セヴァストポリ物語
1783年エカテリーナ2世の時代、黒海北部の沿岸地方はロシアの領土となった。現在のウクライナの土地の東側80%がロシア帝国の支配下におかれ,西部の土地20%がオーストリア帝国の支配下におかれ。そして、ウクライナ南部黒海に突き出たクリミア半島に黒海艦隊の停泊港セヴァストーポリが建設された。
「戦争と平和」に描かれた1815年のナポレオン敗北後のヨーロッパは圧倒的な海軍力をほこるイギリスに対し、大陸ではロシアが80万人を超える最大の陸軍をもち、当時GDPでも、イギリス、フランスをうわまわっていた。ロシアの南部に勢力を誇っていたトルコは弱体化しつつあり、その空白を埋めるようにロシア帝国は南下し、カフカス、トルキスタンもロシアの領土になり、ダーダネルスとボスポラス海峡の通行権と通商権を手に入れた。その結果ロシアの穀物は黒海経由でヨーロッパ各国に輸出されるようになった。ロシアは南下政策によって勢力をさらに地中海にまで伸ばしつつあった。
クリミア戦争は1953年ロシアのトルコに対する宣戦布告で始まり、ロシアの南下を恐れたイギリス、フランスがトルコに援軍を送り両軍で20万人以上の戦死者を出し、3年後に停戦した。停戦後この要塞からロシア軍は撤退し黒海艦隊は無力化され、イギリスとフランスの連合側が黒海の制海権を得た。
トルストイは26才の時、このクリミア戦争に従軍し、最大の激戦地セヴァストーポリ要塞の籠城戦の経験を小説にした。
この「セヴァストーポリ」は3部作からなり、第一部は1854年 12月のセヴァストーポリ 、第2部は1855年5月のセヴァストーポリで、これを雑誌「現代人」に投稿した。第一部で当時の街や人々の生活の様子,ロシア軍を生き生きとした文章で写生した。そして、第二部でこの激戦地の状況を感情を抑えた筆致で描き出し、戦場の兵士の勇気、愛国、悲惨さや戦場の陸軍将校の様々な情感、性格、思想といった心のうちまでを浮かび上がらせ、戦場の小説家として一躍トルストイの名声をロシア中にひろげた。
第3部の8月のセヴァストーポリはサンクトペテルブルグで書き上げた。コゼリツオーフとウオロージャ兄弟が物語の主人公に、要塞陥落のフランス軍とロシア軍の戦闘場面を映像的に描き出し、彼らの死を通して人間の宗教的運命を表現した。
弟のウオロージャはセヴァストーポリに着任、彼の心の動きを「子供らしい、脅かされやすい、狭い心は、急に大人らしくなり、明るくなって、ひろびろとした明るい世界をそこに認めた。 偉大なる主よ、ただなんじのみ聴きかつ知り給う。この単純であるが熱烈な、懸命な無知の祈り、漠然たる悔悟の祈りを。」そして、すぐにフランス軍との戦闘で死ぬ。生き残り要塞を後にする最後の場面でウラングは号泣する。彼の若い兵士に対する悲しみがその後トルストイの唱える非戦思想につながる。
この小説は後のナポレオンとの祖国防衛戦を題材とした「戦争と平和」のボロジノやモスクワ戦場における映像的な戦場の描写やアンドレイやまわりの将兵の人間描写、英雄主義の下での恐怖心、虚栄心、名誉心,などの人間描写でさらに洗練されたものとなってくる。
その後,ウクライナ地方はロマノフ王朝が第一次大戦とロシアのボルシェヴィキ革命によって滅亡し、短い期間ウクライナ国民共和国が生まれた。しかし最終的にはソビエト社会主義連邦共和国連邦の一部となり実質的に70年間ロシアの政治支配の下におかれた。