2025/02/24

田中角栄の列島改造と美濃部都政

  日本は第二次世界大戦後、1950年代に、荒廃した後進国として出発し、1960年代に中進国となり、1970年代に先進国の仲間入りした。 戦後世界はソ連とアメリカの二大陣営に分かれ対立していた。 1960年代後半から1970年にかけて、日本もその影響下、革新陣営に支持され、美濃部都政が始まり、学生運動も盛り上がった。美濃部都政は1967年(昭和42年)から始まり12年間続いた。


 美濃部亮吉氏は1904年美濃部達吉の長男として生まれ東京大学を卒業後、ナチス政権誕生前の1932年(昭和7年)5月にベルリンに到着、2年間のドイツ滞在中に「独裁制下のドイツ経済」を学会で発表した。「ナチスはあくまでも大資本の味方であるのだ。しかし中小商工業者の憤懣を何とかしてやらねばならない。そこでナチスは、ユダヤ人の官吏、弁護士、医者、芸術家のごとき最も弱いものをいじめることにした。ゲルマニアの文化をユダヤ人の手から奪ってゲルマニア人の手に委ねなければならないというのがそのための口実であった。」と書き、1938年(昭和13年)人民戦線事件で逮捕されるも終戦で、無罪となった。

 戦後、大学教授などを務め、1967年(昭和42年)に東京都知事選で初当選した。はじめての 革新都政となり、さまざまな政策を実行した。当時経済は成長し、公害は全国に広がり、社会の大問題となっていた。平均寿命は伸びてきたものの、いまだ高齢化社会ではなかった。医療費の無料化、高齢者の都営交通の無料化、公営ギャンブル廃止、歩行者天国の実施などその後の日本の自治体の政策を先取りし、当時は多くの支持を集めた。

 その後この美濃部都政に対して、高評価はあったものの、のちの東京都知事石原慎太郎は、「増税なきバラマキ政策を行うことで、東京都また日本に無償福祉ポピュリズムという悪しき影響を与えた。」と批判している。

 田中角栄氏は、1966年(昭和41年)2月から日経新聞で30回連載の私の履歴書を書いた。「齢いまだ50にもたらず、人生経験も浅い私は、自分の履歴を世に公表することが、何かしらはばかれて面映く、逡巡されるものがあった」で始まる生い立ちの記録で、雪深い新潟の貧しい生活、その後の東京での企業した生活、そして自らの関心のあることを綴った。そこには、人生の基本として、理念や理想は腹の足しにならぬという徹底したリアリズムの姿勢が貫かれている。そしてこの世代は第二次大戦で戦場で最も多くの戦死者を出している世代であった。

 田中角栄氏は1918年(大正7年)新潟県の現在の柏崎市で生まれる。15歳の時上京し20歳まで東京でくらし、19歳で独立して共栄建築事務所を開く。1938年(昭和13年)の暮れに盛岡24連隊に入隊する。中国大陸に出征し病気で療養後昭和16年除隊する。1943年(昭和18年)田中土建工業株式会社を起こす。戦後1947年(昭和22年)初当選し政治家となり、若くして頭角を表し、多くの大臣を経験する。

 田中角栄政権の誕生は、1972年(昭和47年)7月5日。その前任の佐藤栄作内閣は8年間の長期政権で、政権交代後に、三角大福と言われた、三木、田中、大平、福田の4人で争われ、田中角栄首相が誕生した。

 その年に発売された日本列島改造論は空前の売れ行きを示した。当時日本は、公害問題と、都市への人口一極集中が進み、過密過疎問題が政治課題であった。田中角栄はその序文で「昭和30年代にはじまった日本経済の高度成長によって東京、大阪など太平洋ベルト地帯へ産業、人口が過度集中し、わが国は世界に類例をみない高度社会を形成するにいたった」が、「明治100年(1968年)をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、今明らかにデメリットへ変わった」。「過密と過疎の弊害の同時解消」のためには「都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速道路自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすることができる。」

 当時の自民党は経済成長を進め、その果実を弱者にも政治的に配分する、地方の農業保護、公共事業に予算を配分して政権を維持していた。田中内閣はその政権下で美濃部都政と同じように老人医療費無料化を行い、福祉元年として評価は高かった。

 しかし、1974年(昭和49年)第4次中東戦争が起こり、原油価格は5倍になり狂乱物価と呼ばれる物価の上昇で、日本の高度成長は終焉した。同じ年、文藝春秋で田中金脈が追及され、首相を辞任した。理念より利益、文化より生活利便性の向上を信条にして首相の座を金と人心掌握の力で手に入れたことに対して当時から批判はあった。

 1970年、右派の論客三島由紀夫は「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ・・・ 」「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と警告した。

 50年経った、今の日本は、政治だけでなく、経済もまた、大国から脱落しつつあるように見える。








2025/02/16

民主主義から専制主義に 19世紀アメリカ政治と小説 

 


 1775年アメリカは独立宣言をして、世界で最初の民主主義国家となった。そして1823年 ジェームス モンロー大統領は米国とヨーロッパが互いに干渉しない外交方針、モンロー宣言を出した。

 1835年、フランス人の貴族トクビルはアメリカを旅行し、30歳の時「アメリカのデモクラシーについて」を書く。イギリスから独立したアメリカの特徴をヨーロッパの階級社会と比較して、アメリカではすべての階層が平等である。市民社会、民衆が意見をつくり、感情を生み、風習を作る。アメリカにおいては多数が万能である。それは立法者や行政府においてもそれが見られる。さらに裁判、陪審員制度にもそれが見られる。

 17世紀の初め、アメリカに定住しようとしてヨーロッパ大陸から渡米した移住者は、デモクラシーの原理を新世界のアメリカ東海岸の岸辺で創り出し、やがて民主主義はアメリカ全土で定着した。しかしその弱点として、トクビルは多数決による多数派の独占を挙げている。アメリカにおいては多数派が思想にまで影響を持ち、思想に厳しい枠をはめ、少数派は発言の場さえ無い。アメリカが偉大な作家を未だもたない。その理由はほかでもない。精神の自由がなくては文学の天才は存在しえない。その精神の自由がアメリカにはないからであると考えた。


 その後、アメリカでも新たな小説家、緋文字のホーソンと白鯨のメルヴィルが登場した。 白鯨の中で「ニューベット フォードで目撃されるのは、街角でおしゃべりしている本物の人食い人種、つまり正真正銘の蛮人なのであり、フィジー、トンガ、エロマンゴ、パンナグ、ブライグなどの南太平洋島々から来た連中、それに通りを傍若無人に闊歩する捕鯨船あがりの見本のような粗野な連中にもお目にかかるだろう」また「1833年8月3日、日本沿岸において、ボートの舳先にありしところを、マッコウ鯨に襲われて落命す。その残されたる妻、思い出のためこの碑を建立す。」と当時日本沿岸にも捕鯨船は来ていた様子をメルヴィルは書いている。。

 1920年の初めまでは、ほぼすべての国から来た人々はアメリカの市民権を取ることができた。その後も、アメリへの移民は続き、1850年代には、ヨーロッパの飢饉や政情不安定のため、大量の移民がやってきた。移民を受け入れたアメリカには、西部に広大な土地があり、都市部では工業も成長し、人手不足を補うための機械の設備投資を行い新興の工業国になっていった。当時すでにGDPはドイツやロシア追い越し、フランスに迫っていた。 


 メルヴィルはニューヨークに生まれ、船乗りとなってポリネシアなどの国々を航海する、その体験から捕鯨船に乗った経験を題材にして、巨大な白い鯨をモデルに海洋冒険の物語を描き始めた。1950年ホーソンに出逢い、緋文字で有名な作家ホーソンの影響を受け、ピューリタンの思想を、白鯨を象徴とした超越への志向を主題とした宗教的小説、象徴主義の物語として白鯨を完成させた。


1861年南北戦争が勃発し、工業力と人口に勝る北軍が勝利した。そして1865年の奴隷解放宣言で黒人奴隷は解放された。


 マーク トウェインは当時南部に属していたミズリー州に生まれ、南北戦争では南軍に参加した。1865年「その名も高きキャラヴェーラス郡の跳び蛙」をアメリカの言葉で書いた最初の小説を発表した。それ以前のアメリカ小説はすべてディケンズ風のイギリス風英語で書かれていた。1876年に「トムソーヤの冒険」をミシシッピー川を舞台に創作し、1885年に「ハックルベリーフィンの冒険」は黒人奴隷ジムを救う、大冒険物語でアメリカの文学の代表作となった。

 19世紀の後半になると、アメリカは軍事力を増強させ、帝国列強の覇権争いに加わった。1898年マッキンリー大統領の時代スペインと戦争を起こし、独立したキューバを保護国とし、フィリピン、グアム島、プエルトリコを手にいれハワイを併合した。そして、パナマ運河に対する全面的支配権を要求し、カナダの要求を押し切ってアラスカの国境を変更した。1899年には、ヘイ国務長官がは中国に対する門戸開放宣言を行い、中国での権益に関与を表明し、1900年義和団の乱に2500人のアメリカ軍を派遣し、中国にも権益を拡張していった。義和団の乱で派兵したのはアメリカの他、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、日本帝国、イタリア王国、イギリス、フランスで、やがてこれらの国の間で帝国間の戦争を引き起こす。


 製鉄業で巨万の富を得たカーネギーは1901年J.P.モルガンの巨大企業である

 その後、アメリカでも新たな小説家、緋文字のホーソンと白鯨のメルヴィルが登場した。 白鯨の中で「ニューベット フォードで目撃されるのは、街角でおしゃべりしている本物の人食い人種、つまり正真正銘の蛮人なのであり、フィジー、トンガ、エロマンゴ、パンナグ、ブライグなどの南太平洋島々から来た連中、それに通りを傍若無人に闊歩する捕鯨船あがりの見本のような粗野な連中にもお目にかかるだろう」また「1833年8月3日、日本沿岸において、ボートの舳先にありしところを、マッコウ鯨に襲われて落命す。その残されたる妻、思い出のためこの碑を建立す。」と当時日本沿岸にも捕鯨船は来ていた様子をメルヴィルは書いている。。

 1920年の初めまでは、ほぼすべての国から来た人々はアメリカの市民権を取ることができた。その後も、アメリへの移民は続き、1850年代には、ヨーロッパの飢饉や政情不安定のため、大量の移民がやってきた。移民を受け入れたアメリカには、西部に広大な土地があり、都市部では工業も成長し、人手不足を補うための機械の設備投資を行い新興の工業国になっていった。当時すでにGDPはドイツやロシア追い越し、フランスに迫っていた。 


 メルヴィルはニューヨークに生まれ、船乗りとなってポリネシアなどの国々を航海する、その体験から捕鯨船に乗った経験を題材にして、巨大な白い鯨をモデルに海洋冒険の物語を描き始めた。1950年ホーソンに出逢い、緋文字で有名な作家ホーソンの影響を受け、ピューリタンの思想を、白鯨を象徴とした超越への志向を主題とした宗教的小説、象徴主義の物語として白鯨を完成させた。


1861年南北戦争が勃発し、工業力と人口に勝る北軍が勝利した。そして1865年の奴隷解放宣言で黒人奴隷は解放された。


 マーク トウェインは当時南部に属していたミズリー州に生まれ、南北戦争では南軍に参加した。1865年「その名も高きキャラヴェーラス郡の跳び蛙」をアメリカの言葉で書いた最初の小説を発表した。それ以前のアメリカ小説はすべてディケンズ風のイギリス風英語で書かれていた。1876年に「トムソーヤの冒険」をミシシッピー川を舞台に創作し、1885年に「ハックルベリーフィンの冒険」は黒人奴隷ジムを救う、大冒険物語でアメリカの文学の代表作となった。

 19世紀の後半になると、アメリカは軍事力を増強させ、帝国列強の覇権争いに加わった。1898年マッキンリー大統領の時代スペインと戦争を起こし、独立したキューバを保護国とし、フィリピン、グアム島、プエルトリコを手にいれハワイを併合した。そして、パナマ運河に対する全面的支配権を要求し、カナダの要求を押し切ってアラスカの国境を変更した。1899年には、ヘイ国務長官がは中国に対する門戸開放宣言を行い、中国での権益に関与を表明し、1900年義和団の乱に2500人のアメリカ軍を派遣し、中国にも権益を拡張していった。義和団の乱で派兵したのはアメリカの他、ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリアハンガリー帝国、日本帝国、イタリア王国、イギリス、フランスで、やがてこれらの国の間で帝国間の戦争を引き起こす。


 製鉄業で巨万の富を得たカーネギーは1901年J.P.モルガンの巨大企業であるUSスチール社に自分の製鋼所を売却した、当時この製鋼所一社でイギリス全体の鉄鋼全体を上回る量を生産していた。


マッキンリー大統領が暗殺され、史上最年少でセオドア ローズヴェルトが大統領になった。ローズヴェルトの海外への領土拡張政策(Big  Stick  Diplomacy)に対して、アメリカ各地で反対する運動が起きた。カーネギーのような実業家や、元大統領のグローバー・クリーブランドともにマーク・トウェインは反帝国主義連盟に参加した。そしてその運動の中心となって、反帝国主義連盟で副会長になり、アメリカ政府の帝国主義政策を批判した。


 1901年To the    Person Sitting   in Darkness の中で義和団事件の後アメント牧師をキリスト教布教のために中国に派遣し、高額の賠賞金の請求をしたことを批判USスチール社に自分の製鋼所を売却した、当時この製鋼所一社でイギリス全体の鉄鋼全体を上回る量を生産していた。


マッキンリー大統領が暗殺され、史上最年少でセオドア ローズヴェルトが大統領になった。ローズヴェルトの海外への領土拡張政策(Big  Stick  Diplomacy)に対して、アメリカ各地で反対する運動が起きた。カーネギーのような実業家や、元大統領のグローバー・クリーブランドともにマーク・トウェインは反帝国主義連盟に参加した。そしてその運動の中心となって、反帝国主義連盟で副会長になり、アメリカ政府の帝国主義政策を批判した。


 1901年To the    Person Sitting   in Darkness の中で義和団事件の後アメント牧師をキリスト教布教のために中国に派遣し、高額の賠賞金の請求をしたことを批判している。「義和団は愛国者だ。彼らは他国民の国よりも自国を愛している。彼の成功を祈る」と書き、フィリピンについては「我々はフィリピンに征服しに行ったのであり、救済しにいったのではない。」とマーク トウェインは書いている。


 1963年製作されたアメリカ映画「北京の55日」はチャールトンヘストンが主演し、日本陸軍の柴五郎中佐役で伊丹十三が出演している。この当時のハリウッドの世界観で義和団の乱を描いている。義和団の乱に対して8帝国が出兵し、中国への侵出を狙った。やがてこれらの帝国の間の戦争が起こり、第一次世界大戦へと世界は向かっていった。


2025/02/02

19世紀 チャールズ ディケンズ と アラン ポーの暮らした時代

  フランス革命とアメリカ独立戦争ののち、ヨーロッパではナポレオンも失脚し、5大国で勢力のバランスが保たれた。一方海上では、海軍力に勝るイギリスが覇権を確立し、北アメリカ、ラテンアメリカ、インド、東洋などの市場が急激に成長し、商業取引、運輸、保険、銀行などの経済活動が活発となり、ロンドンは世界の新しい金融の中心地となり、莫大な富を独占し覇権国としての地位を確立した。


 狩猟世界から、穀物栽培の定住社会に変わったのと同じくらい、人々の生活を根本から変えた産業革命は徐々に起きた。生産性の飛躍的増加をもたらした産業革命以前はヨーロッパのアジア地域も工業生産ではそれほどの差は見られなかった。1800年の世界に占める工業生産の割合は、ヨーロッパ28.1%、イギリス4.3%、中国32.8%、インド19.7%であった。それが1900年にはヨーロッパ62.0%、イギリス18.5% 中国6.2%インド1.7%となった。イギリスを先頭に工業生産はヨーロッパ、アメリカで増加し、一方、インドや中国は工業化された綿製品が大量に流入し、地域経済は縮小した。一人当たりの工業化水準は第三世界ではヨーロッパの18分の1、イギリスの50分の1になった。1947年 TS アシュトンは「今日、インドや中国の平原に住む人々は災害に苦しみ、飢えて、毎日彼らと共に重労働に励み、共に眠っている家畜と変わりのないような生活を送っている。こんなアジア的な暮らしと機械化の遅れによる悲惨な状態は、産業革命を経ることなく人口ばかりが増大してしまった国の人々の多くに共通するものである。」


 1812年チャールズディケンズは海軍省経理部事務官の息子として生まれる。12歳の時父親が債務不履行に陥り、極貧生活に陥る。その後作家の道を目指し、

フリーランスの記者となり産業革命後のロンドン庶民の生活や情景を描いた「ボズのスケッチ」で作家として出発し、26歳の時、連載小説「オリバーツイスト」で流行作家となった。孤児のオリーバーの「お願いです、僕はもっと食べたいんです。」「神様、どうぞお恵みを、僕たちみんなに。」当時ディケンズの生活していたロンドンは拡張を続け、1830年に鉄道が開通する。多くの小説でこの時代のイギリスの様子が描かれ、当時の生活がよく分かる。

ディケンズは1842年半年のアメリカ力に出発する、そしてエドガーアランポーと会っている。当時アメリカでも人気のあった作家、チャールス ディケンズはアメリカを新聞社の企画で訪問。そして、。エドガーアランポーは その当時リッチモンドで生活中で、ディケンズに手紙を書いて、2人きりで面会し、話すことが実現し、2人は意気投合した。ディケンズは、翌1843年クリスマス向けの短い読み物「クリスマス キャロル」では守銭奴スクルージやティム坊やを登場させ、「それはすべての時代の中で最も良い時代でもあれば、すべての時代の中で最も悪い時代であった。」書き出しのフランス革命を題材とした二都物語や、「大いなる遺産」のミス ハヴィシャムを創造した。ディケンズの生活した時代は世界の覇権国イギリスの最盛期の時代であった。


 エドガーアランポーは、1809年生まれる。3歳でイングランド生まれで女優の母親は亡くなり、父親もなく、孤児になり、他家で養育され、その複雑な生い立ちが恐怖小説を生み出した。南北戦争前のアメリカ南部の小説家としてマークトウェインとともにアメリカ小説の源流を作った。ポーはアメリカにおいて、最初は南部の教養ある文人としてロマン主義の詩を発表したり評論を書いていた。その後、ミステリーや探偵、冒険など大衆文化としての小説を多く発表するも、当時は米国文学の主流とはみなされなかった。


 アメリカは1816年の人口は850万人、1860年には3140万人に増加し、多くのひとは農場を持ち、あるいは成長する都市に住んでいた。他国に比較して、生活水準も高く生産高も多かった。そして賃金もヨーロッパよりも30%ほど高く、1850年代にはヨーロッパから大量の移民が入ってきた。19世紀前半はポテト飢饉でアイルランドから、また政治経済の混乱からドイツや北欧、そして19世紀の後半からはイタリアなどの南欧そしてロシアなどの北欧さらには中国などからの移民が増えた。1861年には南北戦争が勃発した。この当時の経済はドイツやロシアを上回り、経済大国になっていた。対外的には1803年にフランスからルイジアナを購入、スペインからフロリダを獲得、テキサス、カルフォルニア、アリゾナ、ニューメキシコをメキシコから編入。1823年モンロー主義を宣言し、アメリカ大陸へのヨーロッパの関与を禁止した。


 最初の頃、国内よりむしろフランスで認められ、象徴派の詩人たちに影響を与えた。1841年近代推理小説の第一作目となる「モルグ街の殺人」で探偵C オーギュスト デュパンを登場させ、パリの親子の不思議な、奇怪な殺人事件を発表し、それは、その後のシャーロックホームズなど探偵小説のスタイルにつながる。

 1839年に「アッシャー家の崩壊」、1843年「黒猫」などの恐怖小説を発表した。「アッシャー家の崩壊」は病んだ友達の最後を看取る男の物語。 「黒猫」は人のこころに住む動物的恐怖心と不安、残虐性を描く。 1845年発表の詩「大鴉」もまたカラスの喋る言葉によって主人公が狂気に陥る物語。それがフランス象徴主義に大きな影響を与えた


19世紀ヴィクトリア朝の時代、産業革命で成功したイギリスが世界を制覇した。その頃から、領土を拡張し産業革命による技術を使って21世紀の覇者になるアメリカは工業力を急速に高めていった。19世紀、経済成長と技術革新が世界の覇権国を決めた。