「これから何が起こるか、思いも及ばない。ヨーロッパの魂は、原初の昔から縛られていた野獣だ。それが自由になれば、 最初に見せせる行動が好ましいものであるはずがない。労働者が工場主を殴り殺そうと、ロシア人とドイツ人が撃ち合いをしようと、所有する者が交代するだけなのだ。しかしそれも無駄ではあるまい。それによって今日の理想に何の価値もないことが証明され、石器時代の神々が一掃されるからだ。現在の世界は死を、そして没落を望んでいる。実際そうなるだろう。」
第一次世界大戦当時の欧州の時代精神を小説家のヘルマン ヘッセは書き記し、その時代の考え悩む青年の、精神の物語を、デーミアンで小説化した。1917年に発表された没落と再生の物語、全ヨーロッパ的文明の、一つの時代の没落と再生を示したエミールシンクレールの「鳥は卵の中から出ようと戦う」物語はドイツの戦後世代の多くの若者が求めていたものであった。。
ドイツ表現主義は1905 年にドレスデン工科大学の建築科の学生たちによって結 成された橋(ブリュッケ)とい う名の美術運動で始まり、1910 年以後は造形芸術のみならず、音楽、詩、散文、演劇など 芸術全般に広がっていった。印象派の視線は外部の自然に向けられていた、一方表現主義は魂、心のうちの現実の観察者となった。 ドイツ表現主義はフロイトなどの心理学の研究に大きな影響を受けた。フロイトは現実の表面にあるものの奥に、無意識の抑圧された欲望やトラウマがある。表現主義はこの抑圧された記憶や感情を作品で表現した。そしてユングの集団的無意識象徴主義の影響を受け、さらに神秘主義思想の影響もあった。
ドイツ表現主義の代表作、映画カルガリー博士が第一次対戦後に上演され、サイレントホラーの代表作となる。人間の内面を表現する、被写実的、幻視的な意識を表現する背景を3人の画家が共同して制作した、当時大衆社会が出現し、映画は多くの人々の関心の的となった。そしてワイマール共和国で生まれた表現主義の映画がドイツ映画の黄金時代を生み出した。
1886年オスカー ココシュカは生まれる。1908年「夢見る若者たち」で金魚の泳ぐ池や、鹿や鳥、蛇あるいは鹿の住むエデンの園の若い恋人たちを描いた。その後多くの肖像画を描き、 ココシュカは「肖像画において衝撃を与えるのは、顔や表現の仕方、身振りから直感的に得ようとした人物についての真実である。人の無意識の精神世界を明らかにするために絵を描いている。」とフロイト主義者、オーストリア最初の表現主義の画家を宣言した。 モデルの外見ではなくモデルの精神状態や感情気分を捉える絵、神経の絵画を発表した。「両親の手の中の赤ん坊」はあかんぼうと父親の赤みがかった左手と母親の白い柔らかな手で支えられる肖像は象徴主義的な家族の肖像であり、「遊ぶ子どもたち」でもまた子どもたちの無邪気さではなく5才の女の子と8歳の男の子の心の中の無意識の衝動を描き、のちにナチス政権下堕落絵画として、画廊から撤去された。
エゴンシーレもまたこの時代を代表する画家で、心の葛藤、情緒の不安定、実存的不安を人物画で表現した。1890年生まれのシーレはクリムトに見出され、銀のクリムトとして認められ、多く自画像を描いた。カンディン スキーは、1907 年頃から神秘主義者シュタイナーの信奉者となった。カンディンスキーによれば芸術作品とは、人間の心の奥にある無意識の振動を、精神的なもの として具現化したものである。そしてバウハウスで教壇に立ち、教育の実践をし、具体的な対象の描写は自らの絵には不要であるとして「抽象絵画」を完成させた。。
バウハウス運動はワイマール文化の中で国際的にもっとも大きな影響を及ぼした。ブルーノタウトのガラスのパビリオンはガラスを使ったデザインで感情に訴える建築を作り出した。そして多くの色彩建築、住宅団地を設計した。エーリッヒ メンデルゾーンは曲線で構成された不定形の天文台「アインシュタイン塔」を創み出した。1919年グロビウスによって総合的造形学校がワイマールに創設され、多くのモダニズム建築、デザインを研究その後の世界の建築や工芸に大きな影響を与えた。1933年ナチス政権によってミース ファン デア ローエが学長の時閉校させられた。
1920年代のドイツはハイパーインフレに陥り、政治は混迷し、かつての豊かさと、大国の地位が失われ、民主主義的価値観は混乱し崩壊していった。1933年にナチスが政権を握る。 ナチス政権は表現主義やダダイズム、シュールレアリズムなどを退廃芸術として排除し、古代ギリシャ、ローマの芸術を模範とした、健全なアーリア人精神を表現する芸術を推進する文化運動を起こした。政権はドイツ人の国、アーリア人の国、ゲルマン国家を再生させ、再び偉大な国家にすることを目指した。
