2009/02/23

へルマンヘッセと第一次大戦

ドイツにおける魂の再生

 

 19世紀後半、ドイツは,まさに勃興する国、ヨーロッパの強国になる時代で、活力有る国民が近代的制度を充実させすみずみに青春の精気がみなぎっているといわれたときでした。

 

 その時代の代表的作家が 1877年南ドイツのガルフに生まれたヘルマン ヘッセです。ヘッセは4歳からはバーゼルにうつりました。プロイセンがこの地バーゼルなど南ドイツも併合し大ドイツ統一期を造り上げた時期にあたります。

 

 1870年ビスマルクのもとで普仏戦争に勝利しその後しばらくは,大規模な紛争はなく、工業や技術が急速に進歩した時代でした。

 

 後にウエルビー卿が1914年に“我々が覚えている1850年代のドイツはとるに足りない連邦の集まりで,とるに足りない君主が治めていた。だが,一人の人間の生涯の間にドイツはヨーロッパ有数の大国の一つとなりなお成長を続けている。これだけをとっても,1890年以降の半世紀にわたって“ドイツ問題”世界政治の悶着の種となったことは不思議ではない。

 

 と述べたごとく、第一次大戦前にはドイツの工業力はイギリスを追い越し,フランスやロシアの約2倍に達していた。そして,列強の力関係をくつがえすほどの物質的資源を手にしていました。

 

 ヘッセは、その後“郷愁“(1904年)”“車輪の下”(1906年)“春の嵐”

を発表。

 

 ヘッセ37歳の1914年夏第一次世界大戦勃発。軍務に志願するも、おお友人たちよ、その調子はやめよ“を出版し、ドイツの中央権力は自分たちの為でなく,ヨーロッパ文化全体のためにも未来に生き残る為の戦争を遂行せねばならない。としてドイツに対する愛国心と戦争に対する反対の共存する立場を表明し、フランスのロマンローランはそれに賛同をしました。

 その後、ドイツは破れ、大戦後には、ロシア皇帝は廃位し社会主義国ソヴィエト連邦になり,ドイツ皇帝も廃位しワイマール共和国に、オーストリア ハンガリー帝国は消滅しました。又イタリアの皇帝もムッソリーニの指導する国家社会主義にとって変わられました。

 

 大戦後のヨーロッパに対しては“友愛”の言葉を掲げヨーロッパ諸国

民の分裂修復を唱え、1919年“デーミアン”を発表。戦後ドイツ精神の魂の復活をデーミアの言葉に見いだし、多くの若者たちの賛同を得ました。

 1913年に旅行したアジアの印象をもとに、“シッダルタ”(1922年)を出版。もともと母親は宣教師としてインドに出かけた時,インドの地で生まれ、それを辿る旅行でもあった。その後も“ナルチスとゴルトムント”(1930年)などの小説でさらに人気を博した。堅実で社会に適合した人物と反社会的であるものの情熱的で奔放な生活を送る人物を対比して登場させ、複雑な人間の心の中を描きだしています。

 

 ナチス政権下では,スイスに居を移し,反戦を訴え、1946年ノーベル文学賞を受賞しています。

 


2009/02/22

藤村と第一次世界大戦

まだあげ初めし前髪の

林檎のもとに見えしとき

前にさしたる花櫛の

花ある君と思ひけり

 

やさしく白き手をのべて

林檎をわれにあたへしは

薄紅の秋の実に

人こひ初めしはじめなり

 

     島崎 藤村   若菜集 1896年発表

 

その後“破戒”や“家”で自然主義作家として、有名になる。

1913年4月42歳のときフランスに留学。

 

 その時代のフランスは、1870年普仏戦争に敗北しその後,海外の植民地を巡ってイギリスと衝突をおこし、アフリカ、インドシナなどにイギリスに次ぐ広大な植民地を手に入れていました。その後、イギリスと和解しロシアとは同盟を結んでドイツに対抗していました。

 

 ヨーロッパは、20世紀初頭 ドイツの台頭があったものの、社会民主主義が主流で戦争は起こらないと思われていました。しかし、“チボー家の人々”に詳しく描かれているように、ジョレスが暗殺され、その後ドイツやオーストリアーハンガリー帝国との戦争第一次世界大戦に突入しました。

 

 1913年4月42歳のときフランスに留学した藤村は、第一次大戦中もフランスに残り,東京朝日にフランス便りを書いています。

 1914年8月3日ドイツがフランスに宣戦布告。このときの報告は“パリにみるべきものの少ない時は今です。あらゆるミューゼを始め、パンテオンの戸も閉ざされ,番人は去り,いっさいの美術庫に固く錠のおろしてある。”

 

 そして,篤志看護婦の題で、“アストリアのホテル、その石造の大建築物の屋上に高く旭日旗が翻って行来のひとのいきつつあるのは,フランスに派遣された わが日本赤十字社救護の働いている場所です。”パリのホテルアストリアを拠点に約1年半に亘り,日本赤十字社が負傷者の救護にあたったと報告しています。

 帰国後、父親をモデルにした歴史小説“夜明け前”を中央公論に連載。自然主義作家としての地位を確立し、1941年には、東條英樹陸軍大臣の戦陣訓の文案作成にも参画しています。

 

2009/02/15

スペイン風邪

昔から戦争における死者は実際の戦闘によるものより、戦病死が圧倒的に多いのが通例でした。不衛生な環境で密集した生活の場では、感染は蔓延し多くの死者を出していました。

 

 また、食事による低栄養も問題でした。日清戦争時、脚気による死者4000人に対し、戦闘ではわずか293人の死亡。日露戦争では約2万8700人の脚気による死者に対して、戦闘では4万7000人の死者をだしています。海軍においては麦飯採用によりビタミンB1の欠乏を補ったため脚気はまれなことになったものの、陸軍は白米供給を続け多くの脚気患者と死者がでました。

 

 1914年に始まった第一次世界大戦では、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザが世界中に蔓延し、老人よりむしろ壮健な若者が多く死亡した特異な新型のインフルエンザでした。

 

 当時協商側に後から参戦したアメリカは、陸軍医療衛生部隊が活躍し良好な衛生状態を保ち兵士も良好な健康状態でした。

 しかし、1918年8月になり、フランス戦線に送り出される兵士のキャンプで、はじめてインフルエンザが発生、急速に流行、たちまち兵士の20%から30%が活動不能になり、毎日100人近くが重症の肺炎にかかり死亡しはじめました。この軍事訓練のキャンプでは、結局兵士の3分の1にあたる1万7000人がインフルエンザにかかり、787人が死亡し、十分な訓練はできない状態においこまれていきました。

 

 1918年秋から終戦までに船でヨーローッパに運ばれた12万9000人の兵士のうち2000人が船中で亡くなり、又上陸後9月10月11月の3ヶ月でアメリカ軍だけで約1万人の兵士がインフルエンザによる肺炎で死亡しています。これと同様の感染がイギリス、フランス、ドイツ兵にもおこっていました。

 

 1918年9月から1919年6月にかけて、結果的にインフルエンザで死亡したアメリカの兵士は、戦闘で死亡した兵士とほぼ同数になり、そして、アメリカ市民の死亡者数はその10倍の67万人以上になりました。同じ時期日本でのスペイン風邪による死者は48万人に上り、世界中では、戦争での死者の2倍の3000万人から4000万人が死亡したと推定されています。

 

 一般の風邪もインフルエンザもヴィールスによる呼吸器を中心とした感染症ですがそれぞれ全く症状も重症の程度も違っています。

 インフルエンザは急に熱がでて、典型的な場合高熱で関節の痛みや全身の症状が強くでます。そして、まれに高齢者や子供で死亡することがあるもののそれほど致命率の高いものではありません。スペイン風邪のように20歳から30歳の壮健な人の肺をおかし、肺水腫状態から高い死亡率をもたらし,感染力の強い悪性のインフルエンザは非常にまれなことです。この新型の悪性インフルエンザがどのように発生したかは未だ不明です。

 

 インフルエンザヴィールスは表面にHNの突起をもっていて、これの型によって、Aソ連型などの名前がつけられています。人から人にこのヴィールスが感染していく過程で,突起が変異して、感染力の強い、しかも死亡率の高い悪性のインフルエンザに変化した可能性が考えられています。

 

 現在、世界各地で散発的にみられる鳥インフルエンザが、もし人から人への感染力をもった新型インフルエンザになったら、一気に世界的な大流行をおこし、1918年のスペイン風邪と同様のパンデミックがおこるのではないかと恐れられています。

 

2009/02/02

医師チエホフ結核で死す

 1853年、ロシアはオスマン帝国に軍隊を派遣し、それを支援したフランス、イギリスと衝突しました。 その後の19世紀後半は、帝政の下に改革を進めるも、混迷を深め、ロシア革命へと時代は動いていきます。この帝政末期に向かう1860年には農奴が解放され、1877年ロシアトルコ戦争、1881年アレキサンドル2世暗殺。そして、1904年日露戦争、この後、1917年の革命よって、皇帝ニコライ二世を最後に300年のロマノフ王朝は幕を閉じることになります。

 

 1860年生まれのチエホフもまたこの帝政末期の代表的作家で、コナン

ドイルや森鴎外とほぼ同時代の生まれです。

 1884年モスクワ大学医学部を卒業。同年モスクワに開業。その2年前にはアレクサンドル2世が暗殺され、ナロードニキ運動などの反政府活動は押さえ込まれ専制政治はより強化されていました。

 この頃のロシアは工業化され軍事力は巨大なものの、階級社会で、地方の貴族階級も農民も没落し都会には浮浪者があふれ、識字率は30%にも達せず、文明国とはとても言えない状況でした。

 1890年30歳のときに極東のサハリンを訪れ新聞紙上に“シベリアから”を連載する,それをもとに“サハリン島”を発表し、流刑囚の悲惨な生活を描きました。社会活動をおこないつつ作品を次々発表。

 

 トルストイが散文におけるプーシキンと呼んだように、主人公は平凡な人で、思想を表に出さず,淡々とした日常を描き、芝居がかったドラマチックな作為性を排除し、短編小説の改革者となりました。

 

 また有名な戯曲の“かもめ”(1896年)のなかで、

この不変性のなかに、ひとりひとりの生死にたいする全き無関心の中に、ひょっとすると、われわれの永遠の救いや地上の生活の絶え間のない動きや絶え間のない向上を約束するものがひそんでいるかもしれない。

 “三人姉妹”(1900年)では、

すでに生きてしまった一つの生活はいわゆる下書きで、もう一つの分が清書だったらねえ。

 桜の園(1904)では,貴族階級の没落とやがてくる新しい時代の登場を淡々とした日常場面の中で描いています。人間に対する洞察力の鋭さ、社会的不正義の批判を短い台詞に込めて、今でも世界中で、演じられています。

 

  1904年日露戦争に健康が許せば、軍医として極東に行きたいと語っていました。しかしその願いはかなわず同年44歳の若さで帝政ロシアの崩壊をみること無く結核で死亡。

 

 日露戦争に対し、皇帝に批判的なトルストイは非戦論、“なんじら、悔い改めよ”がロンドンタイムスに掲載されています。チエホフの活躍したのは,ナロードニキ運動が弾圧されたあとの時代で、無思想の思想のような劇や小説が生まれた背景もこの時代を反映しています。ロシア社会民主労働党が誕生したのは、1898年でした。