2013/11/04

プーシキンとサンクトペテルブルグ





人々のために昼のざわめきが静まり 
ひっそりとした町の広場に
ほのかに白い夜の影と
昼のわずらいをなぐさめる
眠りとがよこたわるとき 
わたしはひとりしじまのなかに
くるしい不眠のときをすごす。
なすこともないまよなかに 
悔恨のへびがこころを咬む。
あまたの夢がうずをまき
うれいにみちたこころのなかに 
おもくるしい思いがひしめく。
おもいでが 音もなく
ながい巻物をくりひろげる。
わたしは嫌悪のこころをもって
おのれの生涯を読みかえし
身をおののかせ のろいの声をあげ
なげきつつ にがいなみだを流す。
けれども悲しい記録のかずかずは
もはや消し去るよしもない。          

                            思いで   プーシキン

 19世紀のロシア文学は世界に多くの影響を与え、特に日本では明治、大正時代の文学者にとって、その文学は宗教にも近い人間の魂や精神の深い部分を描いた教科書として読まれていた。プーシキンはその先駆者でロシア文学におけるシェイクスピアの立場をしめる。その後ドストエフスキーやトルストイが日本語に翻訳され最も大きなインパクトをあたえることになる。

 1799年貴族の家に生まれ、幼少時よりフランス語を学びフランス語で芝居を書き上げる。ナポレオンのロシア遠征軍を撃退したのは17才になった時で、フランスを中心にした西欧風の自由民権の思想がロシアにも入ってきた。

 ロシア平原は長い間,遊牧民族モンゴルの支配のため,国家をつくる事が出来ず、15から16世紀にかけてようやくロシア人の国家ができた。17世紀にはいりロマノフ王朝が誕生し、皇帝が地上の神となり専制政治を行い、農民は共同体の精神の中心にあるギリシア正教の信仰の下に生活し、個人主義のない,調和的農村共同体をつくり支配されていた。ロシアロマノフ王朝でも長く続いたこの専制支配に対する批判は19世紀にはいるとしだいに高まってきた。 19世紀前半いまだ皇帝の栄光が強固な時代にプーシキンは多くの詩や小説を生み出した。
 プーシキンはサンクトペテルブルグの街を愛し次の時代のドストエフスキーやトルストイなどの罪、信仰、愛などの人間の魂の深層を描き出した小説とは違った作風でロシア文学の基礎をつくり、いまでも国民的人気が高い。
 
 1933年長編叙事詩「青銅の騎士」を書く。

 私はおまえが好きだ,ピョートルの建築物よ、
 おまえの厳格な、均整の取れた景色が好きだ、
 ネヴァ川のゆるやかな流れが、
 町の大理石を洗う

 青銅の騎士とはピョートル大帝で,彼がフィンランド湾にそそぐネヴァ川に沿って1703年から膨大な資金をかけ多大な人力で新しく美しい都市を建築し,1712年遷都した。そのときの大洪水を題材にした物語が青銅の騎士でこの像はデカブリスト広場にある。
 
  叙事詩「エヴァゲーニ オネーギン」はサンクトペテルブルグの貴族社会の物語でタチアーナのネオーギンに対する勝利は、信仰と確信の喪失から生まれる空虚さに対する,ロシア人の正義感の勝利の象徴と評され、チャイコフスキーの有名なオペラとなり、 もう一つのオペラ「スペードの女王」とともに世界中で公演されている。スペードの女王は、エカテリーナ時代のサンクトペテルブルグを舞台に、ナポレオン的性格の主人公ゲルマンがトランプ賭博から老婆殺害、最後にスペードの女王が微笑する、鮮やかな幕切れのサスペンスである。また、プーシキンの短篇小説「モーツアルトとサリエリ」で、神がモーツアルトに与えた音楽の才能とそれを理解する能力を持ちながら曲をつくる才能を自身に与えなかった神の不公平さをサリエリがうらやみ嘆く心のうちを描き出した。これを原題に映画アマデウスが製作された。

 1836年には「そのとき古風な小説が,私の陽気な晩年をしめることになるだろう。もっとも悪業の陰微な責苦を、物凄く描いて見せようというのではなく、ただロシアの家庭の言い伝えや、うっとりするような恋の夢や、わが国の古代の習俗などを、語り伝えるにすぎないのだが。」と予言した「大尉の娘」を世に送り出し、翌年37才にして決闘で死亡した。