昭和35年(1960年)6月山崎豊子の白い巨塔が連載小説で発表された。
旧帝国大学医学部教授の椅子をめぐる壮絶な権力争い。外科教授の手術能力の過信と、その治療をめぐって対立する2人の医師財前五郎と里見修二の生き方をドラマッチックに描き上げ、社会派小説として日本中で評判となった。
昭和44年(1969年)「続白い巨塔」が単行本として出版された。小説は、「医療は神の祈りであることを忘れ、権力や名声などの白い巨塔の野望に破れた財前の魂を洗い浄め、鎮めるような荘厳ミサが、夜明けの清明澄な光の一つに溶け合って、里見の心を揺り動かした。里見の胸に初めて、財前の死を弔う心が強く深く湧き上がってきた。」で幕を閉じている。
昭和42年(1967年)札幌医大で和田寿郎教授による、日本で初めての心臓移植手術が行われた。これを題材として、渡辺淳一氏は手術に対する批判的小説を発表した。日本におけるドイツを模範とした医局講座制は,依然として強固であった。和田教授はアメリカの医療を身につけ、アメリカで学んだ卓越した心臓手術の技術を駆使して、移植手術は成功した、しかし拒否反応の合併症のためその後患者は死亡。そして手術の適応と脳死判定をめぐり社会問題となった。ドイツ医療がアメリカ医療に変わりつつある時代であったが、教授の権力はいまだ絶大であった。
当時札幌医大の講師であった渡辺淳一氏はこの経緯を「白い宴」でドキュメント風に描き、「ダブルハート」ではフィクションの世界で術者の野望、医局の人々、患者家族を描き北国の白い巨塔ともいえる短編小説を世に出した。野心家野津教授、主治医で心臓の摘出を担当する殿村医師のむなしさを通して、移植手術への懐疑を色濃く表現した内容となった。これを契機に渡辺淳一氏は札幌の大学をやめ、東京で小説家となる。和田寿郎教授もまた東京で心臓外科の教授として手術に邁進する。
渡辺淳一氏は、それ以前から医療を題材に多くの小説を発表している。昭和40年(1965年)に「死化粧」、昭和42年(1967年)には「霙」で重症身体障害者の現実の世界と医療従事者、親や家族の微妙な心の動きを描き、後の「雪舞」や「神々の夕映え」につながる。霙では北国の季節の移ろいと、人間社会の不条理、人の心の複雑さを描いた。主人公の柏木に「5ヶ月の胎児なら町の病院で堂々と堕せるんだけども、7ヶ月の未熟児なら夜も寝ないでつききりで助けなければならない。変な話でしょう」と語らせ、「分裂病などどうせ治らないんだろ」と主人公の虚無感を吐露させ、現在の障害児の胎児診断につながる問題、消極的安楽死の問題、医療技術の進歩では解決できない複雑な感情と社会をテーマに小説化した。
昭和45年(1970年)には「光と影」で直木賞を受賞、1980年代「遠き落日」や「長崎ロシア遊女館」でも吉川英治文学賞を受賞、流行作家となる。
その後「ひとひらの雪」や日本経済新聞社の連載小説「失楽園」で時代の尖端を行く作家として、題材は医療から男と女の世界の小説家としての評価が定着し鈍感力の流行語も生みだした。現代の近松門左衛門や谷崎潤一郎を目ざし、川端康成の「眠れる美女」を超えるのが目標と語った。
白い巨塔の話題になっている頃、田中角栄首相の1県1大学構想の下で新設された秋田大学に入学し、後に「ダイアモンドダスト」で芥川賞を受賞する医師、南木佳士氏がいる。その時代、いまだ医局講座制度は確固として残り,医学部のヒエラルキーは揺るぎないものであった。「冬への順応」の中で当時の受験生活と地方医大入学時の複雑な心境、その後の人生を私小説ふうに描き、また「医学生」の中で、地方の学生生活を主人公4人の姿を通して描いた。どちらも、実際の日常生活を淡々とした筆致で、私小説風のフィクションにしたものであった。
そして、昭和56年(1981年)カンボジア国境のタイの難民キャンプでの経験を素材にした小説がある。当時日本は初めて海外での難民救援医療で、日本のチームは外科病棟を担当した。限られた医療資源で救急治療をするとき必要なトリアージの考えが当時はなく、地雷や銃創患者に対応していた。これらの異国での診療の日々をやはり淡々とルポルタージュ風に小説化した「長い影」などの作品がある。
渡辺淳一小説のもつ,非日常的な鋭さとか、医療の根源的問題を取りあげることはなく、死と生の状況を日本の一地方の病院の日常として書き上げたのが「ダイアモンド ダスト」。ありふれた人々の生涯とその死の時にダイアモンドダストが舞って終わる物語で芥川賞を受賞した。
小説は、社会の中の人間像を描いた、山崎豊子の作品にみられる、社会的小説。人間の思想や人の心の複雑さ、恐怖、不安あるいは心の成長といったことを主題としたもの、そして,楽しみとしての物語、娯楽小説などがある。
渡辺淳一氏の初期の作品は、社会と人間、安楽死や生死にまつわる重いテーマを北国の風土とともに提示して、時代を先取りしていた。その後は、しだいに娯楽的流行作家の第一人者となる。南木作品は、娯楽とか社会問題とは無縁に医療を舞台にした小説を多く書いている。医療小説は生や死をあまりドラマッチックに描けば、虚構になる、社会問題が絡めば複雑になる。南木氏の作品は流行や波瀾万丈の人生や思想とは無関係のありふれた地方の日常の人々の生活を描き出した。そしてその文芸的純文学性に対して芥川賞を受賞した。