日露戦争の戦後世代
時は過ぎた。さうして温かい刈麦のほめきに、赤い首の蛍に,或は青いとんぼの眼に、黒猫の美しい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も、何時の間にか幕はしい「思ひ出」の哀歓となっていく。
「思ひ出」抒情小曲集 北原 白秋
明治時代は、江戸時代と同様に正式な文章は漢文、書く小説は文語で、話言葉もまた各藩それぞれの方言がつかわれていた。漢学や蘭学が衰退し、西洋の学派とりわけフランス、ドイツ,イギリスそしてアメリカは近代日本の学ぶべき文明であり、文化芸術も日本に移植されていった。詩や和歌、俳句、小説も新しい時代をむかえ改革され、文語から口語へとしだいに転換していった。
明治時代の一時期文壇に明星全盛の時代があった。多くの画家がフランス世紀末芸術を取入れ、短歌の改革を試み、ぎりしゃ、ろうまあるいはきりすと教の神話信仰を象徴する美しい言葉をつかい、多くの神話にあらわれる星や、愛を表現する花々をちりばめあたらしい詩の世界をつくりだした。
日本は、1905年(明治38年)日露講和条約を結び、日露戦争は終結し列強の侵略の不安はなくなった。そして、日露戦争の戦後期ははじまる。
この星と菫の幼稚なロマンチズムの雑誌「明星」は1908年(明治41年)廃刊となった。かわって、1909年(明治42年)自然主義に対抗する、ネオ ロマンチズム「スバル」が森鴎外を顧問に、北原白秋、木下杢太郎、そしてパリから帰国した高村光太郎も加わり、時代の主流となり、現在もよまれている多くの作品が発表された。森鴎外は口語体の小説青年や雁などを、石川啄木はのちの一握の砂にのる多くの短歌をスバルで発表した。
かれら日露戦争後世代の若い芸術家はパンの会をつくり、あらたな文芸をうみだした。高村光太郎は、その時代を「常識打破、順俗軽侮のデカダン派と称されあらゆる方面の旧体制に盾をついた。」と、また「麗明して柑子実る異国趣味の海港に生まれ、西域文明の教養と官感とを修練し来た彼がごとき青年と、もともと長崎の近海に生れ、かの阿蘭陀芸術の余香に直接薫染して育った邪宗系のトンカジョン予が如きとが、その当時一見して共鳴し感激し歓喜しあった。」と木下杢太郎と北原白秋もその若い狂騒時代をふりかえっている。
北原白秋は1910年(明治43年)から「邪宗門」、「思ひで」、「東京景物詩」、「桐の花」を次々と世にだし、一躍時の詩人となる。
空に真赤な雲のいろ。
玻瑠に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。 邪宗門
邪宗門は赤の色彩ときらめく外光をとりいれ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法、黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、色赤きびいどろをといった言葉を連ねた。
杢太郎がスバル紙上で「邪宗門」をこの詩は暗示の詩である。感覚および単一感情の配置で、フランスの印象派にちかく、視官をもちいると評した。
杢太郎がスバル紙上で「邪宗門」をこの詩は暗示の詩である。感覚および単一感情の配置で、フランスの印象派にちかく、視官をもちいると評した。
表紙に赤いダイヤのトランプのクイーンを描き、長文の詩的序文の「思ひで」 を高村光太郎は現代の若いジェネレイションの内部生活の世界に新しい色彩と、未知の領域とを与へた事は近頃の文芸界に於ける偉観であると絶賛した。
白秋の鋭敏な感覚から生み出された情緒は、あたかも文字や音に色を感じ取る、視覚、聴覚、臭覚、触覚が味覚などの感覚が混ざり合共感覚者(シナスタジア)の世界を思わせるきらびやかな詩であった。
感覚
わが身は感覚のシンフオニー、
眼は尺八、
耳は鐘、
唇は笛、
鼻は胡弓
げに幻想のしたたりの
恐れと、おののきと、すすり泣き
匿しきれざる性のはずみを弾ねかえせ
美しきわが夢の、笛の、尺八の、春の曲。
大正時代に入り、柳川の実家が破産し、家庭の波乱もおこり生活にも困窮する。作風は、初期のきらびやかな色彩あふれる詩から仏教的世界観のあるがままの自然をうたう「白金之独楽」や「輪廻三抄」 「印度更紗」へとかわっていった。そして鈴木三重吉の「赤い鳥」で童謡を連作し発表。童謡作家の第一人者となる。
昭和になり、民衆派の詩人が西欧思想であるデモクラシー、プロレタリア思想を新興芸術派が新感覚派芸術やダダイズムによる詩や小説を流行させたのに対して白秋は自分の心象を表現するのは安直な自由詩でなく、短歌であるとしてその形式を続けた。
新古今和歌集を評価し、外国のものまねでなく日本の古来からある歌をあらたに蘇らせる新幽玄、新象徴主義の短歌を生み出そうとした。
新古今和歌集を評価し、外国のものまねでなく日本の古来からある歌をあらたに蘇らせる新幽玄、新象徴主義の短歌を生み出そうとした。
明治の末、大逆事件で堺利彦たち多くの人が、投獄され処刑され、関東大震災には大杉栄が殺害され、昭和になると加速度的に国内の状況は悪化していく中で、北原白秋は「この道」を赤い鳥で発表し、同じ頃愛国のうた「建国詩」もつくっている。
白南風の光葉の野薔薇過ぎにけり かはつ“のこえも田にしめりつつ
突撃路あへてひらくと爆弾筒 いだき爆ぜにき粉雪ちる間に
「白南風」1934年(昭和9年)大正15年から昭和8年までの作品
この短歌集で自然礼賛の詩と戦争の詩を並列してのせ出版した。
1929年(昭和4年)日本の古神道精神を近代に新たに再生するとして詩集「海豹と雲」を発表した。そして、しだいに国粋主義的となり、「第2海豹と雲」そして「ヒットラーユーゲント歓迎の詩」「海道東征」と国家総動員路線を主導した。
明治時代 感覚の鋭敏さで時代を先取りし流行をつくり出し、大正時代の童謡の流行にさきがけ、昭和にはいり、大衆の先頭にたって抒情詩のもつ郷愁、郷土愛を唱い、愛校歌、社歌で共同体の絆を強め、愛国歌謡、戦争詩歌で国民を鼓舞し,明治大正昭和にわたり時代の尖端を,時代そのものをつくる多くの童謡、民謡、詩や短歌を残し、北原白秋は「戦後」を知らず、1942年(昭和17年)に亡くなった。