤退すると、かつての植民地の再支配をねらうフランスと民族解放の抵抗運動がおこり、第一次インドシナ戦争と呼ばれています(1946年から1954年)。そのころの反植民地の戦いに参加した人はベトミンと呼ばれ、少数ながらその中には旧日本軍の兵士もいて、彼らを訓練,指揮していました。

 1954年ベトミン軍がフランス軍の拠点デェンビエンフーを陥落させ,フランスはベトナムから撤退。ジュネーブ協定で17度線の北と南にベトナムは分割されました。

  その後フランスに変わってアメリカが共産化のドミノ理論を唱え、南べトナムに軍隊を派遣しました。第二次インドシナ戦争(1960年から1975年)とよばれ,このルポの発表された1965年頃はまだ東南アジアの小さな国の内線が激しくなっている時期でした。

 やがてアメリカの北爆から、アメリカ正規軍投入、枯葉作戦、最新兵器を使い、対ゲリラ作戦を実行した10年にわたるベトナム戦争が1975年サイゴン陥落まで続くことになります。

 開高 健は“裸の王様”で芥川賞を受賞し、“青い月曜日”で自伝を描き、虚構の文学ではない、現実の中の正真正銘の人間を描く文学を生み出しました。1974年以降は、fishingで世界を飛び回り、“もっと広く”“もっと高く”“オーパ”などで釣りと人生と旅を謳歌しました。

ダナン ラング


ダナンラング

 ショック肺(ARDS)は,胸部外傷を伴わない重症の外傷患者にみられる進行性の肺の病変で、これがおこることは,第一次世界大戦の頃から知られていました。

 世界中に広く知られるようになったのは,ベトナム戦争のダナンの戦闘で、多くの症例が報告されてからです。戦場での外傷に対して,大量の輸液によってショックから生還する症例が増えてきたものの、原因不明で受傷後2から3日後に急性の呼吸不全がおこり死亡する症例が増えてきました。この激戦地の名前を冠してダナンラングと呼ばれ、一般にはショック肺(ARDS)として知られています。

 現在ショック肺あるいはARDSは人工呼吸器を使い,PEEPをかけ多くは救命できるようになりました。人工呼吸器は1960年代に使われ始め、息ができなくなった時、そう管といって、気管にチューブを入れ、それをとおして、空気を器械的に肺に送り込む装置です。それによって、肺に酸素は運ばれ、炭酸ガスが吐き出されます。原理は比較的簡単で呼吸を自分でする代わりに、器械をつかって外から酸素の混じった空気をふいごの原理で規則的に入れてやるわけです。

 今回の新型インフルエザでも,急速にウイルス性肺炎が進行し、肺不全 (ARDS)が悪化する症例がみられ、救命には、人工呼吸器が必要になります。現在乳幼児も使える新生児用の人工呼吸器は全国に3859台で、一度に多くの患者が罹患した時の人工呼器が不足しないように対策がたてられていま

2009/09/06

南方へ 金子光晴の放浪記




金子光晴の放浪記




古靴店

赤、青、黄の強い原色の郷愁(ノスタルジヤ)
濡れた燕がツイツイと走る5月の雨空、
狭い港町の、ペンキの板囲した貧しい古靴店がある。
店一ぱい、軒先にも、店にも、はげすすけた古靴、破れ靴、
大きな泥のままの長靴や、戯けた子供靴迄
すべて、この人の生に歩み疲れ、捨てられたものらの
朽壊れた廃船舶が聚っている。
 おお、悲しい哀傷的な港景だ。
人情よ、零落の甘さ、悔もなさ、慕しさよ。
俺は、只俺の人生が泣きたくなった。

 金子光晴 1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりの最初のヨーロッパ旅行の後、「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する、関東大震災のあと、「こがね蟲」でうたったヨーロッパの美意識の世界は崩れ去る。1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。

 その時の旅行記「マレー蘭印紀行」は1940年(昭和15年)に出版された。その後、「どくろ杯」で婦人の森三千代の小説を下敷きにして、中国放浪紀を書いた。続編の「眠れ巴里」がフランスでの2人の貧乏生活と巴里の日本人を描き、最後に「西ひがし」で3部作を完成させ昭和60年代から70年代に出版した。これらの紀行文は戦前の中国、アジア、ヨーロッパ、西と東の放浪記だった。

 
 最初に上海、シンガポールをおとずれる。戦前の国際都市上海の当時の混乱と猥雑ぶりを「上海は1つのかくはん機だ。ひきずりこまれた人間どもは混血となる。」
 マレーでは、日本の夏よりも高温多湿の植物、動物の生命のあふれるゴム園に滞在し マレーシアのバトパハにしばらく滞在した。
「パンジヤル マシンをのぼり
 バトパハ河をくだる
 両岸のニッパ椰子よ。
 ながれる水のうへ
 静思よ。
 はてない伴侶よ。
 文明のない、さびしい明るさが
 文明の一漂流物、私をながめる。
 胡椒や,ゴムの
 プランター達をながめたやうに。」

                       ニッパ椰子の唄



また、スマトラ島のメダンでは
「ジャワの風景は、鋤きかえされた陸田、ひび割れた土塊の骸ろである。馬来半島は、明るい雲雲の変化にみち、人間は軽薄な文化に憧れている。ここ、スマトラにわたってみると、老樹はいたるところに陰影をつくり、じぶんの室のなかにいても、くろぐろと繁茂するものの、ひそまりかえったしずかさが徹えてくる。
 おなじ植物でも、ここの植物は、すべて,そのうまれそだちが粗暴で、強力で、みのたけがずぬけてのっぽで、縦横無尽、おもいのままないきかたで、密生している。スマトラの自然は、いつも樹木の下陰になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
 阿蘭風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるのにほかならない。」

 放浪の旅から得たものは、みずからの古い日本を否定し、エトランゼとしての見方を身につけた人間になったこと。そして多くの文学者のように、日本を、昔を思い出し回帰することなく、たったひとり、うしろむきのおっとせいとなった。


   フランスをおとずれた人たちの中にはそれで箔ををつけて日本での生活の糧にする人がいた一方、金子光晴と三千代は底辺の生活を経験し、貧しい社会の底辺に暮すフランス人や外国人の生活を見て人間のあり方そのものを見出した。人種や国籍が違ってもその中に、日本人との差異より人間の中の同一性を見いだした。

 
珊瑚島

 「うつくしいなどと言う言葉では言い足りない。悲しいと言えばよいのだろうか。
 あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界に見える。」
「人間生活や意識に何のかかわりもないこんな島が、ひとりで明けはなれてゆくことを、暮れてゆくことを。人類世界の現実から、はるかかなたある島々を、人々は、意想イディアとよび無何有郷ユートピアとなづけているのではあるまいか。」