2011/05/30

20世紀都市構想

 20世紀の都市はル コルビジェ、ミース ファンデルローエなどの都市構想から生み出されたものです。その思想は、住居は住むための機械であるとして、装飾を排し、合理的、機能的な高層建築を建て、広い空間をつくりそれらをハイウエーでつなぐものでした。

 

 1926年にドイツのバウハウスの創始者グロビウスは近代建築による都市計画で、はじめて産学共同で、テルテン団地工場での生産のモデル開発をおこない、1932年には,ユンカース工業の2万人規模の労働者団地を創りました。その後、ドイツをはなれたグロビウスは第二次大戦後アメリカに渡り、ハーバード大学建築学部の教授になり、アメリカの大都市における近代建築の主導者として活躍します。



 またミース ファンデルローエは、バウハウスの最後の校長を務めていました。1933年、社会主義的学校としてヒトラーのナチス政権によってドイツにおけるバウハウスの学校が閉鎖されると、アメリカのシカゴに渡り、建築家として活躍し、20世紀の時代の象徴である鉄とガラスを材料にきわめてシンプルな建築をめざしました。



 さらに20世紀のモダニズム建築の代表であるワールド トレードセンターはこの時期 ル コルビジェの信奉者ミノル ヤマサキによって設計されたものでした。



 ル コルビジェの「輝く都市」の中の近代都市構想は、1950年代にアメリカの大都市において実現されていきます。 ニューヨークにおいてこの近代都市の実行役にあったったのはロバート モーゼスで,1939年の万国博覧会に、ゼネラルモータースにハイウエーで網の目のように結ばれた20世紀の都市モデルを提示させ、その後これを次々と実行に移してニューヨークのインフラを整備していきました。

 モダニズム建築思想に従って超過密のスラム化した都市の街並は撤去して、地域を整然とした区域ごとにまとめ、高層建築を建て、ニューヨーク市を空中に浮かぶ高速道路でつなぎ、ハドソン川には世界一高いアーチ式の橋梁ヘンリーハドソンブリッジをつくりその周辺には緑地帯の空間にプールや運動場、海岸に沿った公園や動物園もつくっていきました。




 この計画が最初に反対に合ったのが、ワシントン スクエアパークを横断する道路の計画を進めた時でした。この公園はジョーンバエズ、ボブ デュラン ピーター ポールアンドマリーらがギターをならして反戦を訴えた公園として有名であり、芸術家や近くの子供たちの憩いの場所でもあり、ジェイコブスの生活の一部でもある公園でした。多くの市民の反対運動の結果、高速道路計画は中止に追い込まれモーゼスの近代都市化計画の最初の躓きになります。

 


 1961年再びジェイコブスの住んでいたウエストビッレジ、グリニッジビッレジが荒廃地域に選定され、取り壊され都市再生の対象にされようとしました。この時ジェイコブスたちが中心となった住民の反対運動でこの再生計画は再び中止に追い込まれました。

 近代都市化理論を打ち破ったのが、このジェイコブスによるまったく新しい都市機能に関する考えでした。有名な著作「アメリカ大都市の死と生」の中で描かれた都市は、生き生きとした人びとの生活の場にするための4つの基本的条件として、まず第一に街路や地域はいくつかの重要な機能を果たすこと、二つめはブロックは短くて歩行者が心地よく感じられること、第三に建物は多様であること、最後は人口が密集していること。

 そして、理想の公園は、大人も子供も実際に使用できる庭園や施設が整っていて、都市の街路にかこまれたもの。といった20世紀型近代都市構想と真っ向から対立するもので、その後の都市計画のバイブルとなったものでした。



 超高層の建物と広大な空間が高速道路で結ばれるモダン建築思想は20世紀後半には、変更を余儀なくされ、公共交通による利便性の高い、歩行者にとって楽しい、活気あふれる街になるように都市は建築され、大きく時代が変化していきました。現在、ジェイコブスの思想は都市構想の原点となっています。



 参考 ジェイコブス対モーゼス    鹿島出版会

 

 

2011/05/04

チェルノブイリ


 1986年4月26日ソ連のチェルノブイリ原発4号炉で爆発事故発生。

 ゴルバチョフ政権下にあったソ連では、その30分後、ゲンナジー ベルドフ将軍が現地に到着。ただちに消火活動を開始するとともに、近隣の警官、民兵を動員して原子炉の施設を封鎖して、交通を遮断し,立ち入り禁止区域をもうけた。翌日原子炉に近いプリピャチ市の住民4万5000人が全員1000台以上のバスを連ねて避難。10キロメートル以内に住む住民は全員この区域の外に避難した。その後避難対象区域が30キロまでひろげられ合計13万5000人が他の場所に移住させられ、さらに,1万9000頭以上の家畜の移動も軍用トラックでおこなわれた。


 これらは、当初国内にも海外にも公表されることはなかった。事故の2日後スウエーデンでセシウム134が異常値を示し,世界中で報道された.モスクワ放送がこの事故をはじめて簡単に報道したのはチェルノブイリ事故から2日後の4月28日の夕方で、その後5月6日になって,重大な原子炉事故がおこったことが発表された。

 8月になって,ウイーンで国際原子力機関(IAEA)の会議が開かれその席で詳細な事故の報告がなされた。チェルノブイリには4基の原子炉があり、そのうち4号基が爆発をおこし大量の放射性物質が空中に放出され、それが風向きによって遠くの地上に落下した。原子炉の火災を鎮火させるのに12日かかり,ヘリコプターによる鉛、粘土、ホウ素,砂が大量に投下され、放射能漏れを防ぐのに5月初旬までかかった。


 また原子炉の水槽の水を排泄するための作業、炉心の下にコンクリート製の厚板と窒素冷却系の設置,そしてコンクリート30万トンを使った石棺造りがなされた。さらに汚染水が近くのドニエプル河排出されるのを防ぐためにコンクリート製の防御壁がつくられた。


 この原子炉の事故によって、一瞬にして,現在のウクライナ、ベラルーシロシアの一部の広範な大地が高濃度放射性物質に汚染され居住不能地域となった。そして,ソ連の科学力と国家の権威は傷つき,連邦解体の一因にもなった。


 チェルノブイリの原子力発電所の事故によって、約1万8000人の人々が入院、そのうち203人が放射線による骨髄不全のための骨髄移植などの包括的医療を必要とする障害をおこしていた。重篤な放射線疾患で治療をうけた203人のうち、生存者は174人で、死亡者は29人であった、爆発直後の死亡者がその他に2人いるので、直接の被曝による死亡者の合計は31人に達した。

 大量の放射線の被曝はいかなる治療でも救命できない一方、以前考えられていたよりはるかに多量の放射線に被爆しても人間が生存できることもわかった。



 この直接の被曝の他に、体内被曝による長期的影響が放射線にはある。生物は進化の過程でこの原子核反応の結果出来る物質の存在を想定していないため、臭覚,色覚、味覚などの5感で感知できないものは認識できません。そのため、たとえ放射線に汚染された食物の摂取、とりわけ牛乳などを飲んでもまったく自覚症状はありません。


 その結果、後になって明らかなことは、こどもたちが放射線ヨードをかなりの量摂取し、5年から10年以上たってから、甲状腺がんが多発したことです。これに関してはベラルーシの国立甲状腺がんセンターで5年間にわたり甲状腺がん治療に当たった当時の信州大学の外科医菅野ドクターの詳細な報告があります。



 2003年から2005年にかけ国際原子力機関や世界保健機構などが集まってチェルノブイリフォーラムが行われ、この事故による死者は合計数千人であったと報告しています。長期的健康被害についてはいまだ十分解明されているとはいえません。

 参考 :岩波新書 チェルノブイリ 著者R.P.ゲイル