2017/07/09

フランスの風、遠い海 堀口 大学


私の耳は貝のから
海の響きをなつかしむ

                     ジャンコクトー  堀口大学訳

 ヨーロッパ大陸におけるフランスはルイ王朝の終焉フランス革命以後も文化の発信地として耀きをたもっていた。19世紀の末から20世紀にかけてのベルエッポック期フランス文化はもっとも豊かで爛熟していた。1900年にパリ万博が開かれ,地下鉄が開通した。日本でそのフランス文化は1920年代から1970年代にかけて人気が最も高く、フランスの詩、文学、絵画、音楽あるいは思想も日本に紹介されその流行は50年以上も続いた。
 
 最初にフランスの詩を日本にもたらしたのは上田敏の「海潮音」であった。明星にフランスの象徴詩を掲載、訳詩ヴェルレーヌの「落葉」は明治30年代にフランス世紀末の風を運んだ。 そしてフランスブームに火をつけたのは堀口大学の詩集「月下の一群」だった。

 時代の流行は人々のこころのなかの夢や新しいものへの憧れに共振した時ブームとなる。

 大正時代は都市の生活者が増え高等遊民と呼ばれるひとびとが詩や小説をつくり、新しいものを求めていた。大正時代の文化人にとって西欧の文化を語り,ヒューマニズムを語り、教養をつけることが人生でもっとも大切なことだった。

 その時代1924年(大正13年)に堀口大学はフランスのボール モオランの「夜ひらく」「夜とざす」を翻訳した。これはフランスモダニズムの始まりで新感覚派と呼ばれる作家たちの文体に大きな影響与えた。そして翌年1925年(大正14年)あたらしい日本語をつかって豪華な訳詩集「月下の一群」が出版された。


 月下の一群の新しさについて「堀口さんの詩は伝統からの解放をまず私どもに意味した。それ以前の曖昧さ回りくどさのもうろう世界から私どもを解放した。」と三好達治が評している。 

「郷愁」

遠い海よ
と私は紙にしたためる
海よ 僕らの使う文字では
お前の中に母がいる
そして母よ
フランス人の言葉では
あなたの中に海がある

                      
                               三好達治


 堀口大学は有名な外交官 堀口九萬一の息子で20才の時大学を中退し日本を離れ父の任地のメキシコからベルギー,スペイン、ブラジルと30才までほとんど海外での生活を送る。
 父親の堀口は外交官試験の第1回の合格者で補官時代朝鮮半島の閔妃暗殺事件に関与し与謝野鉄幹とともに送還された。この与謝野鉄幹の新詩社に18歳の時加わった。

 与謝鉄幹の明星に、ジャン ククトーの私の耳は貝の殻の詩や「海の風景」をのせた。そしての最初の詩集「月光とピエロ」で象徴派の詩人として認められる。

「海の風景」

空の石盤に
かもめがABCを書く
海は灰色の牧場です
白波は綿羊の群れであらう
船が散歩する
煙草を吸いながら
船が散歩する
口笛を吹きながら

                         


 海外生活の長い堀口にとって日本の文壇とは無縁で自由で心のおもむくままに生活を送り、第一次世界大戦まえにドイツ伯爵と結婚し亡命生活をおくっていたマリーローランサンと1924年(大正13年)にパリで再会。多くのフランスの詩人を紹介された。その詩はリズムのある簡潔な文体でモダニズムを代表する詩人たちであった。
 かれらの近代フランス詩を翻訳したのが「月下の一群」で、日本の詩や小説には無いエスプリやリズムをもつこの詩集は人々に熱狂的に受け入れられた。やがて、ジャンコクトーやアポリネールなどの 短く、軽く、リズムのあるしゃれた詩がその時代に流行した。
そしてフランスのモードや海辺の薫り、モダニズムのいっぱいつまった西欧の風を日本にもたらし、その後の社会生活にも影響をあたえた。

「シャボン玉」

シャボン玉の中へは
庭は入れません
まはりをくるくる回っています

                           ジャンコクトー

「ミラボー橋」 

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る


                    ギイヨオム アポリネエル 

「孔雀」

地面に垂れるほど長い羽を持った
この鳥は、尾羽円く展げた時に
一層すばらしく見えます、
尤もお尻はまる出しです。

                     ギイヨオム アポリネエル

 アポリネエルの動物の詩などは、江戸時代の蕪村の俳句や川柳の諧謔にちかい感覚を感じる。しかし、当時の文壇では詩魂なき詩人 学的洞察なき詩人といわれ批判され孤立していった。

「敵」

赤門城にたてこもる
敵は大勢
身はひとり
しかも病身
弱法師

堪えて
忍んで
我慢して
命の長さで戦う以外
生き残る手はないと見た
40だった

 時代は次第に戦時色を強めそして戦争中は新潟県の妙高や上越市に疎開した。そこで郷里の人良寛の歌に出会い自らも良寛になった。

花はいろ そして匂い
あなたはこころ
そしてやさしさ

1950年(昭和25)年疎開から引き上げ湘南の葉山に移り住みボードレールの悪の華の翻訳などをし、詩作を続けた。

 第二次大戦後もシャンソンが流行し,新しいヌーベルバーグのフランス映画や思想家サルトルやボーボワールあるいはミシェルフーコは日本でも大きな影響を持った。
 そして1970年の始めの頃、中国では毛沢東の大文化革命が起こっていた。フランス知識人は輝かしいユートピアの幻想を見て評価した。同じように日本にもフランス知識人の影響は強くまた文化大革命を支持する文化人も多かった。

「毛沢東」

  いなずまが愛している丘
  夜明けのかめに

  ひとすじの苦しい光のように
  同士毛は立っている


                    谷川 雁

この頃を境にして,フランス文化はしだいに日本での影響力、魅力を失っていった。