詩人 金子 光晴
金子光晴は1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりのヨーロッパ旅行の後、1922年(大正11年)「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する。
其夜、少年は秘符の如く、美しい巴旦杏の少女を胸にいだく。
少年の焔の頰は桜桃の如くうららかであった。
少年のはじらいの息は紅貝の如くかがようた。
大正時代には一見国力が充実してみえる自由な時代があった。日清、日露戦争に勝ち、第一次大戦には戦勝国になり、「自由に人間の真実やヒューマニズムについて検討し,世をあげてそれを支持するようにみえながら、それが新しい伝統として根ずかなかったのは、明治以来の絶望的な地盤がそれを拒否するからである。」 「この大正時代は、ひげが君臨しひげが威張った時代明治。ひげのいばっていた時代はひげの乃木将軍とともに終わり、珍しく軍と官憲の弱腰の時代」大正時代がはじまる。
その時代の後半1923年(大正12年)関東大震災がおこり、「大正人のきれいな、うわっつらがひんめくられて昔ながらの日本人が先方からまっていたとばかりにのさばり出てきた。」そして「狂乱な日本人とそれを利用して日本の軍部がのし上がる。」
1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。長崎から上海にわたり、イギリス領シンガポール、マレー半島、蘭領ジャワ、スマトラを中心に東南アジアで2年間放浪しパリに到着する。パリでは、生活のためあらゆる仕事をした。
そのパリでも満州事変以降、日本人は白眼で見られ、5年ぶりの日本帰国の時寄港したペナン、シンガポールでは、侵略帝国主義打倒の旗を立てた女たちが、本国の軍への献金募集で大声をたてていた。 このパリや東南アジアの反日のデモや騒擾とは反対に、帰国したときの母国について「日本の港についてからのこの平静さは、いったいどういうことなのだろう。」といぶかりしだいに日が経つにつれ、この平静さは「これは、軍のうごきの、民衆につたわる微妙な反応である。」ことがわかる。
1936年(昭和11年)中国各地を回る。翌1937年(昭和12年)日支事変の起った直後、中国や南洋旅行中に書いた詩、鮫の醜悪さやおっとせいの凡庸を描写し、それらを象徴させた詩集「鮫」を発表。
だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、
拝礼している奴らの群衆のなかで、
侮蔑しきったそぶりで、
ただひとり、
反対むいてすましているやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
ただ
「むかうむきになってる おっとせい。」
また日中の戦争をえがいて
天が、青っぱなをすする。
戦争がある。
だが、双眼鏡にうつるのものは、鈍痛のやうにくらりとひかる
揚子江の水。
そればかりだ。
うらがなしいあさがたのガスのなかから、
軍艦どものいん気な筒ぐちが、
「支那」のよこはらをじっとみる。
その年のくれに日支事変後の天津と北京を訪れる。翌年1938年(昭和13年)帰国し「洪水」「落下傘」を発表。一部の未発表の詩とあわせて昭和23年に詩集落下傘におさめられた。いずれも反軍、反戦の色彩の強いもので、当時雑誌社が発表を見送ったものもある。
続いて、1940年(昭和15年)最初の紀行文「マレー蘭印紀行」を発表。珊瑚礁、南の海の夜の悲しい性格、ニッパ椰子や森林の静寂、文明のない、さびしい明るさ、熱帯の湿気と繁茂し圧倒する植物など自然の生命力、その自然のなかに生活を営むヨーロッパ人非植民地のベンガル人、マレー人、華僑、そして日本人、混血児さまざまな人間を描く。
遠い海峡の潮の音。
かへらないためにとびたつ
戦闘機。
「あけがたの歌」
遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。
みんな寂しさがなせるわざなんだ。
寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しに
あって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。
「寂しさの歌」
戦後になり詩集「落下傘」「蛾」「女たちのへのエレジー」「鬼の児の唄」「人間の悲劇」などをつぎつきと刊行。おおくの作家が軍礼賛になだれをうった時代からかわらぬ視点で反戦、反権威、女たちの詩集を創作し発表し,戦後の人々にうけいれられ、支持された。
ゆられ、ゆられ
もまれもまれて
そのうちに、僕は
こんなに透きとほってきた。
心なんてきたならしいものは
あるもんかい。いまごろまで。
はらわたもろとも
波がさらっていった。
「くらげの唄」
1965年(昭和40年)「絶望の精神史」を70才になり発表。
近代日本の明治維新以来100年の国の歩み、日本人と異邦人(エトランゼ)になった自分自身の精神の歴史を、日露戦争のあったころからの自身の体験を直接の見聞にもとずいて描き出した。
なぜその時代の人々が昭和のイデオロギーに次々と染まっていったのか分析し、日本の精神風景を自伝的に語った。
それは、とりもなおさず孤独に反軍、反骨の生活をつらぬき通した自分のこころの内を、大正、昭和の時代を、皮膚感覚を通しての社会、風俗を描くことだった。
明治維新以来の日本の近代化にたいする絶望のすすめを書いたのは、ちょうど日本が高度成長期のはじめの明るい時代だった。
晩年には,反骨の詩人、ヨーロッパ、アジアの旅人として、時代の語り部として多くの詩集や紀行文、評論文を残した。孫娘の詩「若葉のうた」も70才過ぎてから出版した。
へそ出しの「若葉」を抱いて
ぶらんこにのる。
僕らは 出発する。
人生はいつでも出発だ。
若い日のその実感を 僕は
ひさしくわすれていたものだ。
さうだ。この人生には
勇気といふものもあったのだっけ。
若い日 僕もそれをもっていた。