2011/04/24

リスボン大震災

 15世紀の後半、夢と宗教的情熱にかられポルトガルから多くの若者が海外に向かった.1494年にはバスコダ ガマが3隻の帆船と150人の船員で喜望峰をまわりインドに達し、翌年リズボンに還った。

 その後、アフリカ、インド、東アシア、ブラジルの貿易を独占し、首都リスボンに世界の富を集め、ポルトガルは強大な商業国家となり、世界をスペインと分け合い支配した。

 16世紀にはハプスブルグ家のスペインに併合され、この間にポルトガルの海外植民地は大部分オランダとイギリスに奪われることになります。


 17世紀になると、スペインから独立し、再び植民地国家として、発展します。その源泉は植民地とりわけ重要な国がブラジルで、17世紀の末には金鉱が発見され、続いてダイアモンドも発見され、再びポルトガルは黄金時代をむかえることになります。

 その後、1755年リスボン大震災で首都は一度壊滅し、すぐに復興はされたものの、1760年代のブラジルの金の生産激減と次の19世紀におきたブラジルの独立によって、富の源泉を失い、ポルトガルは衰退をしはじめ、しだいにヨーロッパの一小国になっていきました。


 この1755年におこったリスボンの大震災はイベリア半島の南西部の大西洋のプレートの沈み込みによる海洋型の地震で、これによりリスボンは多くの建物が崩壊しその数十分後、巨大な津波におそわれ港と川沿いの市街地を中心に多くの建物が破壊され、その後さらに火災も発生し、市街地は焼きつくされた。その結果、リスボンの人口27万5000人のうち9万人が死亡し,宮殿や図書館、大聖堂もすべて破壊されました。

 幸い国王一家は生き残り、後のポンパル公爵である宰相の力で救命,消火活動がおこなわれ、社会的混乱は防がれ、震災1年後には廃墟は消え壮大な構想のもとにリスボンの新たな街の再建がなされました。


 日本では,ポルトガルから1543年に種子島に鉄砲が伝来し,フランシスコザビエルがキリスト教を布教し,織田信長のもとで南蛮貿易が盛んになりました。徳川政権になると日本は鎖国され,貿易はオランダに独占され長崎の出島でわずかに続けられることになります。


 リスボン大震災と同じ頃、江戸時代には多くの地震がおこり、特に1707年の宝永地震では2万人の死者を出し、東海,東南海、南海地震が連動しプレートの移動による巨大な海溝型地震で津波による被害が大きかったことが記録されています。1854年には安政東海地震と安政南海地震がたて続きにおこり津波による死者は数千人に達し,これらの記録が今後おこりうる地震の研究のモデルとされています。


 巨大地震は、人びとの営み、文化は地表の自然の上に築き上げられたものであり,地球規模の造山活動やプレートの動きの影響を免れることが出来ないことをあらためて我々は思い知らさせることになりました。

2011/04/10

関東大震災

 大正時代は、日本も大正デモクラシーと呼ばれ明治の戦争の時代から比較的平穏な世の中になってきました。

 第一次大戦中に戦場とならず経済は急拡大し大戦景気といわれる熱狂的な好景気に日本中は沸き立ち,好調な経済のもといわゆる成金が多数生まれ,一方労働運動もさかんになっていました。反面この時期、明治以来の国家目標を見失い国家規範はしだいに喪失していきます。


 政治では、政友会と民政党の2大政党制が定着し行われていました。しかし、国民生活とはかけはなれた政党間の利益誘導の競い合いとなり腐敗政治が蔓延する結果となり、世論の政党離れが広がっていった時代でした。


 その後の日本の経済は1920年には戦後恐慌をおこし多くの失業者がうまれました。ようやく回復が始まった頃におきたのが1923年(大正12年)の関東大震災でした。


 同年9月1日午前11時58分関東地方をマグニチュード7.8の直下型地震がおき、死者9万1344人上り行方不明者をあわせ14万人に達した大震災で、東京を中心には火災で多くの家屋は焼失し貴重な企業や人的資産を失い経済、政治は大打撃をうけ、戒厳令が施行されました。 


 その後、政府は金融面の救済措置をとりさらに多くの財政赤字をかかえることとなり、この救済措置に便乗し多くの企業は一時的に生き残るも、その後政府はインフレ的不況対策と為替相場の維持、介入というデフレ的対策とその場の応急対策におわれていき、しだいに日本経済は崩壊寸前にまで落ち込んでいきました。


 次の1930年代はアメリカの金融恐慌から世界大恐慌を来たし、日本でも銀行の破綻や企業の倒産、大量失業それに農村の凶作が加わって、昭和恐慌は本格化しました。そして日本の政党内閣制と国際協調体制、国際金本位制ともに崩れ去っていきました。

 

 その頃、永井 荷風は日記に、「日本の現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚無きことの三事なり」と書いています。この閉塞状況を打ち破るべく軍人のあいだに過激思想が力を持ち始め、1932年(昭和7年)に大アジア主義者大川周明の関与した5.15事件が帝国海軍将校を中心に起こされ、さらに1936年(昭和11年)には北一輝に触発された2 26の軍事クーデターがおこされました。その後国民の自由な言論や批判は消え、軍部の暴走を許容し大戦へと突き進んでいきます.