一般に、どの社会においても「嘘」が公然と通用しはじめるとき、その社会は足元から崩れ始める。信頼が、共同体を支える基盤であり、それが損なわれれば社会はもはや協力の共同体として機能しなくなる。そのため人々は、協力を持続させるための規範や倫理を生み出してきた。
日本でも江戸時代の小説家上田秋成は、小説自体が事実ではない物語で、小説家はそのため天罰が降ると考えていた。明治期に入ると、修身や道徳教育の中で「正直」は重要な徳目として強調され、信義に反することは人としての在り方に反するものとされていた。
しかし時代とともに情報技術の発展し、真実と虚構の境界が徐々に揺るがされるようになってきた。瓦版は新聞へと変わり、印刷物は大量生産され、やがてラジオやテレビが登場し、マスメディアという巨大な情報が生まれた。そして現代のSNS時代においては、フェイクとファクトは瞬時に、同一の速度と形式で拡散されるようになり、両者の差は急速にあいまいになっていく。その結果として、かつて前提とされていた「高信頼社会」は揺らぎはじめている。
そもそも、なぜ人間社会にはフェイクが生まれるか。それは人の予想する脳の機能から生まれる。ある表現が現実と一致するならばそれはファクトと呼ばれ、不一致であればフェイクとされる。この区別自体は単純である。しかし現実の人間にとって、世界は単純ではない。個人はつねに予測によって世界を創り出している。その構造は知覚の水準から社会制度にまで広がっている。
イギリスの医学雑誌に報告された一例は、このことを象徴的に示している。足場から飛び降りた建築作業員が、着地の瞬間に15センチの釘が足を貫通したと目撃し、その強烈な痛みによって、動くことすらできなかった。強力な鎮痛剤が投与され、その後に靴を脱がせてみると、釘は実際には足の指の間を通過しており、組織には損傷がなかった。しかし彼の痛みは本物であった。
彼が感じた激痛は、彼の脳が、見た証拠によって、重傷を負いそれによって引き起こされるはずの痛みを予想することで生み出された誤った知覚だった。脳は予想と感覚的証拠とを結びつけて、組み立てて経験とする。
同様の構造は慢性疼痛にも見出される。慢性腰痛などでは、組織的損傷が消失した後も痛みが持続することがあり、世界人口の約10%がこの状態を経験している。実際に起きた傷や骨折、炎症などの組織が傷ついた痛みと、神経の痛みの情報を処理して、痛みを感じるシステムが働き過ぎて、慢性の痛みとなる神経障害性疼痛がある。そして誤った予想が定着すると、ますます変わりにくくなることがわかってきた。この予測はプラセボ効果や瞑想などによっても変容しうることが知られている。
痛みは他の知覚と同じように、脳の予測と直接感じる知覚の相互作用によって形つくられる。そして人間の経験一般もまた、外界の刺激と、そこに先立つ予想や注意の置き方によってつくられる。したがって、私たちが「世界そのもの」をそのまま経験しているのではなく、無意識的な脳の予想と、注意する意識を通じて再構成された像なのである。
この予測生成の仕組みは、ときに機能不全を起こす。自閉スペクトラム症において見られる感覚の過剰や統合の困難さは、その一例として理解できる。日常的には容易に統合されるはずの感覚情報がバラバラででお互いに関連なくされたまま、全体としての意味をつくることが出来ない。その結果、知覚によってもたらされる感覚的事柄と過去の経験から得られた知識のあいだに橋がかからず、世界が断片としてまとまりがつくりにくくなる。
この「予測する力」は、個人の内側にはとどまらない。むしろそれは社会の構造そのものと重なり合っている。人間は共同体の中で言葉をつかい、相互にモデルを共有してきた。その過程で、本物と偽物を見分け、信頼する相手とイカサマ師を見破る方法を発達させた。信頼がなければ協力が成立せず、共同体そのものが維持できないからである。
やがて集団が拡大し、民族や宗教、国家といった大規模な共同体へと発展すると、話し言葉だけではなく文字による情報伝達が必要となる。言語は世界をモデル化し、それを物語として固定する装置へと変わる。宗教は意味の体系を語り、国家は歴史を語り、イデオロギーは未来を語ることで、人々を結びつけてきた。しかしそれらの「物語」は決して単一ではなく、ある共同体における真実は、別の共同体においては虚偽として現れることもある。このような多くの物語の競合のなかで、民主主義が一定の地位を得たのは、それが誤りを修正しうる仕組みを持っていたからであった。
そして最終的に、人間が陰謀論や単純な善悪の物語に引き寄せられるのもまた、この予測構造と無関係ではない。人は世界を理解するために仮説を立て、その仮説と一致する情報を「現実」として受け入れやすいようにできている。信じやすい脳はフェイクニュースもまた信じてしまう。