2018/10/21

シッダールタ   魂の遍歴   ヘルマンヘッセ

シッダールタ                                  インドの詩

                             ヘルマン ヘッセ

 家の陰で、小ぶねのかたわら、川岸の日なたで、沙羅の木の森の陰で、イチジクの木の陰で、シッダールタは、バラモンの美しい男の子、その友でバラモンの子なるゴーヴィンダとともに、おいたった。父は、むすこの中に偉大な賢者、司祭、バラモン族の中の王者たるものが成長しつつあるのを見た。
 やがて、ゴーヴィンタとともに、沙門たちのもとで、静思し、断食し、瞑想によって、苦行を通して滅我の道を歩んだ。心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我でない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。

 やがて、仏陀の教えを聞いた。苦悩について、苦悩の由来について、苦悩を除く道についての教えを説くのを聞いた。ブッダは四諦を教え、八正道を教え、仏陀の道を行くものは救われると説いた。友ゴーヴィンタはその道に帰依した。

 シッダールタは友と別れ、改めて遍歴の旅に出た。そして彼は気づいた。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分にたいして不安をいだいていた、自分から逃げていたということから来ている。真我(アートマン)を自分は求めた。梵(ブラフマン)を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらにはごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった。」
 意味と本質はどこか物の背後にあるのではなく、その中に、いっさいのものの中にあった。

 シッダールタの覚醒へ至る道を、自らの精神遍歴に重ね合わせ、「インドの詩」の副題で1922年に刊行された。この物語の第一部は、尊敬する友 ロマン ロランにささげる ではじまる。

 ヘルマンヘッセは1877年、南ドイツのカルフに生まれる。プロテスタント宣教師の父と、インド学者でやはり宣教師の娘の子供として生まれる。祖父と母と父は三人とも長くインドに暮らした。祖父のガラス戸棚の中に、インドの小さな踊る偶像の姿をして立っていた牧神バンによって育てられ、インドの仏像経典、織物に囲まれ、仏教の祈りの文を父親から聞いて育った。
 少年時代、南ドイツ、シュヴァーベン地方のシュヴァルツヴァルト(黒森)の古い街で、「美しく多彩な世界と戯れ、動物や植物ばかりか自分自身の空想や夢のジャングルでもあらゆる所を我が家とし、自分の力や才能を楽しみ、燃えるような願いに焼き尽くされることなく、むしろこれを謳歌した。」

 1870年代は、勃興するドイツの時代で、ビスマルク宰相によって、ヘッセの暮した南ドイツは合併され第二帝政ドイツとなった。その後ウイルヘルム二世の時代に、ドイツはヨーロッパ大陸の覇者から、さらに当時のイギリス帝国に対抗すべく海軍を増強し世界に展開し始めた。それに対抗してイギリスはチャーチルが海相になっ海軍の拡大と近代化を始めた。
 帝国の工業化、強国化の時代、当時のドイツ国内では、キャンプファイヤーを囲みギターを弾き、徹夜で議論したりするワンダーフォーゲルなどの自然の中の文化運動が青年たちの心を捉えていた。1904年「郷愁(ペーター カーメンツイント)」は青年の心の成長と感覚と、自然の雲や空への憧憬を小説にし、発表した。1906年にはヘッセ自身の経験を、なりたいと思っていた理想の人と、現実の自分自身を二人の人物に分割し、彼らの成長を詩的文体でつずった「車輪の下」を出版し、ドイツの詩人、ドイツ精神の騎士と言われるようになった。

 1914年そのドイツは第一次世界大戦に突入した。ヘッセはベートーベンの歓喜の歌の導入「友よ、そんな調子でなく」を使って、戦争に同調し、愛国心をあおり戦争の至福をうたう詩人、戦争賛美の作家たちに、ペンで 扇動する事をやめようと訴えた。しかしドイツの多くの友人、新聞など出版者はヘッセを攻撃し、ヘッセは孤立した。その時フランスの小説家ロマン ローランはやはりフランスで反戦を訴えていた。ヘッセを称賛し、彼の自宅を訪れ、その後、長い友情を結ぶ。
 当時をヘッセは「そこへあの1814年の夏がやって来た。突如として内も外もすべてが一変したようだった。あの当時、私が他の人々と違っていたのは、たんにあんなにも多くの人々がもっていたあの大いなる一つの慰め、すなわち熱狂が、私には無縁のものだったということだけである。」と語っている。
 
 27歳の時、ショウペンハウエルの哲学の探求の時、インド思想に再び出会った。「鳥は卵から出ようもがいていた」そしてユングの精神分析による意識の変革でその殻を破り、インド思想を元にした、シッダルータの構想が1919年にできた。この時期に、以前の自然観察者から内面世界の観察者となり、夢を言葉で描き、魂の動きを目に見えるように言葉にした「内面への道」の小説家に変貌した。 
 同じ年、エミール ジンクレーアの著者名で「デーミアン」を発表した。第1章に「2つの世界」の表題をつけた。明るい世界と対立する闇の世界をジンクレーアとデーミアン二人の少年の心の葛藤(カインとアベル)と成長、救済をもたらす聖杯への歩みを描いた。カインは悪でなく善と悪を超えるものとデーミアンが教え、グノーシス派のアブラクサス神話を遍歴し、デミアンという幻影のような青年をうんだデーミアンの母にたどり着く。ジンクレーアは最後は戦争で瀕死の重傷を負い、人類について鮮明な幻覚をみる。

 デーミアンはキリスト教徒であるヘッセ自身の精神の自叙伝である。それは第一次大戦に敗北したドイツの若い世代に、不気味なほど正確に時代精神を射当てた作品として受け容れられた。

 シッダルータはキリスト教的な世界とは異なる仏教の物語で、悟りに至るひとりの聖人の心を描いた。第一部はすぐに完成した。
 第2部は3年後の1922年になり形をなした。シッダルータはカマーラと出会い、世俗の商人とともに働き、世俗の欲望、愛憎の世界を経験した。街から離れ河のほとりについた。渡し守になり人々の煩悩の中に梵を見た。そして完成(オーム)を知り、生命の流れと一致した悟り、万物の流転に身をゆだね、宇宙と一体となる悟りに達した。


 そして、再び老いたゴーヴィンタと再会し悟りを、涅槃(ニルバーナ)を語った。一切衆生の中に隠れた仏陀がある。世界は瞬時、瞬時に完全であり、死は生と、罪は聖と、賢は愚と見える。世界をあるがままにまかせ、世界を愛し、喜んで世界に帰属するために多くの世俗を体験したことを。
 老いた友ゴーヴィンタはシッダルータの顔に輪廻転生の幻影を見た。そして老いたゴーヴィンタの顔に涙が流れた。シッダルータの微笑が彼にとっていつか生涯のあいだに貴重で神聖であったいっさいのものを思い出させた。

 インドの僧のリズムを取り入れたこの長編叙事詩は世界中で翻訳され出版された。
 特にアメリカではヘンリーミラーが「世に認められている仏陀を凌駕するひとりの仏陀を創り出すことをそれがひとりのドイツ人によってなされた。シッダールタは私にとって新約聖書以上のもの」と絶賛。若者のバイブルとなり500万部以上発売された。

 その後、ドイツは再び戦争に向かい破局を迎える。第二次世界大戦後の1947年、ヘルマンヘッセにノーベル文学賞が与えられた。

 

2018/10/01

脱脂粉乳と鯨肉 

GHQサムス准将の医療改革 

 終戦後の1945年(昭和20年)日本は極端な食料不足に陥っていた。日本の大都市で1月に餓死者が数10人、上野公園では1日に6人が飢えて死んでいると報道された。住むに家なく、着るに衣服なく、食うにコメなしとして、皇居前広場には食糧メーデーで大群衆が押しかけた。

 当時日本には中学生504万人、小学生1351万人あわせて、2,000万人いた。しかし、日本の国内には食糧はなく、世界中でヨーロッパ、やアジアの国々も食糧難であった。GHQのサムスは学校給食は子供たちの成長を促し、伝染病への抵抗力をつけ、また子供から栄養の知識が伝わることによって大人にも体力がつくとの考えからアメリカでの牛乳に目をつけ、保存できない生の牛乳を、脱脂して粉乳としてアメリカから安く輸入する方法を考えた。さらにアジア救済連盟を通して、小麦などの食糧をアメリカから輸入して、給食に使うことが決定し、1946年(昭和21年)の11月に学校給食開始が決まった。その中には、米軍の保有していたトマトジュースなどの野菜、そして捕鯨を再開して鯨肉をたんんぱく源として給食に使った。1948年(昭和23年)には、600万人の子供達に給食が行き渡った。そして、コッペパン、脱脂粉乳、鯨肉の学校給食は戦後世代の共通の記憶となった。

 日本政府は戦争中、世界に冠たる日本独自の医学を打ち立てようとして、1938年(昭和13年)厚生省をつくり、開業医中心の病院医療を公的医療機関を中心にするなど、政策の変更を図った。そして、全国に46校の医学専門学校をつくった。
 戦後GHQのサムスは日本の医療制度に対して、大学医学部と医学専門学校の2種類が並存し、医専は教育の質が低く、研修するべき付属病院を持たない速成医師養成機関であるとみなした。また、世界的にみれば大学医学部も入学時の年令の低いこと、医学部教育期間の短いこと、資格試験のないこと、卒後研修のないことが問題にした。
 この制度を改革するためにアメリカの制度をもとにして、改革案を提示した。医専は17校が廃校となり、29校が医学部となった。そして医学部は学士修了者のみメディカルスクールに入学する案が提案された。しかし、日本側の反対で、現在と同じ6年制になった。医師国家試験は1946年(昭和21年)から開始され、インターン(臨床研修制度)も取り入れられた。

 戦争中、外国の医学雑誌は輸入されなくなった。この遅れてしまった医学の復興のため、戦後、3年間は医学のあゆみなどにアメリカ政府の許可で著作権を無視し、アメリカの医学報告の和訳が載せられた。そして1946年(昭和21年)には米軍病院の進んだ医療機器の展覧会を日本医師会館で開かれ、それをモデルに日本でも新しい医療器械が作られるようになった、
 物資不足のためか、中世並みと言われた日本の病院改革も行われた。当時、ガーゼは消毒されず洗濯され、軍手で手術を行っていた。1947年(昭和22年)サムスは厚生省の附属機関として、国立東京第一病院の中で「病院管理学校」を開き、全国の病院長を集め、病院経営の教育をした。 そして戦後、日本の医学界はドイツ医学に代わってアメリカの医学を急速に取り入れることになった。

 戦後、日本中で天然痘やコレラ、チフスが蔓延し、性病や結核も流行していた。これを撲滅するため水道の塩素消毒、DDT噴霧、ワクチン接種など様々な対応をした。そしてこれらの伝染病予防のため、公衆衛生を充実させることをサムスは提案した。それは日本国憲法の条文となった。
「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」日本国憲法第3章第25条。

 1946年(昭和21年)には、GHQは公娼廃止の覚え書きを日本政府に渡し、保健所機能の拡充強化に関する覚え書きが出された。そして東京都杉並区に新しい杉並モデル保健所を作った。腸チフスの予防注射をし、性病洗浄や結核の人工気胸手術もした。そしてこの仕事に参加した人たちの熱心な努力によって、全国の保健所は病気予防、公衆衛生の普及に大きな役割を果たした。
 

 1945年(昭和20年)8月7日大本営発表「咋8月6日広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるもののごときも詳細は目下調査中なり。
 第一次米国原爆災害調査団が来日。同年9月6日築地正男東京帝国大学外科学教授とともに広島に向かった。広島についで長崎も訪れ、三週間で帰国した。築地博士は10月の総合医学に、所謂原子爆弾傷に就て 特に医学の立場からの対策を掲載。9月下旬に第2次米国調査団が再びやってきた。日本政府も原子爆弾災害調査研究特別委員会を設け日米共同の医学調査を行う。それが「原子爆弾災害調査研究成績」にまとめられ、1946年(昭和21年)夏の総合医学に掲載された。
 1946年(昭和21年)暮れ、米国原爆災害調査団の第3陣が来日した。これがのちのABCC(原爆障害調査委員会)になる。1947年(昭和27年)3月には「ABCC総合報告」がワシントンで発表された。そして4月には日本医学会総会で原子爆弾症臨床などの特別講演が行われた。
 その後これらの医学報告は、次の戦争に備え、アメリカの法律で、軍事機密として、発表禁止になった。

 1945年から1952年まで日本を支配したGHQは多くの日本の医学、医療を変え、現在の日本の医療システムの根幹を作り、現在まで続いている。

 その占領軍支配が終わった後、日本医事新報は「マッカーサー元帥やサムス准将の如き冷厳な人物によって占領政策が推進せられたのは我々にとって実に不幸な廻り合わせであった」と記している。