雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねのふすまの岡辺
日に溶けて淡雪流る
島崎 藤村
島崎藤村は20代に、若菜集などの詩集で、明治時代を代表する詩人となる。椰子の実や初恋はいまでも多くの人に知られている。その詩は、新しい近代的感覚を古典的な美文、品格のある古語で表現した。その後「破戒」で始めての小説を発表し、代表作の「家」や「春」を新聞の連載小説で社会とその中に生きる人間性、自己の生涯を物語として描き自然主義の作家として確固たる地位を築いた。その後、50歳代の昭和4年から7年の歳月をかけて、自身の父親の生きた時代、現実を素材にした生涯の大作「夜明け前」を執筆した。
幕末から明治に日本が変動する様を、木曽の山中の旅籠屋での生活者、半蔵の眼を通し、その生涯の思いを描くことで浮かび上がらせた。誇張や思い入れのない穏やかな時代の流れを、京都と江戸の間の街道を行き交う人々からの伝え聞く話、馬籠の人々の会話によって、幕末から明治初期の30年の歴史を浮かび上がらせ、その意味を問いかけ、日本に残る歴史小説の代表作となった。
「江戸の世は、徳川世襲の伝統を重んじ、どこまでも権威を権威として、それを子の前にも神聖なものとして、譲っていきたかった。しかし、時代は混沌とし、大義名分を正そうとした水戸の大日本史などにより、中世の否定から、しだいに帝を求め奉るようになってきた。」そして攘夷の名によって倒幕に向う尊王攘夷は力を増していった。
まず先陣をきって水戸藩が倒幕の行動を起こした。初期の水戸学は、朱子学をもとにして、歴史を編纂し日本における天皇を正しく評価する作業を行った。後期には、徳川斉昭が尊王敬幕を唱え、その後、国体を主張する藤田東湖などが尊王攘夷を先導する思想となり、後期水戸学とよばれ過激化し、井伊直弼暗殺や安藤信正襲撃を実行した。
そして、水戸藩士1000人以上の天狗党が倒幕のため、京都に向うも目的をはたせず加賀藩に降伏した。この天狗党の木曽路での姿は規律正しい人々であったことは、その後の幕府の多くの者に切腹を命ずる重い懲罰が逆に幕府を追いつめていくことを暗示している。
倒幕の急先鋒水戸藩は内紛から自壊し、かわって薩摩と長州が倒幕を主導した。そして徳川慶喜は大政を奉還し江戸時代は幕を閉じる。
倒幕の急先鋒水戸藩は内紛から自壊し、かわって薩摩と長州が倒幕を主導した。そして徳川慶喜は大政を奉還し江戸時代は幕を閉じる。
倒幕を主導した国学は加茂馬渕の万葉集研究から始まり、本居宣長の「あはれ 上つ代は人の心ひたぶるに直くぞありける」「もろこしの古書、ひたすら教誡をのみこちたくいえるは、いとうるさし」として儒教精神を否定した。この後継者が平田篤胤で、半蔵の信奉する平田学派は幕末武士階級以外の信奉者が多く、庄屋、本陣,問屋医者もしくは百姓町民に広がっていった。理想とする社会は、「建武の中興の昔に帰ることではない、神武の創業ににまで帰っていくことである」として、下々にある人々の心から起った運動に支えられ、600年来の武家政治を終らせ帝の国をつくった。
人生をかけ、平田学を信奉した半蔵は、望み実現した帝の国、新政府のため、民人のために奔走する日々を送る。 しかし、理想は現実とはちがった、人々はいにしえの世よりも西洋の文物を取入れるのに急で、民人は新しい時代を歓迎せず、いくたの争う姿を目にするようになる。何かが違う、半蔵はしだいに深い心底からの違和感にさいなまれることになる。そして心の平衡を失いはじめる。
そして民は喜ばず、国学は国を動かせぬ、辞世の句「慨世憂国の士をもって発狂の人となす。豈悲しからずや」を詠んで半蔵は亡くなる。
半蔵の娘お粂にも、夢多く生真面目で、一途な気質が色濃くひきつがれていた。この気質は、平田学派と親和性が強く、多くの共鳴者、信奉者を生みだした。そして、「夜明け前」を発表した昭和になり、西欧化に対抗する国粋主義や国学が日本を動かし始めた。