第一次大戦後の1921年藤田の乳白色の肌で知られる,繊細な画法を用いた独特の風貌の人物画がパリで認められ,エコール ド パリの代表的画家の1人となり、レジオン ド ヌール勲章を受賞していました。
1920年代のパリは世界中から芸術家が集まり、画家ではピカソやマティス、モジリアニなども活躍していました。そして日本からも多くの芸術家の卵が生活していました。この黄金の20年代の最後,1929年に17年ぶりに日本に帰国し展覧会を開くも、日本の画壇ではあまり高い評価はされていません。
その頃の日本は、戦後の好景気に湧き、大正デモクラシー時代でしたが1920年代からしだいに戦後不景気となり、政府が1930年に金本位制を採用し、緊縮財政をうちだし、デフレは急速に進行し、金が国外に流出、経済は失速し、街には失業者が街にあふれていました。翌年犬養毅内閣になり、蔵相高橋是清が金本位制度をやめ、積極財政で経済の立て直しをはかり経済はようやく持ち直しました。
1930年代になると、ウオール街の株価暴落に始まる世界の経済混乱は、世界の通貨戦争を引き起こしました。
イギリスでは、1931年金本位制度を放棄して、対外的には猛烈にポンドを切り下げました。これに対抗しアメリカは1933年金本位制度を停止して、為替切り下げ競争に走り、これに追いつめられフランスは猛烈なデフレに見舞われ、輸出は伸びず、輸入のみ増え対外収支は大きな赤字になり、デフレの押し付けあい、為替切り下げ戦争に巻き込まれて行きました。
ドイツは、戦後インフレに苦しめられ、世界大恐慌で、経済は完全に機能不全に陥り、1933年にヒトラーが政権をにぎり債務返済を放棄、統制経済に切り替えたその後結局、世界経済はブロック化し、世界大戦に突入していきました。
このころ藤田は一度パリに戻って生活をはじめるも1940年には第二次大戦のため日本に再び戻り,アッツ島玉砕などの多くの戦争画を残しました。
戦後、この戦争画に対する日本の国内での対応から,再びフランスに居を移しフランス国籍をとってレオナール フジタと日本名をやめました。フランスに永住する事を決めたこの時期、多くのこどもたちの無邪気なかわいさの中に虚無をたたえた表情を独特に描き多くの作品を残しています。晩年にはフランスの教会、ノートルダム ド ラ ぺのフラスコ画を描き残し81才で生涯を閉じました。
