2016/07/24

反骨の詩人 金子 光晴


詩人 金子 光晴

 金子光晴は1895年(明治28年)に生まれる。
半年あまりのヨーロッパ旅行の後、1922年(大正11年)「こがね蟲」を出版し、象徴派の詩人として、出発する。

 其夜、少年は秘符の如く、美しい巴旦杏の少女を胸にいだく。
 少年の焔の頰は桜桃の如くうららかであった。
 少年のはじらいの息は紅貝の如くかがようた。


 大正時代には一見国力が充実してみえる自由な時代があった。日清、日露戦争に勝ち、第一次大戦には戦勝国になり、「自由に人間の真実やヒューマニズムについて検討し,世をあげてそれを支持するようにみえながら、それが新しい伝統として根ずかなかったのは、明治以来の絶望的な地盤がそれを拒否するからである。」  「この大正時代は、ひげが君臨しひげが威張った時代明治。ひげのいばっていた時代はひげの乃木将軍とともに終わり、珍しく軍と官憲の弱腰の時代」大正時代がはじまる。

 その時代の後半1923年(大正12年)関東大震災がおこり、「大正人のきれいな、うわっつらがひんめくられて昔ながらの日本人が先方からまっていたとばかりにのさばり出てきた。」そして「狂乱な日本人とそれを利用して日本の軍部がのし上がる。」
 
 1928年(昭和3年)から1934年(昭和9年)あしかけ5年におよぶ東南アジアからパリにかけての放浪の旅に出る。長崎から上海にわたり、イギリス領シンガポール、マレー半島、蘭領ジャワ、スマトラを中心に東南アジアで2年間放浪しパリに到着する。パリでは、生活のためあらゆる仕事をした。

 そのパリでも満州事変以降、日本人は白眼で見られ、5年ぶりの日本帰国の時寄港したペナン、シンガポールでは、侵略帝国主義打倒の旗を立てた女たちが、本国の軍への献金募集で大声をたてていた。 このパリや東南アジアの反日のデモや騒擾とは反対に、帰国したときの母国について「日本の港についてからのこの平静さは、いったいどういうことなのだろう。」といぶかりしだいに日が経つにつれ、この平静さは「これは、軍のうごきの、民衆につたわる微妙な反応である。」ことがわかる。

 1936年(昭和11年)中国各地を回る。翌1937年(昭和12年)日支事変の起った直後、中国や南洋旅行中に書いた詩、鮫の醜悪さやおっとせいの凡庸を描写し、それらを象徴させた詩集「鮫」を発表。

 だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、
 拝礼している奴らの群衆のなかで、
 侮蔑しきったそぶりで、
 ただひとり、
 反対むいてすましているやつ。
 おいら。
 おっとせいのきらひなおっとせい。
 だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
 ただ
「むかうむきになってる おっとせい。」

また日中の戦争をえがいて

 天が、青っぱなをすする。
 戦争がある。
 だが、双眼鏡にうつるのものは、鈍痛のやうにくらりとひかる
 揚子江の水。
 そればかりだ。

 うらがなしいあさがたのガスのなかから、
 軍艦どものいん気な筒ぐちが、
「支那」のよこはらをじっとみる。

 その年のくれに日支事変後の天津と北京を訪れる。翌年1938年(昭和13年)帰国し「洪水」「落下傘」を発表。一部の未発表の詩とあわせて昭和23年に詩集落下傘におさめられた。いずれも反軍、反戦の色彩の強いもので、当時雑誌社が発表を見送ったものもある。
 続いて、1940年(昭和15年)最初の紀行文「マレー蘭印紀行」を発表。珊瑚礁、南の海の夜の悲しい性格、ニッパ椰子や森林の静寂、文明のない、さびしい明るさ、熱帯の湿気と繁茂し圧倒する植物など自然の生命力、その自然のなかに生活を営むヨーロッパ人非植民地のベンガル人、マレー人、華僑、そして日本人、混血児さまざまな人間を描く。

 
  遠い海峡の潮の音。
  かへらないためにとびたつ
  戦闘機。

                           「あけがたの歌」

 遂にこの寂しい精神のうぶすなたちが、戦争をもってきたんだ。
君達のせいじゃない。僕のせいでは勿論ない。
 みんな寂しさがなせるわざなんだ。
寂しさが銃をかつがせ、寂しさの釣出しに
あって、旗のなびく方へ、
母や妻をふりすててまで出発したのだ。

                            「寂しさの歌」

 戦後になり詩集「落下傘」「蛾」「女たちのへのエレジー」「鬼の児の唄」「人間の悲劇」などをつぎつきと刊行。おおくの作家が軍礼賛になだれをうった時代からかわらぬ視点で反戦、反権威、女たちの詩集を創作し発表し,戦後の人々にうけいれられ、支持された。


 ゆられ、ゆられ
 もまれもまれて
 そのうちに、僕は
 こんなに透きとほってきた。


 心なんてきたならしいものは

 あるもんかい。いまごろまで。
 はらわたもろとも
 波がさらっていった。
                           「くらげの唄」


1965年(昭和40年)「絶望の精神史」を70才になり発表。

 近代日本の明治維新以来100年の国の歩み、日本人と異邦人(エトランゼ)になった自分自身の精神の歴史を、日露戦争のあったころからの自身の体験を直接の見聞にもとずいて描き出した。
 なぜその時代の人々が昭和のイデオロギーに次々と染まっていったのか分析し、日本の精神風景を自伝的に語った。
 それは、とりもなおさず孤独に反軍、反骨の生活をつらぬき通した自分のこころの内を、大正、昭和の時代を、皮膚感覚を通しての社会、風俗を描くことだった。
 明治維新以来の日本の近代化にたいする絶望のすすめを書いたのは、ちょうど日本が高度成長期のはじめの明るい時代だった。

 晩年には,反骨の詩人、ヨーロッパ、アジアの旅人として、時代の語り部として多くの詩集や紀行文、評論文を残した。孫娘の詩「若葉のうた」も70才過ぎてから出版した。

へそ出しの「若葉」を抱いて
ぶらんこにのる。
僕らは 出発する。
人生はいつでも出発だ。
若い日のその実感を 僕は
ひさしくわすれていたものだ。



 さうだ。この人生には
勇気といふものもあったのだっけ。
若い日 僕もそれをもっていた。

2016/07/03

妻をめとらば  与謝野 鉄幹の旅


与謝野 鉄幹 妻 晶子

 妻をめとらば才たけて  みめうるわしくなさけあり 

 鉄幹は若き日、韓半島に3度渡る。1895年(明治28年)日清戦争のおわりのころ教官として渡韓し、閔妃事件により退韓させられるも無罪となりふたたび渡韓する。朝鮮の激動する社会の実感を、壮士風の感情で唱いあげ「東西南北」で発表した。旧来の軟弱、優美、もののあわれを主調としたものから、勇壮、快活にして心の真情を吐露するものに脱皮しなければならないとして、漢語と和語を融合させる、虎剣派とよばれる新しい歌をつくった。

 世をおもふ、心はひとつ。太刀なでて、泣く友もあり、笑む友もあり。

 1900年(明治33年)明星を創刊。2回目の結婚相手の林滝野の資金によるもので、フランスのアールヌ−ヴォー様式のミュシャの絵の模写を表紙に取入れ、西欧風の新しい装丁で、明治30年代の流行をつくり出す。  
 創刊号には藤村の千曲川旅情の歌の原型である旅情が掲載され、そしてフランス象徴詩の上田 敏のヴェルレーヌなどの訳詩が登場した。西欧文学の憧れを日本に運び、この時代の文芸の主導者の地位に与謝野鉄幹はついた。

 やがて、滝野とわかれ、明星の誌面に女流歌人の歌をのせ、多くのスターを,時代のヒロインを生みだした。山川登美子とともに菫と星との言葉をちりばめ、その主役であった晶子と出会い明星の2号に歌をのせる。崇高で激烈な情熱をうたう明星は一世を風靡した。

 鉄幹はその後晶子と三度目の結婚をする。そして、鉄幹婦人となった与謝野 晶子の「みだれ髪」を世に出した。22才の時であった。明治の古くさい道徳観をすて、短歌で感情を情熱を表現し、日本中にセンセイションを巻き起こした。

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子


 1905年(明治38年)、日露戦争でロシアを破る。日露戦争後の時代になり、しだいに流行は変化し、1908年(明治41年)明星は廃刊。
 妻となった晶子は次々と短歌をだし、随筆を書いて一家を支えた、妻の活躍をまじかで見つつ、鉄幹は終わった人、時代おくれといわれ、鬱屈した日々を送ることになる。

 しよざいなさ動物園の木の柵に面いだしたる駱駝ならねど

 この心の寂寞、荒廃の気分を変えるため、晶子やまわりの人々の援助で1911年(明治44年)横浜からフランスに旅立つ。その時代をいきいきと伝えている旅行記「巴里より」を出版した。

 途中上海に寄港し、辛亥革命に遭遇し「黄色の革命旗が掲げられている。しかし、革命軍の影響は少ない、東京での騒ぎのほうがよほど大きい。実力をいへば西南戦争における鹿児島の私学校の生徒のごとき者が各地で騒ぎ立てているにすぎない。」と書き、また、シンガポールに寄港し、多くの「からゆきさん」を目の当たりにし、日本の恥として、取り締まる意見のある中,与謝野寛は「内地において売れ口のない女をどしどし輸出向けとして海外に出すのは国益である」と主張した記事を新聞の掲載用に書き送っている。

 約半年の後、晶子は5人の子供をあずけ、鉄幹をおいかけ、一人でシベリア鉄道を乗り継いで、巴里にむかう。そして2人でルノアールやモネの絵を見、そして直接ロダンやレニエに会いにいっている。

 わが泣けば露西亜少女来て肩なでぬ アリヨリ号の白き船室

 ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君もコクリコわれもコクリコ

                            与謝野 晶子

 帰国後、1914年(大正3年)第一次世界大戦勃発の年、政治家を目ざし京都で立候補するも落選し、ふたたび短歌と編集者の仕事に戻る。
 時代は大正に入り、国民所得は倍増し、文化の大衆化が進む。1921年(大正10年)から昭和2年にかけて第二次明星を出版、高村光太郎、堀口大学の詩をのせ、自らの旅の歌を多くのせる。
 当時、日本の国内では、都会の近代的で自由な生活文化があらわれ、文化の大衆化が進むと同時に、1917年(大正7年)の米騒動記事に対して朝日新聞は弾圧をうけ、その後新聞編集の中立性を宣言し、多くのマスコミは権力批判を避け,センセーショナリズムの記事にはしる。世論は人々は見たい記事にしか関心がなくなり、しだいに昭和イデオロギーに染まっていく。 



 昭和の初期、晶子と2人の満蒙旅行記をだす。

いろいろの異国の煙草まさぐりて恋する日にも似る甘さかな

 そのときの与謝野晶子の日記に張作霖爆殺事件に遭遇したときの描写がある。「奉天に著く」で「大和ホテルの宿泊の日、新聞を見ると大元帥の張作霖がいよいよ北京を退き、今日天津をたって京奉鉄道で奉天へ帰るということである。」
 「翌朝、へんな音が幽かに聞こえた。 意外な事変を告げられた。満鉄京奉両線の交差するガアドの下で、京奉線の汽車が四台まで爆破され、張作霖と共に黒龍江省督軍の呉氏もたおれ、其他にも支那官人と婦人の死者が多い様子だと」1928年(昭和3年)6月4日午前5時23分のことだった。

「私たちは初めて今先のへんな爆音の正体を知ったと共に、厭な或る直感が私達の心を曇らせたので思はず共に眉を顰めた。」
 さらに「奉天の五日」で「我々日本人に対して容易ならぬ恐ろしい事を云っている。久しく此地にいる私達にとって、こんなに支那人の感情の急激に悪化した事は例がありません」
そして「日支人間の重苦しい或る不安の気分を交ぜて感ぜねばならなかった。」

 第一次世界大戦後1920年代は、つかの間の平和と安定軍縮の時代であった。1928年(昭和3年)、この日本の陸軍の謀略を境として、日本の対中国、対英米の立場は困難になり、国際的孤立を深めることになる。事件後、清朝崩壊後の軍閥割拠から、蒋介石による中国統一がなされ、奉天にも国民党の青天白日旗が翻ることになる。

 

 与謝野鉄幹は、若い日から、晩年になるまで多くの旅をし、それを記録し、その自然と心情を短歌に托した。日清戦争時の国士風短歌から,心情を率直に表現する短歌の革新を行い、おおくの詩人を発掘しそだて、妻晶子の才能を讃え、晩年にはふたたび爆弾三勇士の歌などの国粋主義短歌を残しこの世を去る。